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《第4章》オタクはそれを沼と呼ぶ⑥

 涙を拭おうとした手は、ようやく自分の状態を自覚したらしい雪希の手によって振り払われた。 「ごめん! ちょっと待ってて!」  そして、脱兎のごとく、部屋から出ていってしまった。  楓は、驚いて唖然としている高校生二人を見やった。 「悪いね。お菓子食べて、適当にくつろいでてくれる?」  すぐに雪希を追いかける。  雪希の作業部屋に、鍵はかかっていなかった。  そっと中を覗くと、膝を抱える格好で、雪希が床に座り込んでいる。 「……ごめん。僕……楓くんがなんで絵を描くのやめちゃったのか、全然知らなくて……」  目の前に腰をおろした楓の顔を見ないまま、ぼそぼそとした声が向けられてきた。  高校卒業してからはほとんど描いてない、という話はしていた。  正確には高校二年の途中からほとんど描いてなかったのだが、ほとんど誤差の範囲なので、そういうことにしておいた。 「言ってなかったですからね。当然ですよ。こんな恥ずかしい話、とても自分からは言い出せなかったし……」  大吾の無神経さには困ったものだが、秘密を暴かれてよかった、という気もしている。  雪希に伝えたかった言葉を、ようやく言えたから。 「…………楓くんの絵は、つまらなくなんてない! 僕には真似できないくらい精密で、パースも完璧に取れてるし……あそこまで描ける人は、なかなかいない。それは楓くんの才能だよ」  膝に顔を埋めたまま、雪希は必死の口調で吐き出した。 「ありがとうございます」 「……楓くんぐらい絵が上手かったら、たぶん僕は、美大に行ってた」  思わぬ言葉に、頭を撫でようとしていた手が、触れる直前で止まる。 「……僕だって昔、絵が好きだから美大に行くのが当然、って思ってた時期があった。それに、いつも僕が絵を描いてても『やれやれ』って顔しかしないお母さんが……それなりに有名な美大に通う僕を見たら、僕のこと認めてくれるんじゃないかって……思って……お年玉を貯めてたお金、全部使って自分で予備校に通ったりしたんだけど……みんな、バケモノかってぐらい上手い人ばっかりで……」  一度息をついてから、雪希はさらに続ける。 「圧倒的に上手いように見える人でも浪人したりしてて……僕がそれまでやってきたのはしょせん『お絵描きごっこ』だったんだなぁって思い知らされた……。僕ができないことを、当たり前みたいにできてる人たちばっかりそこにいた。講評のたびに憂鬱になって、人の絵と自分の絵を並べて置かれるのすら嫌になって……結局、一ヶ月もたたないうちに、予備校やめちゃった」  ぽつりぽつりと、少しずつこぼれ落ちる声は淡々としていたが、聞いているだけで、胸が引き絞られるような思いがした。 「でも雪希さんは、高校の時から漫画家デビューしてて……」 「アイデアが斬新で、ストーリー構成が上手い、って評価で、マイナー雑誌の育成枠で描かせてもらってただけだよ。絵を評価されたわけじゃない」  なんと言葉をかけていいのか、楓はとっさに、思い浮かばなかった。 「もう絵も描きたくない、って本気で思ったこともあったけど、美術部の顧問の先生との約束で、コンクール用の絵は提出しなきゃいけなかったから、それを最後にしようと思って……予備校の授業料の返金分全部持って、画材屋何軒もめぐって、モデリングペーストを買えるだけ買い込んだ」  あの、ウサギの絵の話だとわかった。 「それを一気にF100号のキャンバスにぶちまけたらさぁ……なんかちょっとだけワクワクしてきて、気づいたら夢中でペインティングナイフ動かしてたんだよね。少しずつウサギの形っぽくなっていくごとに、ぐちゃぐちゃだった頭の中から余計なことが抜けていって、気持ちよかった。