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週末、土曜日の朝。
「行くぞ」
アオくんの家の玄関に先輩。
朝からインターフォンに起こされたアオくんは寝起きの顔で眉を寄せる。眠い。もうちょっと寝させてほしかった。
「……どこに?」
「いいから。着替えとパンツだけ持って来い」
「なんで?」
いいから早くしろ、と言って先輩はアオくんを部屋の中に押し返した。怪訝な顔で部屋に戻って行くアオくんの頭には寝癖がふわふわ揺れている。
リュックに着替えを詰め込んで、アオくんは外で待っていた黒のCX-5に乗り込んだ。
「ねえ、どこ行くんですか」
「いいとこ」
口角をあげる先輩。
「寝てろ」
にやにやして、教える気がない。
アオくんはすぐ深追いは諦めて、素直に「じゃあねむいんで寝ます」とシートを倒した。
昨日も結局、残業だったので。
◇◇◇
着いたぞ、と言われ揺り起こされると、そこは山間の温泉宿だった。
「えっ」
戸惑いながらアオくんは目を丸くして、数寄屋 造り風の格子戸がある玄関、その上にかかる紺木綿の暖簾を見上げた。深緑に囲まれた静かな場所だった。
「『いいとこ』だろ」
得意気に笑う先輩に、「……先輩ってこういうことやっちゃう人なんですか……?」と目を丸くしたまま顔を向ける。
「そう、知らなかった?」
先輩はアオくんの肩にどかっと腕を置いて顔を覗き込んだ。
悔しそうにきゅっと唇を引き結んで黙ってしまったアオくんが、耳を赤くして目を逸らしたのを見て、黒い瞳はまた満足そうに弧を描く。
◇◇◇
「え、ちょっと、」
謐 かな香の匂いが漂うロビーを抜けて、仲居さんに案内されながら、観音開きの扉を開けたら切妻屋根の外廊下。緑が溢れる中を進んでいく。
「ちょっと……、ねえ、」
廊下の先に、一棟の庵、こぢんまりした玄関。脇に灯籠が置かれた格子戸の鍵を開ける。
離れ、ってやつ……?
「ねえ、先輩、」
「よいお天気でようございましたね、お庭がきれいに見えます」
畳が青く香る部屋に上がった仲居さんは奥の障子戸を開けた。籐椅子が二つある広縁、それが壁一面の大きな掃き出し窓に向けられている。
瑞々しい、緑の庭。あじさいの薄い紫が日に照らされて輪郭を輝かせる。青もみじが茂って、その先には霞けぶる山々。
借景、ってやつ……?
「ちょっと、」
「……では、お部屋の説明は以上でございます。ご不明点や、ご用がございましたらお電話ください」
先輩に話していた仲居さんが会釈して部屋を出て行く。
「……先輩!」
たたきの上、上がり框 のところでアオくんは大きい声を出した。
「なんだよ」
「やりすぎです」
箱根強羅の奥の、知る人ぞ知る和風旅館、庭付き離れの個室?
いくら使ったんだ。
「いいだろ別に。空いてたんだよ」
なに突っ立ってんだ、靴脱げ。
仲居さんが淹れていったお茶を飲みながら、座卓で片膝立てている先輩は呆れた顔をアオくんに向ける。
「……なんですか、記念日とかじゃないし、ていうか記念日とか大事にする人でもないでしょ……」
ようやく部屋に上がってリュックを降ろして、先輩の向かいでなんとなく正座してしまうアオくん。
「あたり。そんなん覚えてらんねーし。別に今日は、お前とこういうとこ、来たかっただけ」
静かな離れで二人きり、ゆっくりしたかっただけ。
「な、あっち、内風呂だけど檜の風呂だってさ。見てこいよ」
でもほんとは露天が良かったよな~空いてたらそっちにしたんだけどな、と、なんの打算もなく上機嫌な先輩の笑顔に、アオくんは正座のまま座卓に突っ伏してしまった。
この人って、ほんとに。
アオくんの耳先がまた赤くなった。
◇◇◇
檜の内風呂は湯がこんこんと満たされていて、まだ日の明るいうちだったので、大窓から緑の木漏れ陽が濡れた黒い石床につやつやと光を落としていた。
温泉の湯気と檜の匂いとが満ちる穏やかな浴室。やさしい肌触りの湯船はおとなの男ふたりで入って、少し余裕があるくらい。
湯がこぽこぽと流れる音。
「最高だな……」
「最高です……」
向かい合ってそれぞれ、湯船の縁に頭を預けて天を仰ぎ、目を閉じている。
身体も頭も温まって、ゆるくほどけてくる。
天井にはゆらゆらと水面の透明な影が揺れていた。
「寝れます……」
「のぼせるぞ。……こっち来いよ」
湯の中でアオくんの手を引く。いつもみたいに後ろから抱え込むと、抵抗せずに先輩の腕の中に入ってきた。
とろりとしたお湯の温度を分けて、アオくんの背中と先輩の胸の、皮膚が馴染んでいく。
「寝ていいけど」
のぼせないように、溺れないように、寝るならこの腕の中で。
何も言わずに先輩は抱きしめる腕に少し力を込めた。
「……寝ないです、もったいないから」
少しだけ小さい声。肩に頭を寄りかけて、先輩の顔を見上げた。
「もったいない?」
「だって、せっかく来たのに。やりたいこと、たくさんあります」
目を細めてアオくんは口元を緩ませている。
窓の外を、ちち、と小鳥が飛んでいった。
「ね、ロビーのほうに和カフェみたいなの、ありましたよ。行きましょうよ」
