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感情

芹のマンションへ向かう途中、翠は小さく息を吐いた。 主治医とはいえ、本来なら診察室の外で患者と関わることはほとんどない。 まして自宅を訪ねる機会などそうそうなかった。 それなのにどうしても放っておけないのは、あまりにも自分を見せないせいだろうか。 マンションへ着くと、静かなフロアと足音だけが廊下に響く。 部屋の前で深呼吸をすると、インターホンを鳴らした。 反応はない。 数秒待ち、もう一度インターホンを押す。 留守なのだろうか。 そう思った時だった。 部屋の奥でなにかがぶつかるような音がした。 翠の表情が変わる。 「望月さん」 扉越しに声をかける。 「榊です」 返事はない。 けれど今度は確かに物音がした。 もう一度インターホンを押した。 しばらくして。 がちゃりと小さな音が響く。 ゆっくりと玄関の扉が開いた。 「先生?」 扉が開いた瞬間に漂ってくるのはアルコールの匂い。 服用中にお酒は飲むなとあれほど言ったのに。 ぐちゃぐちゃの髪と、さらに濃くなった隈。顔色も悪い。 「お酒飲みましたか」 低い声でそう問う。 「飲まなきゃ、やってられないでしょ」 投げやりな返事だった。 翠は思わず眉を顰める。 「だから飲んだんですか」 「寝れないし」 「薬は」 「のんでます」 「お酒も」 「のんでます」 開き直ったような言い方だった。 怒鳴ったところで意味はない。 今必要なのは説教ではなく状態の確認だ。 「中、入りますよ」 そう言うと、芹は抵抗する様子もなく道を開けた。 その反応が、かえって不安になる。 普段ならもう少し面倒そうな顔をするはずだった。 部屋へ踏み入れた瞬間、翠はさらに表情を曇らせる。 「……なにがあったんですか」 机の上には空いた缶と薬のシートが無造作に転がっていた。 「なにもないです」 またそうやって心を隠す。 「僕はなんのためにいるんですか」 無意識にこぼれた言葉だった。 芹がわずかに目を見開く。 自分でも驚いた。 「望月さん」 努めて声を落ち着かせる。 「責任取るって約束したので」 そう言うと、驚いたような顔でこちらを見た。 普段、あまり感情が出ることもないのに今日ばかりはどうしても感情が先ばしる。 こういう事は慣れているはずなのに。 「先生」 芹がぽつりと呼ぶ。 その声はどこか辛そうで。 「はい」 「元カノから連絡が来たんです」 何も言わず続きを待つ。 「復縁したいそうです」 自嘲するような笑みが浮かぶ。 「めちゃくちゃ好きだったんです」 今にも泣き出しそうな顔を浮かべている。 ただ今は静かにそれを聞く。 「けど浮気されてて。別れたんです」 今まで診察してきて、こんな顔をしているのを見るのは初めてだった。

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