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少しずつ
最後の患者を見送り、翠はデスクへ戻った。
時刻は午後六時を過ぎている。
残っている仕事はいくつかあったが、その前にひとつだけ確認したいものがあった。
パソコンを開く。
表示された患者一覧の中から、望月芹の名前を選択した。
電子カルテが開く。
初診から現在までの記録。
処方内容。初診時の様子。
精神科医の仕事は、ただ話を聞くだけではない。
患者の言葉や表情、声の調子。
小さな変化を積み重ねながら状態を見ていく。
ただの甘えだと言われないように。
弱いだけだと言われないように。
そのために、精神科医がいる。
特に、精神疾患は血液検査の数字のように目に見えない。
だからこそ記録が重要だった。
望月芹。二十五歳。
職業、小説家。
診断名は不眠症。
それに伴う軽度の抑うつ症状。
初診時は今よりずっと状態が悪かった。
睡眠時間は二時間程度。
食欲もなく、表情も乏しかった。
それでも本人は繰り返していた。
――大丈夫です。
カルテには何度も同じ言葉が残っている。
翠はスクロールしながら過去の記録を眺めた。
初診は約半年前。
紹介状を持って来院した日のことはよく覚えている。
診察室へ入ってきた芹は、今よりずっと痩せていた。
顔色も悪く、目の下には濃い隈があった。
けれど本人だけは平然としていた。
『睡眠時間は?』
『二時間くらいです』
『それがどれくらい続いてますか』
『うーん』
まるで他人事のような口調だった。
食事の回数を聞いても曖昧。
疲労感を聞いても曖昧。
調子を聞けば決まって、『大丈夫です』と答える。
精神科には身体の病気のような検査結果がない。
採血をしたからといって、心の状態が数字で出るわけでもない。
だから、精神科医は患者の言葉を聞く。
表情を見る。声を聞く。
沈黙の長ささえ判断材料になる。
そして芹の場合、そのどれもが大丈夫ではなかった。
本人だけが気付いていなかった。
翠はカルテから視線をあげる。
診察室は静かだった。
ふと、机の上へ目を向ける。
そこには診察の途中で書き込んだメモが残っていた。
睡眠時間――三時間。
食事――不規則。
仕事――多忙。
変わっていないようで、少しずつよくなってきている。
少なくとも半年前よりは。
それだけでも今は十分な進歩だった。
もっとも本人にそう言えば否定されるだろう。
実際、薬の量を減らした時も『別に最初から平気でした』と真顔で返された。
思い出して、翠は小さく笑う。
平気な人間は精神科を受診しない。
けれど、それを素直に認められない患者がいることも翠は知っていた。
望月芹がそうだから。
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