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11 新生活のはじまり

 引っ越しの日程は、あっという間に決まってしまった。  オタクの引っ越しで一番大変なのは本とグッズの荷造りなのだが、それは少しずつ楓の車で運び込むことにして、大型家具と家電だけ、最後に引っ越し業者に頼んで運ぶことになった。  ちなみに、引っ越し先は、もともと住んでいた場所から車で一時間ほどかかる。  楓の通勤が大変になるのではないかと心配したところ、なんでも、引っ越し先の近くに新店舗ができるとかで、そっちのオープニングスタッフに楓が選ばれたということもあって、引っ越し先にその地域を選んだらしい。 「先輩、締めきり間に合いました?」 「なんとか……」  青白い顔で新居に現れた雪希を、楓は心配そうに見下ろしてくる。  引っ越し先で待機し、引っ越し業者が運んできた荷物を引き受ける役目を任された楓に対し、雪希はトラックに積む予定の荷物をすべて業者に引き渡したあと、旧自宅に残ってタブレットで原稿の仕上げ作業をやっていたのだ。  電車で移動してきた雪希が到着した時には、引っ越し業者はとっくに引き上げたあとだった。 「すみません、今回はあんまり原稿手伝えなくて」 「いいよ。こっちこそ、僕の荷物の荷造りと運び込み、任せっぱなしにしちゃってごめん」  本を箱に詰めようとすればついつい読み返してしまって進まず、グッズを箱に詰めようとすれば、輸送中に箱の中で傷つかないか心配になって無駄に手厚く梱包しようとする雪希を見かねて、途中から楓がやってくれることになったのである。  雪希がやったことと言えば、どの箱になにを入れるか指示したぐらいだ。役立たずもいいところである。自分の荷物なのに。  連載している漫画の作業以外にグッズ用の描き下ろし絵や、挿絵の仕事が重なっている時期に引っ越しまで重なって、雪希は最近、ずっと寝不足だ。 「とりあえず寝ます?」 「でも、まだ荷ほどきがひとつも……」 「急ぎのやつってあります?」 「えーと……」  タブレットは直接リュックに入れて持ってきたし、着替えは、最低限必要なものが揃っている箱に印をつけてあるので、開けようと思えばいつでもすぐに開けられる。  食事に必要なものは……引っ越し初日に自炊をする気はもともとないので、歩いて五分ほどのところにあるコンビニに行けばいいだろう。 「ない、かも」 「じゃあ寝ててください。ベッドは先週届いて組み立ててあります」  ふらふらとした足取りで屋根裏部屋まで上がると、確かにマットレスまで敷かれたベッドが、斜めになった天井兼壁の片側に設置してあった。肝心のシーツなどの寝具はまだ未開封の状態でそばに置かれていたが、雪希がぼんやりと突っ立っている間に、楓が手早く準備してくれた。 「なんか、ペンションみたいだね」  ベッドに寝るのは久しぶりだ。自宅ではいつも、布団を敷いて寝ていたから。ベッドに寝るなんていうのは、旅行先でホテルに泊まった時ぐらいだ。  どこか非現実な気分になってきて、ふわふわと誘われるようにベッドに倒れ込む。  眠りに落ちるまでは、一分もあればじゅうぶんだった。  高校の修学旅行でホテルに泊まった時の夢を見た。  あの時は三人部屋で、部屋割りはくじ引きで、同じ部屋に割り当てられたのは、友達と呼べるほど仲がいいクラスメイトではなくて、でも決して悪い人たちではなかった。  雪希以外の二人は普段から仲がよかった。 『友達のところに遊びにいってもいいよ』  自由時間にそう言われて、曖昧に笑うことしかできなかった雪希は、『疲れたから、ちょっと休んでるよ』とごまかし、夕飯の時間までずっとベッドの中にもぐりこんでいた。  友達なんていなかった。  最低限、嫌われないように愛想よくする術は身につけていたから、たまに喋る相手はいたけど、休日に一緒に遊びに行くような相手は一人もいなかった。  休日はいつも家にこもって漫画を描いていた。  放課後はいつも美術室で漫画を描いていた。  雪希の高校の美術部員は、幽霊部員ばかりだった。  ふたつ上の学年の先輩たちは熱心な人が多かったけど、その人たちが卒業すると、美術室には誰も寄りつかなくなった。  顧問の先生は定年間際のおばあちゃん先生で、年に二回ほど、作品展用の作品を仕上げればあとは自由に美術室ですごしていいと言ってくれたから、雪希だけは美術室に通い続けた。  早く帰って部屋に引きこもっていても母親にはいい顔をされないから、ちょうどよかった。  ポーズだけでも『部活、がんばってます』という感じにしておけば、いろいろと都合がよかったのである。  作品展用の作品作りは簡単ではなかったけど、おばあちゃん先生が教えてくれる油絵は、思いのほか楽しかった。  