……でも、そのうち、モデリングペーストが乾いて固まってきちゃってさ……仕方ないから、彫刻刀で削ったんだよ」  当時のことを思い出した様子で、雪希が少し笑う。 「油絵描いてるはずなのになんで彫刻刀なんて握ってるんだろ、って思ったらおかしくなってきて……描き上がる頃には、『美大に行けなかったとしても、僕は僕の好きな絵を描こう』って思えたんだ」  あまりにも衝動的で、感情的な、おかしな話だ。でも、この人らしくて、楓は微笑んでいた。 「だから、その絵が原因で楓くんが筆を折ってしまったんだとしたら、ショックだったっていうか……」  中途半端に宙に浮いていた手を、改めて伸ばして、楓は雪希の頭を撫でた。 「でも、オレにまた筆を取らせたのも雪希さんですよ。背景アシやってくれないかって最初に頼まれた時、何度も断ったのに……雪希さんがあまりにも必死で、土下座しそうな勢いでお願いしてくるから、断りきれなくて……仕方ないか、って感じでついていったんですが、すごい真剣な顔で原稿してる雪希さんを見てたら、なんかいつの間にかオレも真剣になってて……描いた絵を見せたら雪希さんが目をキラキラさせて喜んでくれるから、嬉しくて……誰かと一緒に絵を描くって楽しいんだなー、って、オレはじめてその時思いました。いつも、一人で描いてたから……」  細い肩がピクリと揺れたかと思うと、俯いていた雪希がバッと顔を上げる。 「僕も! いつも一人で描いてたから……隣に楓くんがいてくれるの、嬉しかったよ! よ、予備校の時は……まわりにたくさん人がいたけど、みんなライバル意識強くて怖かったし……孤独感しかなかったけど、楓くんははじめてできた『仲間』みたいだったっていうか……」  涙で濡れたままの目元に親指をそっと這わせる。  泣き顔も可愛いけど、やっぱりこの人は、笑っている顔が一番いい。  大学ではいつもおどおどビクビクしていたこの人が、自分の前でだけ無邪気な子供みたいな笑顔を見せてくれるたび、たまらない気分になったのを思い出した。 「……オレ、今思うと、はじめて背景アシした時から、雪希さんのこと大好きになってました。……どうしてもっと早く気づかなかったんだろ」  抱きしめて、肩口に顔を埋めながら、悔しさまじりに吐き出す。  ずっと、近くにいたのに。  もっと早くに気づいていたら、もっとたくさん、愛してやれたのに。  恋人らしいイベントを、たくさん経験できたはずなのに。 「……っ」  雪希は息を呑んだあと、おずおずと背中に腕を回してくる。 「ほ、ほんとなら高校の時の件で嫌われてもおかしくなかったはずなのに、仲良くしてくれただけでも、僕は嬉しいよ……」  ――そういえばこの人、付き合う前は、自分のことを『人類の恋愛対象の範疇にない存在』とか言ってたんだっけ。 「……今日、花火楽しみましょうね」 「う、うん……」 「夏が終わる前に、海水浴にも行きましょう」 「僕、泳げないけど……」 「オレが支えるんで、大丈夫ですよ。あ、プールもいいですね」 「ていうかそもそも僕、水着すら持ってないけど……」 「買ってあげるんで、一緒に選びに行きましょう。……打ち上げ花火もいいけど、手持ち花火もやりたいですね。庭でできるかな……?」 「……急にどうしたの? 楓くん」  確かに、脈絡がなかったかもしれない。でも大事なことだ。 「一人じゃできないこと、二人でたくさんやりたいんですよ。夏が終わったら、秋も。……秋はぶどう狩りとか紅葉見に行ったりしたいですね。冬はもちろん、クリスマスデート……それから、スノボとかどうです?」 「僕、絶対転びまくってろくに滑れないから、雪だるま作ってる方がいいかな」 「じゃあオレも一緒に雪だるま作ります」  首筋にちゅっと口づける。 「恋人らしい思い出、たくさん作りたいです」  恋人じゃなかった期間は今さらどうにもならないけど、それを取り返すぐらい、何倍も何十倍も、一緒にいたくなった。 