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第9話 紫紺の瞳

 吐息が掠め、柔らかい何かが口の端に触れた。  ――ライオネルの、唇だ。  治療魔法を吹き込まれたとき以来の感触だったが、それとは意味が違うのだとオレはもう知っている。 「……ッ」  思わずビクッと震えてしまったオレの反応を見て、ライオネルは色の違う両目を見開いた。ハッとして身を引き、まるで怯えたように視線を彷徨わせている。  なんだよ、オレが欲しいと言ったじゃないか。こんな、誰も欲しがらない嫌われ者のオレを。あれは嘘だったのか?  無意識に手を伸ばし、オレはライオネルのシャツを掴んでいた。 「……」 「ネロ……?」  ぎゅう、と握り締めた手が離せない。  ベッドに座った姿勢だと、(ひざまず)いたライオネルの顔はオレと同じくらいの高さにあった。視線がこんな風に真正面から交差するのは初めてだ。  ごく、とライオネルの逞しい喉がわずかに動いた。 「ネロ……触れても、いいのか?」  もう一度顎に触れたライオネルの指が、しっかりとオレの頬を包み込んだ。引き寄せられてこちらからも顔を近づけたら、もう一度唇が触れた。  今度はちゃんと唇に、だ。 「っ……ンッ……!」  食むようにオレの唇をはさみ、何度も角度を変えて触れてくる。  唇に少し隙間ができるとくすぐったい息が触れた。そしてまた、その息さえ奪うように口付けられる。  抵抗もせずなにをやってるんだと思うのに、確かに心地良さを感じていた。心と乖離した身体だけが勝手に手懐けられていくような感じがする。  心地好い。だってずっと、慣らされてきたんだ。ライオネルの手は、オレを慈しんで蕩けさせて、もう愛情しか渡してこない。泣きたくなるくらい温かかった。  ライオネルの愛情は、乾いたオレにゆっくりとその甘露を染みこませるように、嫌がっても拒絶しても変わらず与えられてきた。  そんなもう、抵抗できるわけない。だってオレは、ずっとこれが―― 「っん、……ぅ、……」  息を止めて目を瞑っていたら苦しくなって、は、と小さく息を吐くとそのまま舌で唇を割られた。  大きな手に首の後ろを支えられて、唇がより深く合わさる。  開いた唇から入り込んだ舌が、歯列をなぞりゾクゾクとした感覚が背を走った。思わず身体が後ろへ逃げる。  ベッドの上をずりさがろうとしたら、身を寄せてきたライオネルに腰を抱かれた。全然大きさの違う身体が密着して、服越しに擦れ合う。 「ん、ぁ、……や、ッ……」  ドッ、と激しく心臓が跳ねた。大きな鼓動が胸の中心をざわつかせて、むず痒いような痺れが襲い息が苦しい。  ベッドの端に座ってたのに、いつの間にかライオネルに覆い被さるみたいにして、身体を抱き上げられていた。逞しい肩に置いた手は、震えて力が入らない。  ちゅく、と絡んだ舌から濡れた音が立った。  逃げる舌もまたライオネルに捕まり、強く吸い上げられて痺れている。ん、ん、と小さく呻きながら身体を引こうとするのに力が抜けて上手く動けなかった。その間にもライオネルは「もっと」と求めるように口付けを深くする。  じわっと視界が濡れて景色が歪んでいった。 「……ンッ、……は、……」  息をするだけで精一杯で、腰を支えられてなきゃそのままぐったり倒れてたかもしれない。ライオネルは執拗にオレの舌に追い縋り、舐めて擦って、唾液を吸い上げた。  濡れた音が立つたび、淫らなその音にまで耳を犯されているようで、ビクビクと身体が震えてしまう。 「――は、」  ようやくライオネルの唇が一度離れた。乱れたお互いの吐息が唇に触れてくすぐったい。  銀糸のつうっと繋がった形の良い唇が遠ざかる。  