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《第3章》別に新たな扉を開きたかったわけじゃない①
またやってしまった。
人から嫌われることが怖くてしょうがないのに、どうして自分は、悪目立ちするようなことばかりしてしまうのだろう。
アプリを開くたびに増えている通知の数を見て、雪希は通知の内容をすべて確認する前に別のタブを開き、お気に入りのアニメや漫画の公式アカウントが入っているリストを虚無の瞳で眺めて、現実逃避を始めた。
その中に、何気なく流れてきた美しい笑顔の画像を不覚にも見つけてしまい、一気に涙腺が緩むのを感じる。
「うわあああああぁぁぁぁぁ!」
現実でこんな叫び方する人、普通はいるのだろうか。わからないけど、とりあえず雪希はよくやる。
でも、今日は特別だ。
スマホを放り投げると、頭を掻きむしり、机に伏せて泣いた。
机の上に無造作に散らばっていたメモ用紙が、涙を吸い込んで歪んでいく。
肩を震わせ、ひっくひっくと喉を震わせ、無様に泣いた。
それでもおさまらずに、子供みたいに大声をあげて泣いた。
絶望感が全身を包んでいく。
どんなに泣いても、もう彼女は戻ってこないのだ。
コンコン、と控えめに部屋のドアが叩かれたのはそんな時だ。
「雪希さん、入ってもいいですか……?」
同居人の、いつになく神妙そうな声だ。
「……はいらないで」
掠れた醜い声で、雪希はかろうじて返事をする。
「今日の出勤、別の人に代わってもらって、オレ休み取りました。朝ごはん作ったので、一緒に食べましょう。雪希さん、昨日は夜食べてなかったし、昼はカロリーメイトですませたとか言ってましたよね? ちゃんと食べないと、体壊しちゃいますよ」
「…………」
ドア越しにも、優しさが伝わってくる。
もともとは大学の後輩だったこの同居人は、雪希のことをずっと『先輩』と呼んでいたはずだが、恋人になった今は、いつの間にか名前で呼ばれることの方に慣れてしまった。
こんなどうしようもない自分のためにわざわざ仕事の休みを取ってくれたという恋人を冷たくあしらうことは、雪希にはできなかった。
「……はいっていいよ」
弱々しく答えると、鍵かかっていなかったドアはそっと開かれる。
散らかった部屋の惨状を見て、同居人兼恋人である秋吉楓は、一瞬眉をひそめたものの、落ち着いた様子でソファベッドの上のものをどかして、腰をおろした。
「雪希さん、ちょっとこっちきてください」
腕を広げて、おいでのポーズをされる。
甘やかす気満々の体勢だ。
そんな気分じゃなかったんだけど。全然、誰かに苦しみを打ち明けて慰めてもらおうだとか、そんなおこがましいことは考えていなかったんだけど、ほぼ条件反射のような感じで、雪希はふらふらと立ち上がると、正面から抱きついていた。
すぐに背中に腕が回されて、やわらかく抱きしめられる。
あたたかな体温に触れ、胸に突き刺さっていた痛みが、ほんの少し、やわらいだ。
「……彼女のことは、残念でしたね」
「……うん」
「でも、あれは彼女が望んだ結末ですし……今はつらいけど、いつか受け入れられる日がくるといいですね」
こんなふうに優しく慰めてくれる人間、他にいないだろう。自分にはもったいないぐらいの優しさとおおらかさだ。
彼さえいれば他になにもいらない、と思えたなら、どんなにいいだろう。
「でも……」
言いかけて、途切れた言葉の続きを、楓はやんわりと促してくる。
「いいですよ。オレには全部吐き出して。SNSでは言えないようなことも、全部聞きます」
大粒の涙が、新たに溢れてきて、雪希の頬を盛大に濡らした。
「ひどいよぉ……こんなのってないよぉ……」
二十六歳にもなる男の声とは思えない、みっともない泣き言を、とうとう雪希は、年下の男に向かって吐き出していた。
「僕、レイラちゃんの来年発売のフィギュア、二体も予約してたのに……。この間なんて、レイラちゃんのアクスタを手に入れるために、WEBくじに三万円もつぎこんだのに……。それなのに、いきなり退場しちゃうなんて……。こんなの、届いたら絶対、つらくて直視できないよぉ……!」
「……うわぁ」
推しが死んだ。
突然のことだった。
死亡フラグなんてまるで立っていなかった。
それは、週刊連載の漫画の最新話の出来事で、現在絶賛放送中のアニメの方ではまだ生きている。
というか、つい一週間前まで、アニメではレイラちゃんのメイン回をやっていて、雪希のテンションは最高潮に達していた。
