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第4話

 夜七時二十分。  店内はいつの間にか隙間なく埋まり、満席の熱気が肌をちりつかせる。  飛び交う話し声と氷の音に気圧され、柊一さんと自然に肩を寄せ合う形になる。 「……すごい人だね」  彼の耳元に届くよう、俺はいつもより声を潜めて囁く。 「美也子さんのライブ久々だからな、待ってたファンも居るだろうな」  柊一さんは堂々としている。これが普通だと言わんばかりに。  美也子さんは美人だし、色っぽいし。それでいて優しいし、面倒見がいいお姉さんだし。弱点を見つけるのが難しい人ではあるけど、ジャズシンガーとしての彼女は知らない。本当ならば俺は三年前に知っている筈だが、残念ながら酒に溺れて記憶にない。 「美也子さんってCD出してるの?」  手っ取り早く実力がわかる。CD出していればそれなりに認められてる人と思える。 「美也子さんはライブとサブスクの配信限定。CDはだしてないな」 「え?何で?」 「美也子さんなりのこだわりだ。ライブのクオリティ向上と最新の音楽を届けたいとかで」 「…??」 「ジャズだけじゃない、今の音楽シーン全体に言えること。今はCD出してるだけが実力者じゃないって事だ」 「そうなんだ」  そうとしか言えない。音楽なんて適当に聞いてきたから、俺が音楽業界の事まで知るわけがない。  しかし、言われてみれば俺もCDで音楽を聞いてない。もっぱらYoutubeやTikTokの動画かサブスクのアマプラだ。それらをスマホで聴いている。柊一さんの理論は至極当然ということか。  そうなると余計美也子さんの歌声が気になる。  夜七時二十五分。  開演5分前。フロアの照明がさらに一段階暗くなり、店内の空気がピッと張り詰める。BGMのジャズだけが軽やかに店内を流れていく。 「もうすぐ始まるね」 「ああ」  俺と柊一さんの顔が自然に近づく。お互いの声がベースの低音に消されそうになるため仕方がないとはいえ、これは恋人未満というにはあまりに刺激的な距離。  美也子さんの歌声は気になるけれど、それよりも柊一さんとの近さの方が俺には問題だ。  思いきり手を伸ばさなくても触れられる。今触れたら怒られるかなとか考えてしまう。 「柊一さん…」 「ん?」  柊一さんは俺に視線を合わせる。琥珀色のライトに照らされた顔は、皮肉屋で悪態ついている人の顔じゃなく、穏やかで無防備な顔。この近さでその顔は反則だろと言いたくなる。  更に古いウッドとウイスキーの香りに混ざって、柊一さんのつけている独特な香水やシャンプーの香りが鮮明に鼻腔をくすぐってくる。  これから美也子さんのライブだというのに頭の中は柊一さんで溢れかえりそうだ。 「なんだ、七瀬」 「な、な、何でもない」 「まさかオレンジジュースで酔ったんじゃないよな」 「そ、そんなわけないでしょ」 「だってお前、顔赤いし」 「そ、それは…」  言葉が出てこない、出るわけない。この状況をどう彼に説明すればいいのか良い方策が見つからない。どう言ったとしても笑われるだけだ。皮肉屋で悪態をつく彼に戻ってしまう。今の穏やかで無防備な彼へ伝えたいのに、俺にはいい台詞が見つけられない。 「可愛いヤツ」  彼は微笑みを見せながら囁く。俺はチリソース色に顔を一気に染める。 「飽きねえな、七瀬は」 「・・・・・」  俺は何も言い返せず、彼の囁きをただ真正面で受け取るだけだった。  BGMの音が止まり、ステージに人が現れた。  派手な演出はなく、ふらっと歩いて登場した。店内から拍手が沸く。俺もそれに倣って拍手する。  ステージ上では、ピアニストがポーンと音を鳴らし、ベーシストが「ズズン」と重低音を響かせている。奥の方ではドラマーがシャカシャカと砂のような音を鳴らしている。  これからライブが始まるんだ。  今まで見たことない(実際はあるけど憶えてない)ジャズライブ。今まで聴いてきた流行りのロックやポップスのミュージシャンでさえ、まともにコンサートやライブ行ったことがない俺が体験する未知の空間。柊一さんもステージに釘付けになっている。  一曲目が始まった。  ステージにはピアニストとベーシストとドラマーの三人だけ。肝心な美也子さんが居ない。 「柊一さん、美也子さん居ないよ」 「一曲目はボーカル曲じゃないからな」 「え?最初から美也子さん居ないの?」 「そういう演出だろ、ライブじゃよくあるな。美也子さんは二曲目には出てくると思う」 「そういうもんなの」 「そういうもんだ」  ジャズ特有のルール?を教えられ、俺は再びステージに目を移す。一曲目は有名なのかどうか知らないが、俺にはわからない曲だ。  だが、その生演奏の迫力は半端ない。俺の席はステージとの距離は離れていても、待ち合わせで使ったスタバを一回り大きくした感じの店内だから、さほど離れている印象はない。