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《第4章》オタクはそれを沼と呼ぶ⑤

「アニメーター志望なの?」 「そうですね。できれば……。アニメーターなら、専門学校でもいいかと思ってたんですが、親が、行くなら大学にしろってうるさくて……。でも、いくらロボットが描けても、美大受験ではそんなに役に立たないですよね……?」 「ロボットが描けるってことは形を正確に取れるってことだから、静物デッサンなら上手いんじゃないの?」 「いえ、それが……なーんか、いくらやっても形が歪んじゃうんですよねぇ。……あんまり、興味がないものを描くのに向いてないのかもしれません」 「わかるー! 難易度だけが高いビンとかランプとか松ぼっくり描かされても、イライラしてくるよね。僕も、可愛い女の子のイラスト描いてる方が1000倍テンションもモチベーションも上がるよ!」  アニメの話で仲間意識ができたからだろうか。予想外に打ち解けるのが早すぎて、楓は唖然とした。嫉妬を覚えるほどだ。 「静物デッサンの話なら、楓くんに聞いた方が参考になるかも。楓くん、背景とか小物描くの、めちゃくちゃ上手いもん」  若干モヤッとしていたことに気づかれてはいないはずだが、タイミングよくいきなり褒められた楓は、すぐに愛想笑いを浮かべた。 「オレはただ、見たものをそのまま紙に描き写すのが得意なだけなので、全然たいしたことないですよ」  実に当たり障りのない回答をしただけのつもりだったのだが、雪希と太一は、『なに言ってんだ?』という顔で固まっている。  そのうち、雪希はぷるぷると拳を震わせだした。 「それが! ちょっとやそっとの努力じゃできないから、みんな何百枚も描いて練習しなきゃいけないし、それが嫌になって絵をやめてく人もたくさんいるんだよ!」  無神経なことを言ってしまったのだと、楓は自覚したが、苦笑するしかない。 「でもオレ、色塗りは全然ダメですし、ただ紙に黒い鉛筆で描いた、リアルなだけの絵に、そこまでの価値がありますか? 写実的なだけで、人になんの感情も与えないような絵なら、絵じゃなくて写真でもよくないですか?」 「でも、デッサンは基礎だから、それができてれば、応用だって……」 「ダメなんですよ、オレは。見本がないと、何も描けないんです。雪希さんや太一くんみたいに、オリジナルの絵がなにも描けないんです。……そんなの、絵描きとは呼べないでしょ?」  謙遜ではなく、事実だった。  自分自身への失望なら、とっくに飽きるぐらい噛みしめて、今は開き直っている。だから、今はなんでもないことのように笑ってそんなことが言える。 「高校の時、展覧会行ったあとに美術部やめたのは、そういう理由?」  返す言葉を失っている雪希のかわりに、大吾がおもむろに口を開いた。 「…………」  余計なことを言うな、とつい言いそうになったのを、ぐっとこらえて、楓はこっそりと下唇を噛みしめた。 「毎日真面目に部活に通ってたのに、いきなり退部して、部屋に引きこもってそのウサギの絵の写真ばっかり眺めてるって母さんが心配してたけど、自分にはその人みたいな絵が描けないって思ってからやめたの?」 「……っ」  軽く口をすべらせた程度であればさらっと流してやってもよかったのに、わざわざ追い打ちをかけてくるから、楓はつい、ギロリと睨んでしまった。 「それなのにどうして今は、その人のために背景なんて描いてるの?」  呆然と固まっていた雪希が、ハッと我に返った様子で大吾に近寄る。 「ごめん! 楓くんが僕の漫画を手伝ってくれてるのは、僕が無理を言って頼み込んだからなんだ! 締め切りがやばい時に、頼れる人が楓くんしかいなくて……楓くん、最初は嫌がってたけど、僕があんまりにもしつこいから、それで仕方なく……。む、無神経なことしたんなら謝るよ。