楓と同居するようになってから夜遅くまでアニメを見るのは控えていたのに、どうしても気になって眠れず、楓に頭を下げてリアタイしていたぐらいだ。
ついでに言うと、リアタイしたあと二、三回は録画を見直して、興奮のあまり落書きをしていたら朝になっていた、なんてこともあった。
寝不足だったが、幸せな日々だった。
原作の方も、毎回0時ちょうどに電子書籍で購入して読んでいた。
今は、悲しくて眠れない。
この行き場のない悲しみをどうしていいのかわからなくて、気を紛らわせるために漫画を描くことしかできない。
ちなみにそれは、仕事ではない趣味の漫画なので、仕事は一ミリも進んでいない。
「ところで雪希さん、あの……こんな時に言うことではないかもしれませんが、趣味垢の漫画がバズってるみたいですが、大丈夫ですか……?」
「だいじょうぶじゃない」
ずび、と汚い音を出して、雪希は鼻をすすった。
雪希の仕事は百合漫画家。綾瀬ユキというペンネームで、SNSのアカウントを持っている。
数々の炎上の黒歴史の末、現在、そのアカウントは恋人兼マネージャーでもある秋吉楓が管理しており、個人的な発言は、別名義の趣味アカウントで行うようになっていた。
最近はたまにその趣味垢に落書きの絵――主に二次創作的なファンアートをあげていたのだが、昨日、雪希はそこにオリジナルの漫画を投稿していた。
レイラちゃんの死により発狂した雪希が描き殴った、エロなんだかギャグなんだかホラーなんだかよくわからない話だ。
ちゃんと清書したわけではないので線画も汚いし、今まで雪希が仕事で描いてきた漫画とは全然違うテイストなので、描いたのが綾瀬ユキだとはまだバレていないと思う。
それがなぜか、仕事で描いた漫画の告知よりも拡散されている。
あんなおそろしいインプレッション数が自分のアカウントに表示されるのを、雪希ははじめて見た。
でも、別に賞賛されているわけじゃない。
リプライ欄のほとんどは冷やかしツッコミと冷笑コメントとゾンビアカウントのコメントで溢れていて、リポスト先もいくつか見に行ったけど、『wwww』みたいなノリのコメントがほとんどだった。
集団イジメにあっている気分だ。
「あれ、消した方がいいよね……?」
「えっ、なんでですか?」
「勢いとはいえあんなもの描いてごめんなさい、って感じだし……」
これ以上拡散されてもいたたまれない。
「うーん……綾瀬ユキ名義のアカウントで投稿したらこれまでの作品のイメージを壊す恐れがあるのでまずいな、って感じですが、別名義だし、いいんじゃないですか? あんなにウケてるんだから、消すのもったいないですよ」
「えっ、ウケてるの!? あれ!」
冷静な分析と対応には定評のある楓のコメントに、雪希はびっくりしすぎて、まじまじと楓の顔を見た。
「だいぶ軽いノリで好き勝手楽しんでる人が多い印象ですが、おもしろいからあれだけ拡散されてるんじゃないですか?」
にこやかに楓は答えた。
「ちなみに楓くんはあの漫画、読んだ……?」
「えーと……闇堕ちヒロインがフタナリになって無双する話、ですよね……?」
おそるおそる問いかけた雪希に、若干気まずそうな返事が返ってくる。
改めて言葉で言い表されると、ひどいネタだった。
「フタナリって、なにがいいのかわからないと思ってたけど、需要あるんだね……」
ちなみに、雪希のメインジャンルは百合だが、雪希の性癖の中にフタナリは入っていない。
別に地雷というほどではないけど、好んで嗜むことはない、という微妙な距離感だった。
「じゃあなんで描いたんですか?」
「え……ヤケクソ?」
二次創作ではないが、ヒロインのモデルはもちろんレイラちゃんだ。
とにかく、非業の死を遂げた彼女が別の世界で最強になり、彼女を殺した男も、陥れた女も、容赦なく屈服される幻想を見ないと、正気をたもてなかったのである。
いや、それを描いている時点ですでに正気じゃないんだけど。
「雪希さん……本気でフタナリが好きな人に刺されますよ。それは絶対、SNSに書き込まないでくださいね」
「……ハイ」
数々の炎上を乗り越え、さすがに雪希もそれぐらいは学習してきたところだ。本音言うと、めちゃくちゃぶっちゃけたいけど。
「オレもフタナリの趣味はありませんが……ストーリーだけ見ればわりとグロいのに、ギャグテイストなせいで絶妙なシュールさが出てておもしろかったですよ。今までの雪希さんにない作風だったので、新鮮でしたね」
「……的確な解説ありがとう」
書店員の楓に書評風に言われると、本当におもしろいんじゃないかという気がしてきた。少しだけ。