高校時代に漫画家デビューしたことを、母には絶対言えなかったけど、その先生にだけは話していて、時々相談に乗ってもらっていた。  大学に入ってからも、友達がいるようないないような、曖昧な状態が続いていた。  それでいいと思っていた。  結婚式に呼んでくれるような友達ができたのは、楓に出会ってからだ。  楓と一緒に行動していると、なぜか人に声をかけられる機会が増えたのである。  そのうち、楓が隣にいない時も声をかけられたり、飲み会に誘われるようになった。 『星宮って、話しかけづらい印象あったけど、話してみると意外とおもしろいよな』  そんなことを何人かに言われた。  つまりは、秋吉楓みたいなやつが仲良くしているぐらいだからおもしろいやつなのかもしれない、という勝手な想像が、話しかけるきっかけになったみたいだった。 (楓くんがいなかったら、今頃僕は……)  ゆらゆらと意識が浮上してきて目を覚ますと、ちょうど頭の真上にある窓から、西日が差し込んできていた。  木のぬくもりを感じさせる屋根裏部屋が赤く染まって、やけに郷愁を感じさせる光景が広がっている。  むくりと起き上がって、やけに広いベッドだなぁと思った。  家の布団より大きい。  シングルではないならセミダブル? いや、ダブルかな? 「……ていうかなんでベッド、ひとつしかないんだ……?」 「あ、先輩、おはようございます。新しいベッド寝心地、どうでした?」  二階に降りると、楓が洗濯機の設置をしている最中だった。 「寝心地はよかったけど……なんでダブルベッドなの?」  最初の話では、シングルベッドをふたつ屋根裏部屋に置く予定だったはずだ。 「あれ? 先輩、覚えてないんですか? ベッドを二つも置いたらソファが置けなくなるし、テレビを置く位置が微妙になるから、ベッドをひとつにして一緒に寝ようって話になったじゃないですか?」  おそらく雪希が寝ている間もずっと作業していたのだろう楓は、たいして暑くもない室内で、手の甲で汗をぬぐいながら答えた。 「……そうだっけ?」 「もしかして原稿中で、適当に頷いてました?」  家具屋を見てきたけどベッドの種類をどうしようか、という内容の電話がかかってきた記憶はうっすら蘇ってきた。  しかしその時、雪希は面倒な作画の作業中で、半分上の空だったので詳細までは思い出せない。 「……そうかも」 「あ、ちなみにあのソファ、背もたれの部分を倒せばベッドになるタイプのやつなんで、先輩が嫌なら、オレはそっちに寝てもいいですよ」  ソファも新品で、座り心地はよさそうに見えたが、寝るとなると話は別だろう。  さすがにそれは申し訳ない。 「……楓くんは、さ……男と同じベッドに寝るのは平気なタイプなんだ……?」 「先輩と一緒に寝たことならありますよね?」  数年前、とあるアニメのイベントで大阪まで行った時、ツインを予約したはずが、雪希が間違えて、ダブルの部屋を予約してしまった時の話だろうか。  気づいたのは当日で、その時すでにツインの部屋は埋まっていたから交換してもらえなくて、仕方なく同じベッドに寝たということなら、確かにあった。 「先輩、寝相いいしいびきとかもないし、まったく問題なかったですよね? オレも多分、先輩に迷惑をかけていなかったと思うんですが」 「楓くんも寝相よかったよ」  修学旅行みたいで楽しかった。  楓が同級生で、同じクラスで同じ部屋で一緒に修学旅行に行けたならどんなによかっただろう、と心底思ったぐらいである。 「先輩のアパートによく泊まって、隣に布団並べたことも数えきれないくらいありますし」 「それは……確かに」  締めきりが近い時など、『お願いだから、もうちょっと手伝って』と雪希が懇願して、終電よりも遅い時間まで原稿の手伝いをお願いしたことも多々ある。 「だったら特に、問題ないんじゃないですか?」  爽やかな笑顔とともにさらっと言われて、『それもそうかな』という気分になってきた。 「あ、でも先輩が一人で寝たくなった時はほんと、屋根裏部屋のソファでもリビングのソファでも、オレ、どこでも寝れるんで、遠慮なく言ってください。なんなら、客用の布団もあるので」  楓は基本的に雪希の嫌がることはしない。たまに辛辣な意見を言ってくることはあるけど、あくまでも雪希の立場と気持ちを尊重して行動してくれる。  だから、仮にもしケンカすることがあってもなんとかなるか、という気がしていた。 「大丈夫だよ、楓くんなら」  深く考えずに、雪希はそう答えていた。  そこに友情以上の気持ちは存在しなかったけど、絶対的な信頼感が、拒否するという選択肢を無意識に排除していた。

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