「うん……僕なんかが相手でよければ」 「雪希さんがいいんです」  他の誰でもなく、あなたじゃなきゃダメなんだと、言葉にすること自体はそんなに難しくないはずなのに、どうしたらもっとちゃんと、相手の心まで届けることができるんだろう。 『僕なんか』なんて言葉、使ってほしくないのに。 「……あ、あのね、楓くん、聞いて」  ゆるく回されただけだった腕が、明確な意志を持って、強く抱き返してきた。 「はい……聞きます」  改まった空気に、楓もまた改まった口調で答えた。 「これは僕の持論だから世間一般では通用しないかもしれないけど……絵は自由なものだから、オリジナルが描けなくたっていいんだよ。人物しか描けなくたっていいんだよ。ロボットしか描けなくたっていいんだよ。モノクロだって、カラフルだって、青一色だっていいんだよ。それも含めて、絵は自由なものだから! ……この絵はよくてあの絵はダメだとか、そんなの、見る人の好みによって全然変わるものだから、見てくれる人全員に評価されなくてもいいんだよ。……それに」  たどたどしく、それでも本気で、思いを伝えようとする覚悟が、声だけじゃなく、触れた肌ごしに伝わってきた。 「楽しみながら一生懸命描いた絵は、いつか誰かの心に届くって信じてるから……! 楓くんが描いてて楽しければ、なんだっていいんだよ!」  目を見開いて、楓は呼吸を止めていた。  ――おかしいな。泣いてる雪希さんをなだめるためにきたはずなのに。なんでオレの方が泣いてるんだろ。  頬が濡れるのはあっという間だった。  人前で泣くのなんて、多分、幼稚園の頃以来だ。 「だから、えっと……できればこれからも僕の隣で描いててほしいな、っていうか……恋人としてだけじゃなく、背景アシとしても引き続きがんばってくれると嬉しいな、って思ったんだけど……嫌じゃない?」  楓が泣いていることに気づいた雪希は、あわあわと動揺している。  おそるおそる顔を覗き込まれたので、情けない泣き顔を見られないように、強引に唇を奪い、目元を掌で覆った。 「……いいですよ。ずっとあなたの隣にいさせてください」  囁いて、今度は舌の根まで絡め合わせるような深いキスをする。 「ん……」  熱っぽい吐息が、薄い唇の端からこぼれてきた。  甘い。  唾液の味はいつもと変わらないはずなのに、いつもよりも甘ったるく感じられて、胸が熱くなった。  ぴちゃぴちゃという水音があがる。  たっぷりと堪能して、唇を離す頃には、すっかり楓の涙は止まっていて、雪希は真っ赤な顔でとろんとした目になっていた。  かわいい。それに美味しそうだ。  リビングに来客がいなかったら、間違いなく服を脱がせていたところである。  服の下を暴くのは明日以降のお楽しみとしてとっておくことにして、最後に、わずかに赤みの残る目元に、ちゅっとやわらかなキスをする。 「いっこ忘れてますよ。オレ、あなたのマネージャーでもありますから」 「そ、そうだね……えっと、公私ともにパートナー、みたいなやつ?」  なかなかそそる響きだ。 「最高の肩書きですね、それ」  楓はにっこりと微笑んだ。 「そろそろ、戻れそうですか?」  名残惜しいが、いつまでも来客をほったらかしにしておくわけにはいかない。 「だめ。顔の火照り、おさまらないかも。まだドキドキしてる……」  付き合いはじめてから、急激に可愛さが増したように見えるのは、絶対に気のせいじゃないと思う。  オレがこの人をこんなふうに変えたんだ、と思うと、腹の底からじわじわとこみ上げてくるものがある。  やっぱり一回ぐらい抱きたいな、と思いかけたが、楓はぐっとこらえて、雪希に手を貸しながら立ち上がる。 「戻らないと、余計にあいつらに変な想像をさせるかもしれませんが、大丈夫ですか?」 