「雪希さんって、精神崩壊を起こすとスキルが解放されるタイプの能力者みたいですよね」
「なにそれこわい」
どんな特殊設定だ。
あらゆる属性の知識だけはある雪希でも、あまり聞いたことがない。
「だって、雪希さんが今までにない作品生み出す時って、だいたい精神状態がヤバい時じゃないですか。あの、高校の時に審査員特別賞を受賞してたウサギの油彩だって、下地使い方がすごいって評価されてましたけど、むしゃくしゃして勢いでやった、って言ってませんでしたっけ?」
「あー……あれねー……」
楓が雪希の名前を知るきっかけになったというウサギの絵の話だ。
油絵では、水彩画と違い、キャンバスに色を乗せる前に、下地を作るという行程がある。
いくつか種類はあるが、その中の代表的なものがモデリングペーストで、本来ならば平坦なキャンバスに、意図的な凹凸を作ることができる。
平面の絵なのに、立体感を出すことができるのだ。
といっても、モデリングペーストは安くはないので、そんなに大量に使う人はそう多くない。
しかしその当時、とある個人的事情で情緒不安定になっていた雪希は、ついカッとなって、その時手に入れられるだけのモデリングペーストをすべて買い占め、ついでに美術室にあった共有のモデリングペーストもすべてかき集めて、全部キャンバスにぶちまけるという暴挙をやらかしたのだ。
美術部顧問のおばあちゃん先生は『あらあら、まぁまぁ』と呆れていたが、結果的にその下地の使い方が受賞に繋がったので、なにも知らない校長からは褒められた。
「百合漫画を描き始めたのだって、少年漫画に挑戦して挫折してスランプになったのがキッカケじゃなかったでしたっけ」
「確かに」
「もしかしたら、新しい仕事に繋がるチャンスになるかもしれませんよ。あの漫画、続き描かないんですか?」
「えー……描いた方がいいと思う?」
コメントで、何人かから『続きは!?』とは言われたが、完全に勢いだけで描いたネタなので、今そんなことを言われても困る、というのが正直な気持ちだ。
「商業での需要があるかどうかはわかりませんが……最低でも二十ページ分以上描いて同人誌にして、ついでにDL販売とかしてみたら売れそうですよ。フィギュア代ぐらい余裕で稼げるんじゃないですか?」
「…………」
そんなディープなオタク事情まで理解できるくらい彼にマニアックな知識を植えつけてしまったことに、罪悪感を覚える。
もともと楓は、書店員をしているからという理由で漫画に多少詳しいぐらいの、オタク界隈とは無縁のイケメンだったというのに。
「……でも、そんなことしたって、レイラちゃんが生き返るわけじゃないんだよぉ……」
あの闇堕ちヒロインのキャラは自分でもわりと気に入っているが、たとえ彼女が世界中の老若男女を抱いて屈服させたとしても、自分の傷を広げるだけのような気がする。
雪希は、もそもそと楓の膝の上からどいて、隣に座り直した。
ソファの端に何気なく放り投げてあったタブレットに手を伸ばすと、雪希はいつも使っている電子書籍サイトのアプリを開いた。
タップしたのは最新号――ではなく、五週間ほど前に発売された号だ。
「うぅ……やっぱりあの時、マヤちゃんの言葉に従って、一緒に行動してればよかったんだ……」
マヤというのは、この漫画のメインヒロインで、レイラの仲間である。
ストーリー上の重要な分岐点はいくつかあるが、物語の良さを壊さない程度に改変させ、レイラ生存ルートにするためのポイントはここだ。
問題の死亡シーンはショックのあまり、直視できたのは三回程度だが、それ以外のレイラ関連シーンは、昨日からしつこいぐらい読み返している。
「雪希さん! 気分転換に、外に出ましょう! コラボカフェとかどうですか?」
どうにもならない、じめじめした空気に耐えかねた楓が、わざとらしいくらいに明るい口調で提案してくる。
「今は……確か、アクセルライトウェイのコラボカフェやってるんですよね? オレ、予約取りますよ。ドリンクファイトも付き合います!」
アクセルライトウェイは、レイラちゃんが出てくる漫画とは別作品のアニメだ。
一週間くらい前に、『コラボカフェいいなぁ。行きたいなぁ』と雪希がひとりごとでぼやいていたのを、しっかりと覚えていてくれたらしい。
涙を引っ込め、『……行く』と返事しかけた雪希だが、壁にかかったカレンダーが目に入って固まる。
「…………でも、締め切りが……」
そうなのだ。一昨日の深夜に突然の推しの死で精神崩壊を起こしたせいで、昨日やるはずだったカラーイラストのラフが、なにもできていない。
