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《第4章》オタクはそれを沼と呼ぶ⑪

「はぁー、疲れたー」  日が暮れはじめた頃、浜辺は花火の打ち上げを待つ人々で埋め尽くされていた。 「雪希さん、普段の百倍ぐらい歩いてましたもんね」 「そうだよ。足がもう限界だよ」  膝の間に座らせた雪希は、ぐだっと楓にもたれかかってきている。  花火はそれぞれ別に見よう、という話になって、大吾と太一は離れたところで場所を取っている。  高校生二人の前ではそれなりに大人っぽく振る舞おうとしていた雪希は、その義務感から解放された反動か、楓と二人きりになった今、遠慮なくだらだらしている。  まわりに人はたくさんいるのだが、薄暗くなってきた影響か、あるいは疲労がピークを達しているせいか、人の目はあまり気にならないらしい。  座椅子がわりにされている楓としては、甘えられてるみたいで嬉しかった。 「帰ったらマッサージしてあげましょうか?」 「え、ほんと? うれしー」  すでに筋肉痛の兆候があるらしいふくらはぎに手を伸ばして軽く揉んでやると、物言いたげな視線が見上げてきた。 「……えっち」  ぼそりと呟かれた言葉に、息を呑む。 「じょ、冗談だよ!」 「すみません雪希さん……ここではやめてもらえますか」  気まぐれの戯れのつもりで言った言葉だとはわかっていたが、とても無自覚とは思えない色っぽさに、理性が揺らぎそうになった。 「えろ漫画とかだとさー、花火の音聞きながら神社の裏とかでしちゃう、とかいうネタがよくあるよね」 「それは、今度してほしいというリクエストですか?」 「いやいやまさか。見つかったら、捕まっちゃうよ」  なんとなく、なにを言っていいのかわからなくて上滑りする意味のない会話というのは、本来ならば居心地が悪いはずだが、雪希が相手だと、意外と楽しい。  そのあと、言葉が続かなくて無言になるのも。  ぼんやりとした何気ない時間を共有するのも好きだった。  今だけじゃない。昔からずっと。 「大学の時さぁ……二人で一緒に花火大会行ったこと、覚えてる?」  なかなか始まらない花火を待つのに飽きて、長い沈黙のあとに、雪希が唐突に言い出した。 「もちろん。あの時は……すみませんでした」  雪希が四年で、楓が三年だった時だ。  構内の中庭でお昼を食べていたら、同級生の女の子に『一緒に花火に行かない?』と誘われて、断ったけどしつこくせがまれたということがあった。  その時、たまたま近くを通りかかった雪希を捕まえて、『オレ、先輩と一緒に行く約束してるから』と嘘をついた。  雪希はびっくりしていたが、楓の女避け対策に付き合うのには慣れていたから、適当に話を合わせてくれて助かった。 『は、花火大会……ほんとに二人で行っちゃう? ……なんて、こんなモブ顔のキモオタと二人で花火見るとか、普通に考えて嫌だよね。……ごめん。聞かなかったことにして』  雪希がそんなことを言い出したのは、二人きりになったあとのことだった。  勇気をふり絞って言い出したみたいなのに、すぐに後悔したように俯く雪希に、楓は目を瞬かせた。 『先輩の予定があいてるなら、行きましょうよ。ほら、漫画のネタの参考になるかもしれませんよ』  結局、二人で行くことになったのだが、あとから思えば、もっと別の誘い方もあっただろう、という感じだった。 「花火をあんなに近くで見るのも、友達と一緒に花火大会に行くのも初めてだったから、成り行きとはいえ、嬉しかったなぁ」  今はまだ薄闇が広がっているだけの空を見上げながら、雪希がぼんやりと呟く。 「大学最後の夏の、いい思い出になったよ。付き合ってくれて、ありがとね」  控えめに笑う顔を見下ろしていたら、胸が締めつけられる思いがした。  