オレははあはあと息を乱して脱力していた。身体の中で暴れる初めての感覚にあてられて、頬が熱い。  目元も熱くて、何度か瞬きすると涙の粒が散った。  それで視界は鮮明になったが――目の前に迫る男の表情は、欲に濡れて見たこともないほど艶めいていた。  ゾクリ、と背が震える。それほど強い瞳が向けられていた。今にも食らい付いてきそうなギラギラとした視線だ。  聖騎士の顔などかなぐり捨てた、男の顔だった。  左右色の違う瞳は熱っぽく潤んでいるし、フー、フー、と荒く息をつく唇が口付けの余韻で濡れていた。  わずかに覗く舌が獰猛な獣のように見え、背が震える。オレの腰に触れる手のひらの熱にまで、目眩がするほどの激情が感じられた。  欲情、している? あのライオネルが、オレの身体をむさぼり食いたいとでもいうように…… 「ッ! すまない……」  突然、ライオネルは身体を離した。  もう一度「すまなかった」と低く呻くような声を絞り出し、オレをベッドに座らせる。  ギリッと奥歯を噛み締める音がしたと思ったら、ライオネルは振り切るように部屋を出て行ってしまった。  オレだけがぽつんと部屋に残される。 「なん、……え、なんっだ、アレ……どういう」  そ、そういえば片付ける用があるとか言ってたよな。さすがにあのまま、いきなり押し倒されたりはしないよな。そうだよな。  ばふっと柔らかいベッドに転がり、遅れてきた動揺と混乱にシーツの上でのたうち回る。  今も、好き勝手貪られた唇が甘く痺れていた。触ると唇が少し腫れぼったい。  ライオネルの唇は柔らかかった。口付けそのものがオレは初めてだから、誰の唇でもまあ柔らかいと思うのかもしれないが。  でも特別柔らかくてしっとりしていたような気がする。  そんな感触をしてるくせに口付けは途中から荒っぽくなって、気持ち良いのに苦しくて堪らなかった。おあつらえ向きここにはベッドもあって、押し倒されていたらオレはどうしていただろう。  あいつ、それが目的でオレをこの部屋に連れてきたのか? 「いや待て、なんか顔面に圧されたが、別に好きとか、言ってきたわけじゃ……」  ……じゃあ、オレが欲しいってどういう意味なんだ。囲いたいとかそういう?  期待しては後がこわい。誤解するなと言い聞かせ、頭の中から妄想を追い払った。  そもそもライオネルに迫られたからといって男のオレが、なんで動揺する必要がある。女ならまだしも。口付けだって手慣れていたから、本来のライオネルは聖騎士にあるまじき色情魔なのかもしれないし……。  貴族の間では男を妾にするヤツもいる聞く。ライオネルもその一人としてオレを囲いたいということか?  いや、貴族の妾なんか針のむしろだろうから嫌だが。 『この目には、君の闇魔法の残滓を取り込んである。君の残したぬくもりを忘れたくなかったから、ネロの色を貰ったんだ』  さっきのライオネルの言葉が頭の中に再び響いた。あの瞳、オレの魔力を取り込んだせいでアイスブルーから紫に変わったのだと言っていた。  ライオネルがオレの色をまとっている? そうを考えると急に心臓が跳ねてソワソワと落ち着かなくなって、またベッドにぼすんと顔を伏せた。  シーツが冷たくて心地良い。違う、これはオレの顔が熱くなってんだ。 「ってか、あいつもしかして用事が終わったらこの部屋に帰って来るのか?」  見回したところ、部屋にベッドはひとつしかない。でも部屋が貴族仕様なので応接とソファがあるから、オレはあっちで寝ればいいかな。  もそもそと身体を起こし、さっき被せられたマントを引っ張って移動した。  ベッドではないが充分に柔らかいソファに横になってマントを被る。