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第5話 ぬるま湯から出る決意
アゼリアのスタッフたちは、みんな親切だった。常連さんたちも人情味のある人が多かった。優しい言葉をかけてくれる人もいたし、言葉は冷たくても言葉の端々から俺を思いやってくれているのがわかった。
俺を思いやってくれる人…これまでの人生で出会った数よりも、ここで出会った数の方が多い気がする。みんなそれぞれ苦しんで、つらい思いをしてきた人たちだから、強くて優しくて厳しいように思えた。ここは…俺にとって冬のぬるま湯だった。出たくないと…俺は思ってしまっていた。
ある週末、開店準備をしているとマスターが店に来た。
「由羅君、ちょっといい?」
今日はノブちゃんの舞台稽古が追い上げに入っているので、カウンターは俺一人とマスターが助っ人に入ってくれる予定だった。
「山崎さんて知ってる?」
「山崎ですか…」
「お店に2回来たことがあるって言ってたけど?」
俺はお客さんの名前を聞く機会があまりないから…聞けば覚えているはずだけど…山崎さんは記憶になかった。
「とにかく、その山崎さんが由羅君を引き取りたいって言ってるの」
「はい?」
「ガラス代は全額出すし、専門学校の学費も出すからって」
専門学校…っていうことはあの人だ。だってそんな話をしたお客さんはあの熊男だけだったから。他のお客さんとは男に興味があるとかないとか、そんな話しかしていない。
「住居も…1LDKの古いアパートでよければ一緒に住めばいいって言ってるんだけど…どうする?」
あの人…そっちの面では普通の人じゃなかったんだろうか…
「悪い人じゃないと思う。ノンケだから由羅君の体目当てでもなさそうだし…薬のことはあるけど…でも悪い話じゃないと思うから考えてみて」
そんなウマい話、あるはずがない。少なくとも200万円を出して俺を買う以上、何か使い道があるってことだから。
そこへ準備中の札を無視して客が入ってきた。
「すんません…」
「山崎さん」
やっぱりあの熊男だった。
「準備中、失礼します」
「ちょうどよかった、いま山崎さんの話をしてたんです」
「これ、住民票と在職証明書と免許書のコピーです」
「これだけあれば、身分証明は十分です」
「話、聞いたやろうけど、すぐ返事せんでもええから。ゆっくり考えて」
山崎さんが俺を見る。
「ただな、うち、ホンマに古いボロアパートやから。それさえ大丈夫なら、いつ来てもらってもええで」
そんなウマい話…あるわけない。きっと薬漬けにされて売り飛ばされるんだ。…でも…
「わかりました。お世話になっていいですか?」
「え?」
マスターと山崎さんが顔を見合わせる。
「そんなにすぐに決めなくても…」
「じっくり考えてええんやで」
ここはぬるま湯だ。いつまでも浸かっていたいと思ってしまう。だけど、ずっとここにいたら、こんな優しい人たちにいつか迷惑をかけてしまうだろう。俺にはぬるま湯より、凍るような冷たい水が似合う。
「後任が見つかるまではここにおいて下さい」
「うちはずっといてもらっていいんだから。無理して出て行かなくてもいんだよ」
「いえ、俺…借金を返した後どうしたらいいのかって考えると…ずっとここにいちゃいけない気がするんです」
「そう…それならいいんだけど…」
みんなの話によると、マスターは困った人を放っておけない性格で、相手がヤバい人だと知りながらも助けてしまうらしい。そのせいで、これまで何度も面倒なことに巻き込まれているそうだ。ガラス代も俺から受け取る気はなく、実は俺の給料はこっそり貯めておいてくれているとノブちゃんが言っていた。
そんな人が世の中にいると分かっただけでラッキーだ。そんな神様みたいな人に迷惑をかけたくない。
その2週間後、山崎さんが俺を迎えに来ることが決まった。
「体に気をつけて」
「必ず連絡してね」
「いつでも戻ってきていいんだよ」
「由羅、諦めるなよ」
ノブちゃんは、俺が山崎さんの家に行くと決まった日から毎日のようにこう言っていた。
「ここの番号と俺とマスターの電話番号を暗記しろ。隙を見つけて逃げ出すんだ。おまえは警察はイヤって言ってたけど、背に腹は変えられない。かけこんで番号を言えばいい。とにかく、諦めるな。俺たちは生きるしかないんだから」
「由羅君、これ」
マスターが現金の入った封筒を差し出した。
「これまでのお給料」
「受け取れません」
「ダメ、必ず入用になるから」
「いえ、面倒を見ていただいたので足りないとは思いますけど、せめてもの恩返しです」
お金を受け取ったところで、どこかに売り飛ばされたら意味がない。俺は絶対に受け取りまいと拒んだ。
「じゃあ…取っておくから。必要になったら取りに来て」
俺が折れないと分かったのか、マスターは微笑みながら封筒を持った手を下ろした。
「ありがとうございました。落ち着いたら連絡します。」
見送ってくれた人たちに頭を下げ、俺は山崎さんの車に乗り込んだ。
時間帯のせいか事故のせいか、繁華街を通り抜けてすぐ渋滞に巻き込まれた。
「この調子やと家まで1時間ぐらいやから、寝とってええで」
そう言われなくて眠ってしまいたかった。
ノブちゃんはああ言ってくれたけど、このまま船に乗せられて売られたら連絡のしようがない。海の上じゃ逃げようがないし。どこかに売り飛ばされるなら、起きているより眠っている間の方がいい。だけど…目を閉じても眠りは訪れなかった。
結局、眠れないまま車が目的地に着いた。
山崎さんの家は、本当に、正に古い昭和のアパートだった。
軋む階段を上がって木製のドアを開けると、昔のドラマでしか見られないようなレトロな部屋。ただ、テレビと違うのは生活感がないこと。ローテーブルと、冷蔵庫、小さいテレビ、電子レンジしかなかった。
「飯にしよか」
ここに向かう途中で買ったコンビ二弁当、インスタントの味噌汁が今日の夕食。山崎さんはそれプラス日本酒の一升瓶。
てっきり途中で売り飛ばされると思っていたけど、この生活感のない部屋からして、ここが人を取引する場所なんだろう。こうして夕食を与えて安心させて、寝ている間に連れて行かれるのかも知れない。
いや、もしかしたら山崎さんは俺の体目当てかも…
その疑いは夕食の後シャワーを浴びて、鍵を渡されたことで確信に変わった。
「これ、この家の鍵。それからとりあえず現金と通帳とキャッシュカード。俺の名義になってるけど勝手に使って。暗証番号はアゼリアの電話の下四桁」
通帳には100万円が入っていた。これならいつでも逃げられてしまう。この鍵が本当にこの家の鍵なのか、この暗証番号で本当にお金を下ろせるのか分からないけれど、もし本当なら山崎さんは俺の体を金で買った。それだけだ。マスターもお店の人たちもノンケだと言っていたけど、見間違ったんだろう。
話だけは色々と聞かされたので、男とどうするのか知識はあった。おそらく俺がヤられる側なんだろうから…いつ襲われてもいいように、変に動揺して醜態をさらすことがないよう心の準備をしておこう。男なんだから、そのくらいのこと何でもない。
そういえば、もしもの時にと、マサ君がくれたローションがある。シャワーの時に自分で緩める練習をしてもいいし…いや、いっそのこと体ごと壊してもらった方が人生を諦められていいのかも知れない…
真新しい布団に横になって考えながら、俺は眠りについた。
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