その分、ダイレクトに演奏が伝わってくる。  ベースは低い振動が床を伝って、自分の足元や心臓にズシンと響き、ドラムはシャーンという繊細な金属の響きが、耳元で空気を震わせ、ピアニストが開いたふたから豊かな音を聴かせてくれる。  これがジャズだと言わんばかりの洗礼に俺は言葉もなく聴き入っていた。  一曲目が終わると、拍手の中、颯爽(さっそう)と美也子さんが深紅のドレスを着てステージに立ち、マイクを握っていた。 「Good evening!お楽しみいただいていますか?ボーカルの美也子です」  この一言で盛り上がる観客とバンドメンバー。 「Thank you!素晴らしい演奏のメンバーに、もう一度大きな拍手を!」  美也子さん自身も拍手して、また盛り上がる。俺も喜びがこみあげてきて、拍手する。  美也子さんだ。間違いようがない、俺と柊一さんを繋いでくれた女神様がそこに居た。  二曲が始まる。イントロでわかった、にわかの俺でも知っている、いや憶えた曲。「Fly Me to the Moon」。  美也子さんの歌う「Fly Me to the Moon」ビロードのような厚みのある声が、直に肌を震わせる。圧倒的な声でステージを包んでいく。  柊一さんの傍に居た時とは違う、歌姫の顔。あまりの声量と美しさに、柊一さんと俺は会話を奪われ聞き惚れる。  『私を満たして、永遠に歌わせて』――「Fly Me to the Moon」のラブソングのフレーズが、そのまま柊一さんへの想いへと変わっていく。このまま手を伸ばして、その指先に触れてしまいたかった。  最後の残響が消え、嵐のような拍手が店内に満ちた。  弾かれたように同時に身を乗り出し、テーブルの上で顔を近づける。 「凄かった、美也子さん」 「そうだな」  お互いの息が触れ合うほどの距離で、自分たちの距離がさっきまでよりずっと近くなっていることに気づいた。  柊一さんがグラスを俺の方のグラスに寄せてきたので、俺もグラスを寄せる。お互いのグラスが重なり、カチンと小さな音をたてる。 「あんな風に『私を満たして』なんてストレートに歌われたら、なんだかこっちまで胸がいっぱいになっちゃうじゃん。……柊一さんは、どう?」 「どう、って?俺も同じ。あんな風に、真っ直ぐに心を満たしてって歌われたら、逃げられないな」 「俺が言っても?」 「さあな」  悪戯ぽく笑う柊一さん。上手く逃げられた感じがする。刹那、彼はステージへと視線を戻してしまった。つられるようにして、俺も視線を外す。  ステージの上では、割れんばかりの拍手がようやく落ち着きを見せ始めている。圧倒的な名演を終えた美也子さんが、胸に手を当てて深く一礼し、それからバックのピアノ、ドラム、ベースのメンバーと、満足げな笑顔で視線を交わしていた。  次の瞬間、ドラムのスティックが「チッ、チッ、チッ、チッ……」と、新しい、今度は少し涼しげなリズムを刻み始める。  視線は外したまま。だけど、美也子さんの熱演により柊一さんとの距離が物理的にではなく、精神的に近くなった。…少なくても俺は。  今度の曲は一転して、軽やかで涼しげな曲だ。この曲はよく知らない。  見知らぬ曲を歌う彼女の表情には、オペラのような激しさではなく、すべてを包み込むような柔らかい微笑みが浮かんでいた。  ふと、彼女の視線が俺たちのテーブルを(かす)める。まるで見透かされているような、あるいは背中を押されているような、そんな目配せに思えて、俺と柊一さんは同時に小さく息を吐いた。 「美也子さん、気づいたな」 「やっぱ、柊一さんもそう思う?俺もそう思った」  俺が応じると、柊一さんはついにステージから視線を外し、ゆっくりと俺の方を向いた。ランプに照らされたその瞳には、いつもと違う柊一さんの真っ直ぐな光が宿っている。こんな顔するんだなと俺は少し驚く。 「美也子さんがああやって応援してくれてるんだから、この曲が終わったら」 「終わったら?」 「……少し優しくして」 「考えといてやる」  相変わらず上から目線だ。だが、表情が違う。穏やかで温かい顔。美也子さんの歌の力のおかげか? 「……!」  テーブルの下で、どちらからともなく伸ばした指先が、静かに、だけどほどけないように重なり合った。あまりの出来事に俺はまた顔を赤らめる。 「ホント、七瀬は面白いヤツ」 「し、し、仕方ないじゃん…慣れてないもん」  悪態つかれるのには慣れた?けれど、甘い方の行動には免疫がない。  俺、高校生の時彼女いたんだけど、その時の記憶が柊一さんの出現により、吹っ飛んでいく。この際全部柊一さんの色に染まってしまえと思うほどに。俺って恋愛偏差値低いのかな…。  まだライブは始まったばかり。美也子さんの圧倒的なボーカルと美声に酔いながら、俺は柊一さんの沼に堕ちていく。

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