ふと、さっきは気付かなかったがマントの布地からわずかにライオネルの匂いがした。  抱き締められたときに香る、妙に落ち着くあの柔らかな匂いに包まれて、オレは目を閉じた。  翌朝、窓からの光が眩しくて目が覚めると、オレはいつの間にかベッドに移動していた。そして抱き締めて眠ったはずのマントは、跡形もなく消えていた。       ‡  ライオネルの屋敷へ戻されたオレは、バージルにこってりと叱られて護衛なしでは外出しないよう言い含められた。  近くとも馬車を使うこと、できる限りバージルかライオネルを連れていくことも約束した。まるで貴族の箱入り娘みたいな扱いでまったく解せない。  神殿はあの後、すぐに事件の詳細を皇帝へと報告した。  命を狙われた大神官は実は今も無事に生きている。  実は彼が大神官に就任してから嫌がらせや脅し、殺害予告が頻繁にきていたため、警戒して住居を移動していたらしい。あの部屋は偽の血と死体に似せた人形で偽装されたものだったという。  カキアをはじめ皆が騙されて棒立ちになっていたんだから、神官たちがあたりを囲む時間は充分取れただろう。  殺人未遂の容疑で捕まったのはカキアたちと、例の殴られて運ばれた老人だった。数日中に裁かれ刑が下されるだろうと聞いている。  そもそも暗殺はあの老人の依頼で、怪我を治療するため神殿の中に入り、夜になったらカキアを中に入れるため門の鍵を開けたのだという。神殿内の見取り図を流したのもあの老人だった  ……しかし、それにしては派手に殴られていたが、加減てものを知らないカキアの性格をあの老人は知らなかったんだろうな。  計画の失敗に気づき逃走しようとした彼は、すぐに神官たちに取り押さえられた。  取り調べを受けた老人は、別の街の神殿を任された神官だった。  それが発覚すると密かな騒ぎとなった。神官が殺人未遂で捕まるなんて今までにないことだ。神官たちは対処に困り、再びライオネルを呼んで指示を仰いだという。  ライオネルはオレがカキアに連れ去られたことに気付いて、これを機に罠を張ることにしたと言っていた。オレがいつまでも『夜の牙』の追っ手を気にして逃げることばかり考えていたからか。  罠とは知らずオレたちはまんまと神殿に忍び込んだわけだが……  別にオレが護衛を連れていても事件は同じようにおきたように思うが、バージルが薄ら寒いような笑みを浮かべて圧をかけてくるので頷いておいた。  そんなわけで、オレはいまだにライオネルの家で、客人として過ごしている。 「……ネロ様へお手紙が届いております」  あの事件から一週間が経った頃だ。書斎に籠もっていたオレの元にバージルが現れ、大層な封蝋のついた手紙を盆に載せて差し出してきた。  物を知らないオレでも分かる、皇族の印がしっかり押さた手紙だ。頷くとバージルが目の前で開封し、中身を渡してくれる。  内容は、闇魔法関連の資料の精査が終わったので皇宮へ来いというものだった。やっとか。  これは正式な招待の手紙で機密に触れていないので、焼く必要はない。 「そのままライオネルに持って行ってくれ」 「はい」 「……で、オレは出かける」 「かしこまりました」  時刻はまだ昼前だ。今から準備して出れば先日のような日暮れになることはないだろう。  いや、それとも泊まりになるか?  バージルを見送ってからメイドを呼んで、服の用意を頼んだ。 「ネロ! 今から皇宮へ行くつもりなのか。私も一緒に」  バタバタと貴族の邸宅にそぐわない足音がして、部屋にライオネルが飛びこんできた。この早さではバージルに持って行かせた手紙と入れ違いになったな。  ライオネルは距離が近ければ紫色の影の動きでオレの行動まで分かるらしく、すぐに飛んでくる。  