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第85話

 家で寛げるようなラフな服じゃなくてスーツに着替えて慌ただしく駆け降りてきたトーマの顔は険しくて、さっきの電話がただことじゃなかったんだってわかった。 「トーマさま⁉︎」  靴を履こうとしたトーマに声をかけると、トーマはこちらを振り向いてさっと顔色を変える。  一瞬の逡巡の後、「すまない」と声を絞り出す。  苦悩と焦りと、申し訳なさの滲む瞳は誠実で、それだけで問題が起きたってわかるから、僕はその一言にこくりと頷いて返した。 「こちらはお任せください、お気をつけていってらっしゃいませ。お弁当はいかがいたしましょう?」 「君の出る時間までには帰る。いや、すぐに帰るから」 「承知いたしました」  少し不満そうな表情で駆け寄ってきたルカを抱き上げて、「いってらっしゃいしましょう」って促す。  いつもはすぐに可愛らしく「いってらっちゃい」と言うルカがふいと顔を背けて、抵抗の様子を見せる。 「今日はお父さまと過ごせると楽しみにしてらしたからだと思います」 「…………そうか」  トーマはルカのヘーゼルナッツ色の髪をくしゃりとかき混ぜてから、飛び出すようにして行ってしまった。  その背中を見送り、ルカは一度だけ僕の胸に頭を擦り付けて、「 んま、たべゆ」と小さな声を零した。      掃除機をかけ終わり、リビングでルカに本を読み聞かせながら壁掛け時計を見上げた。  チクチクと動く時計の針は、もうすぐで僕が出かけなきゃならない時間に差しかかる。 「……」  あんなに慌てて出て行ったってことは、きっととても大変なことがあったんだと思う。  悪いことじゃないといいなって思いながら針が行き過ぎるのを見守って、ネットで予約の変更をする。  もしかしたら次の瞬間には玄関を開けて飛び込んでくるかもって期待がなかったわけじゃないけれど、仕事で不測の事態が起こった時は大変だっていうのは両親を見ているから知っている。 「でも、電話一本ぐらいは入れてくれてもいいと思うんだよねっ」 「ねっ」  思わず叫んだ言葉をルカが拾って、語尾をマネしてくる。  この天使はどこの天国から落っこちてきたんだろうって見つめていると、ぷるるんとしたほっぺを僕の頬にぎゅって押し付けてよしよししてくれて……もうそれだけで僕の心は癒されたのだった。    結局、トーマから電話があったのはルカを寝かしつけた後だった。  しかも携帯電話の方じゃなくて家に設置されている固定電話にかかってきて、「今夜はこちらに泊まる」って一言だけを告げられる。  こっちは雇われの身だしって思ったら、文句らしい文句は言えない。  

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