115 / 142
第115話
買い物に行かなくてもいいくらい食材があるから、明日はルカと一緒にパンを焼いても面白そうだし、クッキーを作っても楽しそうだ。
「――――!」
語尾の強い口調にはっと振り返る。
距離もあるし、聞く気もなかったけれどそれでも大きな声は自然と耳に入ってしまう。
「イーノフーズの 全部 っ!」
はっきり聞こえた会社名はイーノフーズだ。
馴染みがあるから聞きやすかったのもあるだろうけれど、大きな声で出された会社の名前にそろりと様子を窺うようにしてしまう。
何かあったんだろうか?
「社長なのにお父さん……ワガママだからなぁ」
会長である母が手綱を握っている限り、暴走なんてしないはずだけど……でもな なんて考えていると、ばんって携帯電話を放り出す音が聞こえて飛び上がる。
いつもと明らかに違う調子でソファに沈み込んだトーマの元へ、そろりと近づいて小さく名前を呼んだ。
「トーマさま?」
「あぁ…………大きい声出して、びっくりしたろ」
そう言って手招くから傍にひざまずくと、いつものように指の甲で柔らかく輪郭をなぞるように撫でられる。
産毛に触れるようなタッチはゾワゾワとした感覚と同時に焦れったいと思わせる動きでもあって、僕はもっと触れて欲しくて……でも自分から言い出すのも恥ずかしいからギュッと唇を噛んで我慢するしかない。
「何かありましたか?」
「リンが……」
言いかけて、トーマは難しい顔をして唇を引き結んでしまう。
僕を撫でてくれていた手も止まってしまって、よっぽどのことが起こったんだって改めて感じた。
くたびれた瞳が僕をじっと見つめて、柔らかくなる。
「君の病院の件も後回しになってしまって……」
「いえ」
「君がこだわらないのなら、うちの研究所に併設されている病院を紹介できるんだ。ルカは研究所の託児所で預かれるか聞いてみる」
「研究所ですか?」
「勤め先だ。そこで主に抑制剤の研究に携わっている」
そう言ってトーマはスーツの内ポケットから名刺入れを出すと差し出してきた。
名刺は……両手で受け取って……? 頂戴いたします? 僕の名刺ないけど! どうするんだっけ? ってわたわた慌てていると、トーマは小さく笑いながら手の中に四角い紙を落とした。
「odi研究所というところだ」
「ありがとうございます」
視線の先にあるのは「野分透馬」と言う文字だ。
堅苦しい四文字は最初の頃の印象を思い起こさせて、不思議そうに僕を覗き込んでくる姿とのギャップに悶え死にしそうだった。
「何かあればここに連絡をくれればいい」
「はい……はい! 何かあれば……」
ともだちにシェアしよう!

