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喜べない
しばらく歩くと、小さな広場が見えてきた。
翠は空いていたベンチへ腰を下ろす。
歩き回ったせいか、思っていたより疲れていた。
隣へ座った芹は空を見上げている。
さっきまでとは違う静かな時間だった。
風が吹く。
どこか心地いい沈黙だった。
そう思っていると、芹が口を開く。
「先生はなんで精神科医になったんですか」
そう聞かれると、深く考えたことはなかったなと思う。
医者になりたかった理由ならある。
けれど精神科を選んだ理由となると、案外難しい。
少しだけ考えてから口を開く。
「望月さんみたいな人を救いたいからです」
嘘ではなかった。
眠れない人。
苦しんでいる人。
生きることに疲れてしまった人。
そういう人達の力になりたいと思った。
そして過去の自分から抜け出したいと思ったのが一番の理由かもしれない。
「天職ですね」
芹がぽつりとこぼした言葉に、翠は少しだけ目を瞬いた。
そんな風に言われたのは初めてだった。
隣へ視線を向けると、芹はベンチの背もたれへ身体を預けながら空を見上げていた。
「望月さんは――」
なんで小説を書き始めたのか聞こうと思った。
けれど名前を呼んだ瞬間、
「ん?」
こちらを向いた視線に思わず言葉が止まる。
いつも診察室で向かい合っているはずなのに。
今日はなぜか妙に距離が近く感じた。
ただベンチに座って話しているだけなのに、妙に調子が狂う。
「なんでもありません」
結局、聞こうとしていた言葉を飲み込んだ。
すると芹は不思議そうに首を傾げていた。
けれどそれ以上追求はしてこなかった。
しばらく沈黙が落ちる。
沈黙の間、休日の広場には子供たちの笑い声が響いていた。
「先生」
その沈黙を破るように口を開いたのは芹だった。
「はい」
「俺、最近すごく楽しいですよ」
その言葉に思わず目を見開いた。
精神科医としていちばん聞きたかった言葉のはずだった。
なのに胸の奥が少しざわついた。
いつかは自分の手が離れてしまうことなんて何度も経験している。
――この時間がいつか終わるのだとしたら。
そんな考えが一瞬だけ頭を過ぎった。
主治医として失格だ。
患者の回復を喜べない理由なんて、あってはいけないのだから。
「よかったです」
ようやくそう返す。
芹は満足に笑っている。
それだけだった。
それだけなのに。
なぜか視線を逸らしたくなった。
「新刊出るんで先生に一番に見せますね」
その言葉に翠は小さく眉を寄せる。
「なんで僕なんですか」
「見せたいからですよ」
あまりにもあたりまえみたいに言うものだから、返す言葉を失う。
その言葉に悪意も駆け引きもなく、ただの本心なのだろう。
だから余計に困る。
「そうですか」
そう言って、小さく息を吐くと視線を空へ向けた。
どうやら今日もこの男には振り回されるらしい。
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