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第52話
「杏仁豆腐」
やってしまったことに、どうしたらって焦っていた僕にかけられた言葉に、どう反応していいのかわからない。
食べたいんだろうか?
今から作る?
買ってきた方が早い?
それとも明日のデザート?
びっくりしている僕を見下ろして、トーマはとても真面目そうだ。
たった一言で察しろって言うのはやっぱり無理だ! って声をあげそうになった時、トーマはゆっくりと口を開いた。
「今日の会食、杏仁豆腐で場が和んだ」
「よ、よかったです」
「杏仁豆腐は、ご夫妻の好物だったらしい」
「は、はい」
「……感謝する」
ぽつんと呟かれた言葉に思わず飛び上がる。
「お役に立てて、何よりです……もしかして、リンさまが泣かれていたのに関係が?」
トーマは後を追わなくていいんだろうかと、チラチラとステンドグラスの嵌め込まれた扉に視線をやった。
「……」
小さな溜め息を吐いて、トーマは疲れたようにネクタイをほどきながらゆっくりとリビングへと歩き出す。
「相手の名前を覚えるのは基本だろう」
呻くようにこぼされた言葉に、僕は「あ!」と心の中で膝を打つ。
イーノフーズの社長夫妻と会って、きっと名刺ももらって……そのまま読んでしまったんだろう。
『飯野』の文字は普通は『いいの』としか読まないもんね。
「水をもらえるだろうか?」
「はい! すぐにお持ちします」
リビングのソファーの前まで歩いて行ったトーマは、そこが限界だったかのように崩れるように倒れ込むと、深呼吸しながらネクタイを放り出し、上着を投げ捨てて首元を緩める。
「……っ、お水、ですっ」
いつもの隙のないスーツ姿は禁欲的で触れ難い雰囲気が目を引いたけれど、それが崩れて隙ができて……覗く喉元やお酒を飲んだのか赤い目元が加わると、見ちゃっていいんだろうかって罪悪感が湧くほど色っぽい。
普段、お酒を飲む習慣がないようだから、飲んだら酔いがまわりやすいのかもしれなかった。
とろりとした瞳が僕に向けられる。
いつもの氷を入れたソーダみたいな瞳じゃなくて、ゼラチンを入れてとろとろのゼリーにされたような瞳だ。
「ああ」
一度ソファーに身を預けてしまったからか、トーマは手を上げるのも億劫そうだった。
指先は動くのに、思考はぼんやりしていて水を受け取ろうとはしない。
顔を赤くして跳ね上がる息を逃そうとしているのか、肩が大きく動いている。
「あの……トーマさま? 具合が?」
父も母もなかなかに酒豪だから、酔っ払いを間近で見たことがなかった。
ひどい場合には救急車を呼んだ方がいいんだろうけれど……
とりあえず口元にコップを持っていくと、甘露を得たとばかりにそれを一気に煽る。
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