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15 僕ときみの距離
「……ごめん。ありがとう。ほんと嬉しいよ。楓くんの気持ちを汚すようなこと言って、ほんとごめん」
「いえ、下心があって同居したわけではないことを理解していただければ、それだけでじゅうぶんです。……でも」
いったん言葉を切ってから、楓は顔を覆ったままの雪希の頭に、そっと控えめに、撫でるように触れてくる。
「人を愛することの美しさを描く天才が、自分のこととなると、『誰かを好きになってもきっと迷惑にしかならない』なんて考えてるというのは……なんか、寂しいですね」
優しい声だった。それだけに、胸が痛くなる。
「……幻滅したよね。ごめん。でも、僕の作品は僕自身ではないから……これからも読んでもらえると嬉しいな」
「もちろん読みますよ。ユキ先生の一番のファンはオレですからね。あと、幻滅したというのは違います。先輩は……いえ雪希さんは、もっと人に愛されるべき人だと思うので、誰かに好きになってもらいたいと考えることすらおこがましいとか、そんな悲しいこと、思わないでください。オレは雪希さんのこと好きです」
「……ありがとう。お世辞でもそんなふうに言ってくれる人が、この世界に一人でもいてくれると思うだけで……なんか、救われた気分になるよ」
救いようがないほど愚かでどうしようもない自分を変えられたわけじゃないけど、少しだけ、気分が軽くなったように感じられる。
「お世辞じゃないです」
柔らかな声が、急に硬質な響きを帯びる。
もしかして怒らせたのだろうかと思い、おそるおそる、視界を塞いでいた手をおろしてみれば、楓はなんとも説明のつかない、複雑な表情で雪希を見下ろしていた。
「前に、駅でオレが言った『好きな人』って誰? って話ですが、オレが言ったのは『興味がある人』で、好きな人とは言ってませんよ」
「えっ、そうだっけ!?」
言われてみれば、そうだったかもしれない。
雪希の中では『興味がある人=好きな人』だったので、勝手に頭の中ですり替わっていた可能性が高い。
「ごめん! 勘違いしてた」
「ちなみに、その時言ってた『興味のある人』は、雪希さんのことです」
「僕!?」
予想外すぎて、声が裏返ってしまった。
「下心がなかったというのは本心です。恋人になりたかったわけじゃないのも事実です」
「そ、そうだよね……!?」
「肉体関係を結びたいとかも、考えたことありませんでした。ただ……そばにいたかった。美味しいものとか、おもしろいアニメを見つけたらオレに一番に教えてほしかったし、嫌なことがあったら、SNSじゃなくてオレに直接愚痴ってほしかった。仕事じゃない、個人的な絵をオレにも描いてほしかった」
「…………」
恋と呼ぶにはあまりにも幼い、子供みたいな独占欲を吐露する楓は、あまりにも真剣そのものだった。
「付き合うとか付き合わないとかの話じゃない、って言ってたのは、そういうこと?」
「はい。オレたちは二人とも似た者同士で、だからこそ、そばにいて心地いい相手で……ずっとこのままでありたい、とオレは望んでいたんです」
そばにいる以上のことを求めない。それは、普通の恋人同士であったなら、ありえないことだろう。
だから、自分たちの間に恋愛関係は成立しなかった。
「もしかして、さ……僕が楓くんのことあからさまに『好き』って言ったり、色目で見たりしないから、安心して僕のそばにいられた感じ?」
「え……はい。バレちゃいました?」
気まずそうに、楓は苦笑いを浮かべた。
「きみに近づく人はみんなきみのことが好きで、きみに愛されたがっていたからね」
職場ではどうだか知らないが、大学ではそんな人ばかりだった。楓の恋人になりたい女の子も、楓の友達になりたい男の子も。
「雪希さんは……僕に助けを求めることはあっても精神的な繋がりまでは求めてなくて、いつ離れたとしても追いかけてはこないんだろうな、っていう不思議な距離感がありましたね」
「基本的に、一人は慣れてるからね。人に嫌われるのも慣れてたし」
「そういうところが、逆にほっとけなかったのもありますよ。あと、ほっとくとなにをやらかすかわからないから心配で」
「…………」
褒められているわけではないことは伝わってきたが、事実なので黙り込んでしまう。