「あと本館のほうの庭も散歩しましょう、池があって、橋があるって、」
「あと売店で地ビール買ってお部屋のあの、謎スペースで絵描きながら飲みたい、旅館のあの椅子が置いてある窓際のスペース、好きなんですよねぇ」
「あと……」
ちょっと待て、と言って先輩は湯船に預けていた背を起こして、アオくんの顔を覗き込んだ。
「ゆっくりしに来たんじゃねえのかよ」
「ゆっくり、好きなことしたいんです」
先輩と。
木漏れ陽を反射した淡い瞳をきらきら細めて、アオくんは嬉しそうに先輩を見あげた。先輩はその顔にぐらりと来てしまって、唇を寄せてしまいそうになるのをどうにか堪える。
まだ、いま、手を出したら、もったいないから。
湯の流れる床に木漏れ陽が揺れている。
◇◇◇
二人とも浴衣に着替えて、部屋を出た。紺の籠目 柄の浴衣、先輩があんまりテキトーに合わせて帯を雑に締めてるからアオくんが結び直してあげた。先輩はニヤニヤが止まらない。
「……なんですか」
「なんでもない」
ニヤニヤしてしまう。
お風呂であんなにかわいいことを言われて、そして甲斐甲斐しく帯を結び直してくれて、さらに浴衣姿も最高にそそる。
ぴちりと几帳面に合わされた襟元が逆に色っぽい。帯に締められると腰の細さが強調されて、思わず手を回すと、
「なんですか!」
べちんと手をはたかれた。
◇◇◇
ロビーの横に白い絣 の暖簾が掛かっていて、そこをくぐると目一杯に広がる大きな窓。庭園の緑に向かってモダンな木の椅子のテーブル席が並んでいた。
横並びに座って、濡れたように光る庭木の緑に温泉で火照った身体が鎮められていくような気持ちになる。
アイスコーヒーをニつ注文する。アオくんはクリームあんみつも頼んだ。
木の器のあんみつ、先輩はアオくんより先にスプーンを奪って、寒天を掬って食べてしまう。
「黒蜜うま」
「ちょっと、人のもの勝手に食べないでください!」
「お前寒天すきじゃないだろ」
なんでもない声に、ん、とアオくんは手も口も止まる。
アイスもあんこも白玉もすき。
でも寒天はそんなにすきじゃない。
寒天を食べられて、すきなものだけになった器とスプーンを返されて、アオくんは一瞬口を噤んでしまった。
「……でも黙って持ってかないでください」と悔しそうに言うと、頬杖突いた先輩が口角を上げてこちらに顔を向ける。
いとしさが漏れてしまっている黒い瞳にアオくんはまた体温がじわりと上がるのを感じて、眉を寄せながら、はあ、と見せつけるようなため息をついた。
「甘やかしすぎじゃないですか?」
「そのために連れてきたんだろが」
サラッとこういうことを言う。アオくんはむず痒い気持ちに耐えられなくなって、目を逸らす。なんで、そんな、と口ごもる。
なんでって、と先輩はアオくんの頬に指の背を薄く乗せた。
「青くんのことがかわいくて仕方ないからですよ~?」
ニヤニヤしてふざけた調子に、「……うざ!」としか言えなくて、頬に寄せられた手をまたべちんとはたき落とした。
◇◇◇
庭園に出たとき、太陽はまだ高いところにあったけれど少し西に傾いていて、明るい青空にとろりと金色の光が混じりつつあった。まだ暖かくて、羽織を着るほどじゃない。
緑生い茂る石畳の小径 を下駄でカラコロ歩いていく。
ところどころに、薄青や薄紫、淡紅のあじさい。
すぐに小さな池に出た。その上に架かる緩く勾配を描く木橋は真新しくて、檜の匂いがする。
水面には草木の緑と遠くの山々が逆さに映る。
青空、傾いた陽が少しだけ葉陰に陰影をつけていた。
「ちょっと待って、下駄脱げた」
「歩くの下手だな」
先輩が振り返って立ち止まる。
アオくんが下駄を突っかけ直すのを待って、そしてまた並んでカラコロ、橋を渡っていく。
「先輩見て、鯉めちゃくちゃでかい」
橋の中央でアオくんは立ち止まり、橋の下をすいすい行き来している緋鯉をスマホで撮った。引きで池の景色もパシャパシャ映す。
「すげー写真撮るじゃん」
「資料にしたい」
カメラに夢中なアオくんの後ろで、仕事かよ、と先輩は呆れて笑う。
「旅館のプロモとか来るかもしれないじゃないですか」
そう言いながらくるりとうしろを向いて、パシャリとリュウ先輩を写す。
「俺も資料?」
「浴衣似合ってますよ」
掲げていたスマホから顔を出して、アオくんが笑った。
ね、先輩、と呼ぶと先輩の肩をぐいっと抱き寄せて、
「笑って」
スマホを持つ腕を伸ばし、池の景色を背景にパシャリと一枚。嬉しそうなアオくんと、先輩は不意のことに驚いて仏頂面になっている。
くすくす笑いながら、
「二人で写ってるのって、あんまり撮ったことないですね」
笑って、って言ったのに、と楽しそうにカメラロールを確認するアオくん。
「……お前……、ずるいぞ、それ」
先輩は手で目元を隠しながら、心の中で暴れるものが漏れ出たように呟いた。
え?と笑いながらきょとんと顔を上げたアオくんには、聞こえていなかった。
◇◇◇
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