「……っ、大丈夫じゃない。でも、ごめん。あの子たちの前で変な顔しちゃいそうになったら、フォローしてくれる?」 「それはもちろん。ところで今さらですが、さっきは弟が急に変なことを言い出してすみませんでした。あいつ……実はオレと半分しか血が繋がってなくて……昔から噛み合わないところがあったっていうか……よくわかんないやつなんですが、悪気はないはずなので、あんまり気にしないでください」 「えっ? どういうこと? 腹違いってやつ!?」  おそらくだが、漫画とかで『腹違い』という言葉をよく目にする機会があったのだろう。すぐにそういう言葉が出てきたことに、楓は笑う。 「いえ、逆です。異父兄弟。父親違いってやつですね」  すると、雪希は再び深刻そうな顔になってしまった。 「か、楓くんの家にも複雑な事情が……!?」 「別にそんなんじゃないですよ。実の父親が、オレが五歳の時に死んじゃったんで、その数年後に母親が再婚して、新しい父親との間に生まれたのが大吾っていう、ただそれだけの話です」 「じゃ、じゃあ、株で儲けが出たらたまに楓くんに高額なお小遣いをくれるお父さんっていうのは、実の父親じゃない!?」 「そうです。今の父親とは血は繋がってませんが、普通にいい人なんで、仲良くやってますよ」 楓はケロリと答えた。  少なくとも、毒親気味の両親がいる雪希の育った環境に比べれば、ずいぶんと恵まれた方だと思う。 「知らなかった……」 「すみません。今度、うちの両親に雪希さんを紹介する時までには、詳細話しますね」  別にわざわざ語るほど特殊な詳細はなにもないのだが、愕然としている雪希を見て、楓は少し反省した。 「しょ、しょしょ紹介!? 無理! 絶対やめた方がいいから、実家に連れて行くとかしなくていいからね!?」 「? なんでですか? 普通に、正月に連れて行こうかと思ってたんですけど」 「初耳なんだけど!?」 「あんまり前もって言うと緊張しちゃうかと思ったので、直前に言うつもりでした」 「あの、えっと……大学時代の先輩とか……ルームシェアしてるだけの友達、みたいな設定で挨拶に行けばいい、って前提で大丈夫だよね……?」 「何言ってるんですか。ちゃんと恋人として紹介しますよ」 「!? だめだよ! やめた方がいい……! こんなやつと付き合ってるなんて知られたら、人生の破滅……」 「いい年して恋人もいないって方が親に心配かけますよ。オレ、この間なんか、実家に帰った時にマッチングアプリを勧められたりしましたからね? いいんですか? オレがマチアプで知り合った女とデートなんかしても」 「そ、それはダメ……」  すでにキャパオーバー気味で悲壮な表情になっている雪希だが、消え入りそうな声で、すがりつくように抱きつかれる。 「そうですよね。オレは雪希さんのものですもんね」 「そうだよ。楓くんは僕のものだよ!」  売り言葉に買い言葉の勢いとはいえ、ここまで断言できるようになったのは、雪希にしては大きな進歩だと思う。 「雪希さん、オレがいないと、原稿を締め切りまでにあげられるかどうかも危ういですもんね」 「た、たしかに……ぼく、楓くんがいなかったら、無職のニート野郎になって死んじゃう……」  さっきよりも悲壮な声が絞り出された。  ちょっと言い過ぎたかもしれない。  申し訳ないと思ってよしよしと頭を撫でると、さらにぎゅっと抱きつかれた。 「……正月なら、着物の方がいいかなぁ? 僕、前よりも気合い入れて女装して行くね?」 「…………」  実家に行くのに女装しろなんて一言も言ってないんだけど、それはそれとして、女物の着物を着た雪希もちょっと見てみたいな、と思った楓は、返す言葉を探すのに時間がかかった。

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