「卒業論文も、八割方できあがってたのに、締め切り直前になっていきなり『こんなんじゃダメだ』とか言い出してデータ丸ごと消して、別のテーマでやり直し始めるし」
「……その節はどうも、お世話になりました」
仕事の締め切りも重なって、精神的にどうかしていたのである。
楓が資料集めを手伝ってくれてなんとか間に合ったが、本当にギリギリで、一歩間違えば留年するところだったのだ。
「あの時、雪希さんのことバカにしてる人たちもいましたけど、雪希さんとしては真剣に考えた結果だってオレは知ってたので、むしろ応援したくなりました。……他人から見える雪希さんの姿と、雪希さんの立場から見た雪希さんの姿って、けっこう別人レベルで違ってることが多いじゃないですか。SNSでの言動が、もろにそうですけど」
理解されないことにも慣れていた。だけど、楓だけはいつも、風評に惑わされずに、雪希本人の話を聞いてくれていた。
「そういうのも含めて、常に予想外でおもしろいなって」
「……物珍しい人種だったから、王道よりも邪道を好むきみの性癖を刺激したことはなんとなくわかってきたよ」
「でもオレ、今だから言えますけど、雪希さんがいいって言うなら、一般的な『恋人』っていう枠におさまってもいいかな、って思ってますよ」
「……意味がちょっと、わからないんだけど」
いま、そういう話の流れだったっけ?
楓もたいがい予想外だ。
「えーと、たとえば、誰かにオレたちの関係を聞かれたら『恋人です』って宣言したり、もしオレに興味があるっていう子がいたら『秋吉楓は僕の恋人だから』と牽制してもいいって話です」
恋人って、そんなものだろうか。もっと他にもなにかあった気がする。
「キスもえっちもしてないのに!?」
「じゃあ今からしますか?」
「え」
「冗談ですけど」
「だ、だよね……」
ほっと息を抜いた瞬間、頬にちゅっとされる。
「考えといてください。嫌なら嫌でけっこうです」
雪希が呆然と目を見開いている間に、楓は立ち上がった。
「すみません。これから仕事なので、そろそろ行きますね」
「あ……」
時計を見れば、すでに七時を回っていた。早く目が覚めたのに、だいぶ話し込んでしまったようだ。
「雪希さん」
「は、はい」
階段を降りる直前、楓がなにか思い出したように顔を上げた。
(ていうか、名前……)
話の途中から『先輩』ではなく名前で呼ばれていたのは気づいていたが、そのまま戻さないつもりだろうか。
ずっと『先輩』だったので、なんだか落ち着かない。
「冷蔵庫のプリン、賞味期限が今日までだったので、今日のうちに食べちゃってくださいね」
「楓くんは食べなくていいの?」
プリンは三個セットで、すでに一人一個ずつ食べたから、残っているのは、誰のものでもない余りだ。
「はい。……他に食べるものは……」
「お昼はレトルトカレー食べるから大丈夫だよ。残りご飯もあるし」
「それならよかったです。あ、夜、もし手が空いてたら、外で夕飯食べませんか? 職場の人に、おすすめのレストランを教えてもらったんです」
「レストラン?」
「そんな堅苦しいところじゃないはずなので、普通の服で来れば大丈夫ですよ。寝癖だけ直してきてください」
慌てて頭に手を伸ばす。
さっき楓が撫でていたあたりが、ぴょんと跳ねていることに今さらながら気づいた。
「時間は?」
「七時ぐらいに駅前の時計台のあたりで待ち合わせでどうですか?」
「大丈夫。それまでに仕事片付けていくよ。……迷子にならないように気をつけるね」
「迷子になったら、できるだけ早急に電話ください。……行ってきます」
ちょっと笑いながら、楓は階段を降りていった。
雪希が渡したクロッキー帳をちゃんと脇に抱えているのが見えた。
久しぶりに油絵の具でも引っ張り出して、大きなキャンバスに楓の姿を描いてやりたくなった。
でも、油絵の具の匂いが体につくとなかなか取れないから、今日はやめておこう。油くさい匂いを漂わせてレストランに行ったら『またなにやってたんですか』と楓に言われてしまう。
夕飯を食べに行くって、もしかしたらデートというやつに該当するのだろうか、と雪希が思い当たったのは、それから三十分後のことだ。
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