提出期限は明日の午前中だ。
さすがにそろそろ仕事しなければまずいと、社会不適合者の雪希にだってわかる。
「帰ってからやればいいんじゃないですか?」
「昨日からほとんど寝てないから、今夜は起きてられる自信ない……」
「確かにこのカフェ、午前中の予約は埋まってますし、場所的にもちょっと時間かかりそうだから……えーと……」
楓は自分のスマホを取り出して、わざわざカフェの詳細を調べてくれている。
「じゃあ! コンビニにくじ引きに行きましょう! 昨日帰りに寄った時、アルカナのくじやってましたよ!」
アルカナというのもまた別作品だ。ゲームが原作でアニメ化もしている、可愛い女の子がたくさん出てくるハーレム系の話だ。
そのくじでは、雪希の推しのピンクの髪の女の子のフィギュアがB賞に入っていたはずである。
コラボカフェの次はくじ。オタクの扱い方を完璧に心得ている後輩の有能ぶりに、世の中にはこんな都合のいいこともあるんだな、とふわふわとした気持ちになってくる。
基本的に雪希の人生というのは、思い通りにいかなかったことの方が多い。
不幸中の幸い、あるいは妙な悪運の強さのせいで過分な扱いを受けることはあるが、もともとそれを望んでいたかというと、そうでもない。
それに、舞い上がりやすく落ち込みやすい雪希の心は、常に平穏な日常とは言いがたい環境にあった。
でも、この優秀な後輩がなぜか自分の恋人になっているというのは、純然たる幸運と呼べるものではないだろうか。
今さらながら、気づかされる。
無言でじっと見つめる雪希の視線を受けとめた楓は、ちょっと不思議そうにしながらも、やわらかく微笑んできた。
春の日差しを思わせる、あたたかくて爽やかな笑顔だった。
眩しい。薄暗さの方に慣れている、淀んだオタクの目には眩しすぎる。
「……くじはあとで引きにいく」
ついつい、似たようなアニメのシーンを思い出して、彼方まで飛びかけていた思考を無理やり引き戻して、雪希はかろうじて返事をした。
「はい。じゃあ、その前にご飯食べましょう。お腹すいてますよね?」
そうだ。そういえば、朝ご飯を作ってくれたと言ってたんだっけ。
『ご飯冷めるから早く食べなさい。ほんとにあんたはグズね』と、幼少期、母親から数えきれないくらいなじられたことがある雪希だが、楓はそんなふうにせかしたりしない。
冷めたら冷めたで、黙って温め直してくれる。
「ご飯食べたら、寝る……」
ふわふわとした気持ちになった影響か、今さらながら眠気というものの存在を思い出した。
「そうですね。寝た方がいいです。起こしてほしい時間を教えてくれたら、ちゃんと起こしますよ」
「楓くんも一緒に寝てくれる……?」
「えー、雪希さんがそんなふうに甘えてくるの、珍しいですね。もちろん、いいですよ」
ちょっとはにかんだように笑う楓は、年下の男の子っぽくて、可愛かった。
「僕が起きるまで抱きしめてて」
こんなことを誰かに言ったのは、生まれてはじめてだった。
恥ずかしい。でも、楓くんなら許してくれそうだからいいかな。
「ふふ。喜んで……と言いたいところですが、途中で悪戯しちゃったらすみません」
「悪戯ってなに……?」
「秘密です」
「秘密かぁ……」
ふぁ、とあくびがもれた。
隣に座る楓の肩にもたれかかると、体から一気に力が抜けていく。
「雪希さーん、このまま寝ないでくださいよ」
「うう……がんばる。ところで、朝ご飯ってなに……?」
「オムライスです」
「え、うそ。絶対、冷める前に食べた方がいいやつじゃん。今すぐ行く……」
楓の作るオムライスは、卵が半熟でふわふわしてて美味しいのだ。
立ち上がって、うーんと伸びをする。
長時間座っていたせいで、背中が痛い。
「どんなに絶望してる時でもお腹が減るってほんとだね」
漫画でよくある台詞を、今まさに実感してしまった。
「生きてたらお腹が減るのは自然の摂理ってやつですからね」
「そうだね。推しは死んだけど、僕は今日も生きてる……」
架空の世界で誰か一人死んだって、世界は変わらず続いていくし、時はどんどん流れていくのだ。
切ない。
「でもなんか、雪希さんの推しって、死亡率高くないですか?」
「それは絶対、言っちゃダメなやつ」
楓と出会ってから、少なくとも五人の推しが死んでいて、そのたびに楓に慰めてもらっているのだが、いくら繰り返しても、悲しいものは悲しいのだ。
それに、死ぬことをわかっていて好きになったわけじゃない。
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