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第5話
そのまましばらく東の方向を見ていると、防護壁の向こう側に馬に乗ったアルマンドの姿が見え、川にかかった橋をゆっくりと渡り始めた。
(アルマンド卿、怪我などされないといいけれど)
故郷では名のある貴族であったものの、バスターとしては己の名のみで戦ってきたという彼は、今は便宜的にアルマンド卿と呼ばれているが、リシャールと結婚すれば、彼も殿下と呼ばれることになる。
王族として、伴侶を得るのがどんな気分なのか、リシャールにはまだ想像もつかないが、少なくとも、危険な場所に一人で行かせて自分だけ安全な場所にいるような関係では、婚姻生活は上手くいかないのではないか。
フェルナン王の王妃であった母親を物心つく前に亡くしているので、番のことはよくわからないながらも、リシャールにはそんなふうに思える。
「……ああ、殿下! フェルナン陛下はいったい何を考えておいでなのでしょう、あなたをこのような場所に同行させるなんて!」
川の向こうの街道を関所に向かって進んでいくアルマンドを黙って見守っていたら、金髪に緑の目をした細身の貴族男性がすっとリシャールの傍に寄ってきて、大げさな口調で言った。
ヴェルデ王国建国時代から続く名家、ユペール公爵家当主の次男で、いっときはリシャールの花婿候補の一番手と目されていた、ニコラというアルファの青年だ。
「陛下はどうかしてしまわれたのでしょうか。たかが魔物一匹倒すことを条件に、あんな得体のしれない下賤な男に、あなたの純潔を下げ渡そうだなんて。まったくありえないことです!」
「ニコラ……、その、下げ渡すというおっしゃりようは、あまりにも……」
「あなたはお優しいが、哀しいかなそれが現実というものです。貴族と自称しているが、本当かどうかはわかりませんし、たとえ事実でも、南方の未開の国におけるそれが、我がヴェルデ王国の貴族階級と同等の身分であるなどとは、到底考えられないことですからね」
ニコラがさげすむように言って、こちらに顔を近づけて切なげな声を出す。
「リシャール殿下、僕のあなたへの愛がどれほど深いか、あなたはよくご存じのはずだ。なぜあの男の求婚を拒絶しなかったのです?」
「それは……」
「ああ、貴族の子弟という立場が、僕を縛ってさえいなければ! 僕も進んで剣を取り、この命を戦場に散らしていたでしょう。いや、今からでも遅くない、騎士団に入って紛争地域に出かけ、雄々しく戦って果ててみせます! 僕にはいつでもそうする覚悟がある!」
うっとりとした顔でそう言って、こいねがうように続ける。
「どうか国王陛下におとりなしをお願いしたい。今からでもこの茶番をやめさせてくださるようにと! 僕はあなたに恋い焦がれている。あの卑しいバスターにあなたを渡すくらいなら、徒手空拳であの魔物と戦って、華々しく死んだほうがまだましだ!」
「そ、そのようなことを言われても……、困ります!」
どうにかそう言って、ニコラの脇をすり抜け、そのまま砦の屋内に逃げ込む。
ニコラはいつもこんな調子で、リシャールに思いのたけをぶつけてくる。
悪い人ではないと思うのだが、ここでどんなに勇ましいことを言っても、彼にあの橋を渡る勇気があるようには思えない。その点では、ここにいる貴族たちは皆同じだ。
それに、誰かのことを下賤だの卑しいだの言うことこそ、下劣な行いではないのか。
(彼の考えで言えば、私も下賤なオメガなのかもしれないな)
純潔を下げ渡す、などと言っていたが、そもそもリシャールは純潔ではない。
そのことで自分を卑下したりはしないけれど、他人からの評価は変えようがないからこそ、マルセルの出生も秘密にされているのだ。
けれど、この先もずっと沈黙を守らなくてはならないのだろうか。本当のことを誰にも話すことなく、リシャールは生きていかなくてはいけないのか。
「……リシャール、ここにいたのか」
部屋にフェルナン王が入ってきて、窓辺に歩み寄る。
「ほう、アルマンドの奴め、馬を下りて歩き出したぞ? 本当に剣一つでやり遂げるつもりのようだな」
フェルナン王が愉快そうに言うので、リシャールも窓辺に行き、国境の方角に目を向けた。街道の途中にポツンと馬がたたずんでいて、アルマンドはその先の道を徒歩でズンズンと進んでいく。
腰に下げた大剣は、まだ抜かれていない。
「父上、お訊ねしても?」
「許す。なんだ」
「その……、もしもあの方が、本当にあの魔物を退治したら、私は彼と結婚することになります。そのときには、話してもよろしいでしょうか。私と、マルセルのことを?」
おずおずと訊くと、フェルナン王がこちらをねめつけた。
「何を言っている。絶対に駄目だ。アルマンドであれほかの者にであれ、決して話してはならん」
「でも……」
「マルセルは王太子だ。今さら事実を話す意味も、理由もなかろう?」
「ですが、不誠実ではありませんか、結婚する相手に隠し事をするのは?」
「誰しも秘密の一つや二つ持っているものだ。マルセルのためにも黙っていろ。よいな?」
「……はい。わかりました、父上」
そう答えはしたものの、本当にそれでいいのだろうかと、疑問が残る。
秘密を抱えているのは、胸に小さな棘が刺さっているようなものだ。とても明るくいい気分のときでも、心がかすかにちくりとする。おまえは決して完璧な幸せを得ることなどできないのだと、誰かにそう言われているかのような気がして。
「……む、魔物が動いたぞ。アルマンドに気づいたか?」
窓に目を向けたフェルナン王が言って、手にした望遠鏡を向ける。
リシャールの目にも、関所の建物の陰からのそりと出てきたダークベヒーモスの姿が見える。
牡牛と獣を掛け合わせたような体を持つ、巨大な魔物だ。脚は太く、頭からは長くて太い角が二本、鋭く突き出ている。
アルマンドは少し距離を取って立っているが、大剣の柄に手をかけてすらいない。
だがダークベヒーモスは警戒しているふうで、今にも襲いかかりそうな体勢でアルマンドにじりじりと近づいていく。
あのまま突進でもされたら、アルマンドは角で串刺しにされてひとたまりもないのではないか。
「おお! 魔物が仕かけてきたぞ!」
フェルナン王が興奮気味に声を上げる。
ダークベヒーモスが猛然とアルマンドのほうに向かって駆け出し、あたりに砂埃が舞い上がる。
黒い巨体を揺すりながらドスドスと地面を蹴って進む足音は、高台にいても聞こえてくるほど大きい。
角をまっすぐにアルマンドに向けていたから、そのまま刺し貫かれてしまうのではとひやりとしたけれど、アルマンドはぶつかる直前にひらりと突進をかわした。
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