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第5話

 四曲目が終わった。  美也子さんが曲のタイトルを言う。全く知らない曲だ。もう少し勉強しとけば良かった。  続いて美也子さんがバンドのメンバーを紹介する。勿論、誰として知らない。  それより柊一さんの手が重なっているのが気になって仕方がない。ステージで頑張っている美也子さんには申し訳ないが、俺は俺で大変な事態なのだ。  触れたいと思っていた手は俺の手と重なりほどけることがない。体温が上がる。 「ありがとうございました。ここで少し休憩をいただきます。セカンドセットもどうぞお楽しみに」  ステージの上の彼女がマイクに向かって可愛らしく微笑み、メンバーと共にお辞儀する。  店内の照明が少しだけ明るくなり、それまで音楽に支配されていた空間に、客たちの話し声やグラスの触れ合う日常の音が戻ってきた。  張り詰めていた感覚の中で、俺は、繋いだままだった手に視線を落とす。  手を離すべきなのか、このままにすべきなのか。その小さな境界線に戸惑う。離してしまったら二度と触れられないような気がする。 「あ、美也子さん」  俺がそう言うと、柊一さんはステージから客席へ下りてくる美也子さんの姿を見つけ、それから悪戯っぽく俺を見つめた。 「柊一、お疲れ様。来てくれて嬉しいわ……って、七瀬君と一緒だったのね。どう?七瀬君楽しんでる?」  ステージで歌っていた歌姫は、その貫禄そのままで俺に話を振ってくる。 「初めてだったけど、楽しい!美也子さんすげーカッコいい!」 「ありがとう七瀬君、どう柊一は?」  柊一さんは俺と繋がっていない方の手をグラスから唇に移し、 「まあまあかな」 と、一言。美也子さんは笑って、 「相変わらずね。ねえ、柊一次のステージ、1曲だけでいいからピアノ弾いてくれない?久しぶりに柊一の音が聴きたいわ」 と、ねだってきた。  柊一さんのピアノが聴ける?願ってもないチャンスだ。 「断る。俺はもうただの物書きだ。それに、今日はこいつの連れ、保護者だからな」 「えええー!」  これはまたとない千載一遇のチャンスだ。俺は何が何でも柊一さんのピアノが聴きたい。 「あら、じゃあ七瀬君にお願いしてもらいましょう。ねえ、彼のピアノ、聴いてみたくない?」 「き、聴きたい!柊一さんのピアノ、すっごく聴きたい!!」  俺は目をキラキラさせて柊一さんの手を強く握る。 「……お前なぁ」  柊一さんは短いため息をついた。 「今日は少し優しくしてくれるんでしょ、柊一さん。お願い、1曲だけでもいいから柊一さんのピアノ聴かせて」 「ね、柊一悪い話じゃないと思うの。ライブも盛り上がると思うから、ね、お願い」 「……たく」  美也子さんの一押しが効いたのか、柊一さんは立ち上がる。重なった手は離れていく。 「美也子さん、一曲だけならつきあうよ。曲は?」  美也子さんは軽くガッツポーズを取ると、「そうこなきゃ」と言い、柊一さんをステージに連れていく。  残された俺は期待を胸に、柊一さんと繋がっていた手をもう片方の手で摩《さす》る。ようやく聴けるのだ、柊一さんのピアノ。  柊一さんの『いつか聴かせてやる』から何年待っただろう、今日やっとその時が来たのだ。俺は冷たいグラスの表面についた水滴を、指先でなんとなくなぞりながら、ステージの方をずっと眺めている。  柊一さんは、美也子さんと打合せをしているのか、話し込んでいる。その話し合いが終わると、柊一さんはピアノの前で上着のジャケットを脱いで椅子の背もたれにかけると、シャツの袖を少しだけ捲り上げていた。ジャズバーという空間も相まって、より大人の色気が漂う。  BGMが消え、美也子さんがマイクを持ち、柊一さんのほうを振り返っている。刹那、小さく、重く、ミステリアスな不協和音をぽつり、ぽつりと柊一さんは奏でる。  いったい何の曲だろう。