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21 手が届かないと思っていたもの

 小さい頃、月には宇宙人の基地があって、そこから地球は観察されている、と本気で信じていた頃があった。  多分、そういう感じのアニメを見ていた影響だ。  実際のところ、月は人が住めるような場所じゃない、とわかった時にはひどくガッカリした。  だけど今も、月を見ると誰かがそこにいるような気がして、つい魅入られてしまう。  天窓からちょうど月が見えたので、そんなことを思い出しながらぼんやりしていたら、いつの間にかうとうとしてしまっていた。  今日は久々に外出して、美容院に行ったり買い物に行ったりしていたから、自分で考えていた以上に体は疲労していたのだ。  束の間の夢の中に、楓が出てきた。  まだ大学生で、初々しさが残っていた楓。  オタクとは無縁そうなあのイケメンの口から『先輩……百合って尊いですね』という言葉が出てきた時の衝撃は、一生忘れないだろう。 『こんなふうに人を好きになれたらいいですね』と春の日の穏やかな日差しを思わせる顔で笑っていた……あの時と同じ気持ちで、楓は僕のことを好きになってくれたのだろうか?  唇になにか触れてくる感触に気づいて、夢が途切れた。  名残惜しく思いながらも目蓋を持ち上げたら、ついさっきまで夢の中で見ていた姿よりも大人びた顔が目と鼻の先にあった。 「……?」  いま、なにかされた気がした。  だけど、寝ぼけた状態ではさっぱり頭が回らなくて、やけに熱っぽい眼差しで見下ろしてくる茶色がかった瞳を、ぼんやり見上げることしかできない。 「せんぱい……」  顔が近づいてくる。もう一度、唇になにか触れた。  そこでようやく、キスされたのだと気づいた。 「ふ……」  なんで? と聞きたかったけど、唇が塞がれているので、声が出ない。  なんで、こんなことされてるんだっけ? 自分たちは先輩後輩の仲で……ああ、でも、さっき、恋人になったんだっけ? (キスってこんな感じなんだ……)  創作ではさんざん描いたことはあっても実体験はなかった雪希は、創作の参考資料にならないかな、と思いながらしばらくされるがままになっていた。  薄く開いていた唇の隙間に舌を差し込まれるのは完全に想定外で、ビクリと肩が揺れる。 (ディープキス……ディープキスだ!)  ぬるぬるした舌を絡められる。  最初はちょっと気持ち悪かったけど、だんだん気持ちよくなってきた。 (楓くんて、こんなキスするんだ)  正直なところ、もっと淡泊かと思っていた。  舌の根まで絡められて、体の奥に、ゾクゾクとした感覚が広がっていく。  飲み込みきれなかった唾液が雪希の唇の端からたれて、いやらしいことをしているような気分になってくる。 「や……」  これ以上は、ダメな気がする。  さんぜん舌をねぶられたあとに、雪希は今さらすぎる拒否を示すため、楓の胸を押し返した。 「すみません、寝込みを襲うような真似して」 「ほ、ほんとだよ」  いつも紳士的な楓らしくない。 「先輩はもうオレのものなんだ、と思ったら嬉しくて」 「…………」  貧乏くじ引いたって後悔してない? と聞きたくなったけど、楓があまりにも甘ったるい表情をしているので、なにも言えなくなった。 「先輩、キスの時、かわいい顔するんですね」 「~~~~っ! お酒、お酒飲もうよ!」  羞恥に耐えきれずに、雪希はわざとらしく大きい声を出した。 「いいですよ。持ってきました。どっちから先に飲みます?」  雪希が選んだ缶チューハイは、二種類ともテーブルの上に用意されていた。 「か、乾杯……」 「乾杯」  二人が持った白い缶と缶の端が軽くぶつかり合う。  ぎこちなく、二人だけの飲み会は始まった。 「屋根裏部屋にも冷蔵庫がほしいね。小さいやつ」 「確かに。今度のオレの休み、先輩の都合がよければ、電器屋を見に行きますか?」 「そうだね。駅前の電器屋さん、けっこう安くてよさそうだったよ」  会話自体はごく他愛ない内容であったが、雪希はずっと緊張しっぱなしだった。  ソファで隣に座った楓との距離が、いつもよりも近いから。  楓は常に、誰に対しても、他人との適度な距離感をわきまえているタイプで、遠すぎず近すぎず、当たり障りのないポジションにいることがほとんどだったが、今は、満員電車でもないのに、膝が触れあうほど近くに座っている。 「……スケジュール、確認してみるよ」 「ついでに、ほかに必要なものがあったら言ってください」  楓の声も、いつもと違う。  喋る内容自体はいつもどおりなのに、声がいつもよりも甘い。 (これが対恋人モードってやつ!?)  楓くんの恋人になる人は大変だ。心臓がもたない。あれ、でも楓くんの恋人って、僕なんだっけ?   できるだけ平静を装いつつも、雪希は脳内で一人漫才を繰り広げるほど心乱されながら、楓が選んだロールケーキを食べた。  何度も食べたことがある定番のロールケーキなのに、いつもよりも甘ったるく感じられて、口直しも兼ねて、雪希は勢いよく酒を口に流し込んだ。  二本あればじゅうぶんだと思っていたのに、缶チューハイが二本とも空になるのはあっという間だった。 「あれ? 先輩、もう飲み終わっちゃったんですか? オレの分も飲みます?」  よく見れば楓はまだ、一本目が空になったところだった。喋りながらゆっくりちびちびと飲むのが好きなタイプなのかもしれない。 「いやぁ、大丈夫だよ」 「だったらこっち飲んでみます?」  雪希が追加で買った焼酎の瓶が掲げられる。  そっちならいっぱい入ってるし、少しくらいもらってもいいかな、という気分になった。 「僕がひっくり返っても文句言わないでよね」 「水か何かで割ったら、少しは飲みやすくなるんじゃないですか? それに、外で飲んでてひっくり返るのはまずいですが、ここでひっくり返っても、ベッドはそこにあるので、誰の迷惑にもなりませんよ」  さすがにストレートで飲ませる気はないらしい。 「前にネットでさ、コーラ割りとかミルクティー割りが美味しいって見かけたことあるんだけど、ほんとかな?」 「焼酎の種類と割合にもよると思いますが、全然ありですよ。両方試してみますか?」  幸いなことに、両方とも家にあった。引きこもりがちな雪希が、あれこれと買い置きしていたせいだ。  両方とも冷えてはいないが、氷を入れればなんとかなるだろう。  

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