でも、えっと、楓くんが描いてくれる背景、僕の漫画には絶対必要なものだし、読者さんにも好評だから、できれば続けてほしいっていうか……」  必死だが、だんだんなにを言いたいのかわからなくなっている様子が伝わってきた。  大吾の前に膝をついて必死に言葉を紡ごうとする雪希の細い肩を、楓は優しく叩いた。 「雪希さん、大丈夫です。雪希さんはなにも悪くないんで。あと、最初に頼まれた時、嫌がっていたっていうのは誤解です。オレなんかが恐れ多い、と思って遠慮して断ってただけで……はじめてオレが描いた背景が載った雑誌の見本誌を見せてくれた時、すげー嬉しくて感動したから……貴重な機会をいただけたと思って、今も感謝してます」  思い出す。  大学の昼休み。  いつも以上にそわそわして落ち着きのない様子の雪希が食堂で近寄ってきて、『今日の帰り、うちにこれない?』とこそこそ言い出すので、まさか告白とかされるんだろうか、と複雑な心境になった時のことを。  あの頃は、恋愛とかするつもりがなかったから、せっかく仲良くなったのに恋愛沙汰でぎくしゃくするのは嫌だな、と思っていたのだ。  しかし、家に入るなり、渡されたのは見本誌だった。 『綺麗に刷れてるから、見て! 楓くんのおかげで、今回の原稿の仕上がり、担当さんにも褒められたんだよね』  楓のバイト先の本屋でも取り扱っている雑誌だった。もちろん、この号が店に入るのはまだ先のことだろうけど。  ページをパラパラめくって、雪希のペンネーム、綾瀬ユキの作品を探す。  ――あった。  雪希が描いたふわふわした可愛らしい女の子の後ろに、楓が描いた背景がしっかり入って、独特の世界観をかたちづくる一部となっている。  不思議な感覚だった。  描いてる時は必死だったからあんまり気にしてなかったけど、明らかに作風の違う雪希の絵と、違和感なく馴染んでいる。  それに、これが全国の書店に並ぶんだと思うと、ちょっと鳥肌が立ちそうだった。  ――誰も見る価値がないと思っていたオレの絵が、ちゃんと生きてる。  衝撃で黙り込む楓に、雪希はさらに、満面の笑みで言った。 『僕、いつも一人で描いてたから、人に漫画を手伝ってもらうのがはじめてで……なんか合作みたいで嬉しいよね。それに、楓くんの描く背景、綺麗で画面映えするから、漫画自体のクオリティ上がったみたいで、テンション上がっちゃった。楓くんに頼んでよかったよ! ほんとにありがとう!』  いつものおどおどした態度とは別人みたいな、太陽みたいな笑顔だった。  雪希が、特別好きなものの話をする時だけに見せる、屈託のない笑顔だ。 「オレ、あの時はじめて、絵を描いてきてよかったなーって、心から思えたんです」  雪希は目を見開いて固まっている。 「絵を描けるのはすごいことだけど、絵を描かなくても人は生きていけるじゃないですか。絵で食っていける人なんてほんの一握りだし……そっち側に行きたいと思えるほど、絵が好きでもなかった。もともとオレにとって絵は、暇つぶしみたいなもので……本気で絵が好きな人には、どんなに努力したって叶わないなーってあのウサギ見て思い知らされて、描くのやめちゃったんですけど」  ずっと、言わなくてもいいことだと思っていた。でも、今、伝えたくなった。 「でも……上手いだけでつまらない、って言われてたオレの絵を……雪希さんに見せるたび、大喜びしてくれるので、オレもようやく、絵を描くことが心から好きになれました。それに……こんなこと言うのはおこがましいかもしれないけど、オレが描いたモノクロの絵が、雪希さんの作る、情緒豊かで色鮮やかな世界観の一部になれたみたいで、嬉しかったです」  言い終わったあとで、だいぶ恥ずかしい告白だったことを自覚して、楓は照れ隠しに笑う。  夏だというのに日に焼けていない頬に、はらはらと涙が落ち始めた。  雪希は、目を見開いて固まった格好のまま、泣いていた。 「雪希さん……」

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