俺の生半可なジャズの知識では全くわからない。 「My funny Valentine...」  呟くように美也子さんが歌いだす。  『My Funny Valentine』だ。これなら知っている。何度かリピートして聴いてたバラード。気怠くて、少し切なくて、夜の匂いがする曲。  執筆中にパソコンのキーボードを叩いている柊一さんの「あの指先」が、鍵盤の上を走る。  いつもクールで皮肉屋の柊一さんが、ピアノの前でどこか感情を剥き出しにしている。そのギャップがたまらない。俺はステージに釘付けになる。  女性の声が聞こえてくる。どうやら柊一さんを見て、「あのピアニスト、誰?すごく格好いい」とザワついているようだ。俺の好きな人は凄いだろって、思いっきり自慢してやりたくなる。  ふと柊一さんは客席の俺の席を見た。薄暗い照明の中、俺だけを見てくれてるその視線だけで、胸がいっぱいになり、興奮と恥ずかしさでまた顔を赤くし、今度は息ができなくなる。  曲が終わると、柊一さんは、割れんばかりの拍手の中、クールな顔のままステージを降り、何食わぬ顔で俺の元に戻ってきた。彼はジャケットを羽織りながら、 「……どうだった、七瀬。少しはジャズがわかったか。いい退屈しのぎにはなったろ」  俺は目をトロンとさせ、柊一さんを見上げる。 「…柊一さんずるい。カッコよすぎて、俺、もう、どうにかなりそう……」 「そうか。じゃあ、これ以上ここにいたらお前が保《も》たそうにないな」  柊一さんは納得したような笑みを浮かべてる。スタッフを呼び、レシートを挟んだ伝票を渡しつつ、 「チェックを。……犬の躾《しつけ》の続きをしに帰る」  犬の躾《しつけ》って何?俺はとろけた顔のまま柊一さんの声を聞いている。 「帰るぞ、七瀬」  柊一さんは俺の肩を軽く掴む。 「…え?もう帰るの?」 「言ったろ、これから犬の躾《しつけ》の続きをしなきゃってな」 「え、ええ?!」  俺は何が何だかわからないまま、ぽかんと口を開け柊一さんの顔を見る。 「帰るぞ、七瀬」  俺は柊一さんに急かされ、ジャズバーを後にする。 「タクシーを頼むから少し待ってろ」  柊一さんは、スマホで何か操作している。冷たい夜空の下、俺は隣でぼうっと何も言わず、柊一さんを見ていた。  先刻までピアノを弾いていた「手」。中性的でしなやかな柊一さんの「手」。この手があの音を、あの熱狂を生み出したんだ。柊一さんと美也子さんとのセッションは凄かった。柊一さんのピアノがあんなにカッコいいだなんて知らなかった。カッコよすぎて言葉がうまく出なかった。俺の熱を帯びた視線に気づき、 「どうした、静かだな。もう眠いのか?」 と、ポツリと声を掛ける。それに対し、俺は何も言わずただ首を横に振るだけ。柊一さんはただ笑っている。  俺は、スマホを持っていない方の柊一さんの大きな手を、両手でそっと包み込むように握る。柊一さんは俺の手を弾かなかった。俺は、綺麗な音を奏でていた指先を、自分の頬に寄せる。 「……この手、ずるい。あんな綺麗な音出すなんて、ずるい……。俺、あの曲のとき、柊一さんに心臓ぜんぶ持ってかれた……」 「大げさな奴。ただの鍵盤楽器だろ」 「でもずっと聴かせてくれなかったじゃん」 「大した話じゃないからな」  俺は首をぶんぶん横に振る。 「大した話だよ……柊一さん…すごかった……あんなの、ずるい、カッコよすぎて……俺、もう、柊一さん以外じゃダメ」 「なにがダメなんだよ」  柊一さんは更に満足げに笑んだ。 「あと少しでタクシー来るから待ってろ」 「…うん」  深夜の新宿、大通りから外れた狭い裏通り。  ネオンの喧騒が遠のき、頭上にはビルの隙間から冷たい月が顔をのぞかせている。  すべてを見届けるような月光を背に浴びながら、俺と柊一さんはそこに居た。  ほんの些細な時間の隙間で。

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