自分はこの人に、なにを与えてきたんだろう。  何気なく差し出しただけのつもりだったものが、意外と大切なものだったりしたのだろうか。  そう思うと、たまらない。 「あの時、花火見ながら、さ……卒業したら、楓くんとはもう会えなくなっちゃうのかな、とか考えてたんだけど、いい大人になってもまだ隣にいてくれるって、不思議な感じだね」 「……なにも、不思議なことなんてありませんよ。オレたちは、一緒にいることの方が当たり前なんですから」  確かに、不思議な縁を感じるが、楓はあえてそう言った。 「……そっか。そう、かな……?」 「そうです」  キッパリと断言して、背後からぎゅっと抱きしめる。 「知ってますか? 熱海の方の花火大会がすごいらしいですよ。今度そっちも行きたいですね。せっかくだから、宿もとって」 「熱海って、行ったことないな。温泉があるんだっけ……?」 「はい。昼間はプールで遊んで、夜はゆっくりホテルの部屋のテラスから花火見るのもいいですね」 「熱海なら、海水浴場もあるんじゃないの?」 「海が見えるプールもあるんですよ。もちろん、海も一緒に入りたいですが……」  あはは、と腕の中で雪希が声を上げて笑った。 「海にプールに温泉に花火? すごい。やりたいこと、盛りだくさんすぎじゃん」 「二泊か三泊ぐらいしてもいいですね。熱海城も気になりますし、クルージングも行きたいですし」 「楽しそうだけど、多分、僕の体力がもたないから、全部は無理かなぁ」 「じゃあ、毎年行ってもいいですし……雪希さんとやりたいこと、まだまだたくさんあるので、もっとずっとそばにいてください」  ふわふわのくせっ毛に戻ってきた細い髪に頬をすりつけ、甘えるように言う。  雪希の手が伸びてきて、頭を撫でられた。 「二人で、海のスケッチをするのもいいね」  穏やかな声だった。 「はい……やりたいです」  遊ぶのもいいけど、ただ隣で並んで絵を描くだけでもいい。  何をしても楽しいし、そばにいるだけで心が満たされる。  こんな特別な相手は、そうそう見つからないだろう。 「雪希さん」  ん? と振り向いたタイミングを狙って、キスをする。  たじろいだ様子の雪希が、潤んだ瞳で楓の顔色を窺ってくるので、もう一度唇を重ねて、舌を絡めた。  ちょうどその時、しゅるしゅるという音とともに最初の一発が上がり、大輪の花で空が彩られる。  そちらに気を取られた周囲の人々は、男二人が堂々とキスをしていることに気づかない。  仮に気づいた者がいたとしても、それどころではなかっただろう。  次々と上がる花火を見るのに忙しかっただろうから。 「……はは、すごいタイミング」  唇を離したら、雪希が笑った。 「なんか、漫画のワンシーンみたい」  つられて楓も笑っていた。 「ヒロインの気分になれました?」 「なれたよ。目の前には、少女漫画に出てきそうな王子様もいることだしね」  楽しそうだ。  可愛かったので、指を絡めて、手の甲にちゅっと口づける。  背後からだから、お揃いのブレスレットが二つ並ぶ格好になった。 「楽しんでいただけてなによりです、お姫様」 「ふふ……やめて。変な声で笑っちゃいそう」  芝居がかった恭しい口調で告げた楓がツボに入ったのか、雪希は小刻みに肩を揺らしている。  二人のやり取りなどおかまいなしに、大きな花火があがるたび、周囲からは歓声があがっていた。 「花火見ようよ」 「そうですね」  ふと、空を見上げたら、花火の向こうに、星空が広がっているのが見えた。  ついさっきまでほんのり明るかったはずの空は、いつの間にか、青みを帯びた闇に染まり、煌めく星が散らばっている。  あのウサギの瞳の中にあった宇宙は、いま、自分の中にも宿っているだろうか。

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