初日にオレが目覚めたことに気付いたのもその片目の能力のおかげだったようだ。 「ついてくるなら早くしろ」  短く答え、着ていた上着を脱いでメイドの手から外出着を受け取った。ライオネルはオレを見つめたまま動きを止めていて、次の瞬間ハッと我に返った。 「君たち、後はいいから下がって」 「……え」  ライオネルはメイドたちに指示を出し、退出させてしまった。ぽつんと部屋に残されたオレは、シャツを脱ぎかけたまま困惑してライオネルを見つめた。 「何だよ」 「その、……その背中を誰にも、見せないで欲しい」  背中? と不審がって鏡に映してみると、爛れたように皮膚の引き攣れた、赤黒い肌が映っていた。  ああ、なんだこれか。  まあ、胸の方もそれほど代わり映えしない。ガキの頃から治ればまた傷が増え、減ることがなかったせいで打撲や裂傷は醜い傷痕として残った。オレには当たり前過ぎて意識もしていなかったが、確かにメイドが見たら怯えるかもしれないな。 「見苦しいモノ見せるなって? わかったよ、なるべく気をつける」 「違う! そういう意味では……!」   カツカツと歩み寄ってきたライオネルは珍しく声を荒げていた。そしてそのまま、上半身裸のオレの身体を抱き寄せて、ぎゅうっと腕の中に包み込んでしまう。  背を撫でるライオネルの指先がじんわりと温かくなった。訝しんで見ると、鏡に映るオレの背の傷が僅かに薄くなったような気がする。  なんだ、治癒魔法をかけてるのか? もう痛みなんかないのに。 「これでも最初風呂に入れたとき、集中的に治したんだ。でも一気には消えなくて、神官たちにも聞いたけれどこういう古傷は毎日少しずつ治していくしかないと」 「……別に必要ない」 「治したいんだ。お願いだ、どうか拒まないで欲しい」  いつもはオレが眠った後とか、朝寝ぼけているうちに治癒魔法をかけていたらしい。  なんでそう易々とオレの部屋に忍び込めるんだこいつは。呆れて物が言えなくなって、仕方なく治療を受けた。  それが終わるとすぐさま服を着込み、ライオネルの着替えも急かして馬車に乗せた。  そして先日と同じ道を通って昼過ぎには皇宮に到着する。  急いでいても食事を抜いてはいけない、と言われ昼は馬車の中でバージル特製のサンドイッチを食べた。あの執事、過保護過ぎではないだろうか……。 「やあネロ。今日は輝く髪色がとても美しいね。いらっしゃい」  出迎えてくれた皇帝陛下はオレの赤い髪がいたくお気に召したようで、嬉々として撫でている。数日で元に戻るから少しの辛抱だ。  その横でゼファーは黙々と机に本を積み上げ、いくつかの資料を開いていた。  ゼファーは約束通り風呂に入ってるようだし顔に髭もなく、髪は櫛を通して紐でまとめている。着ている服もそこそこ質が良いせいか、まるでどこぞのお貴族サマみたいだ。 「とりあえず簡単なところからいくぞ。まず、闇魔法使いの減少について。この原因が分かった。大前提からになるが、魔力属性は大半が親から子に遺伝する。そしてこの話には東方人との混血問題が関わっていた」  話しはじめたゼファーは声に淀みもなく堂々としていて、貴族もあながち間違いじゃないのかもしれない。 「東方人は気質的に何故か闇属性の魔法使いと懇ろになりやすく、婚姻の割合が他の属性の者より飛び抜けて多かったらしい。しかも東方人は薬草を育てる関係上、山に住む。闇魔法の使い手が東方人と結婚して山に籠もりはじめたせいで、自然と闇魔法使いは街から減っていった。ちなみに東方人は帝国法の適用範囲じゃないから属性判定の義務が生じていない。この話だけだと隠れ闇魔法使いがたくさんいるかのようだが、実は話はそう単純じゃなかった」  ゼファーは古地図を取り出して、いくつかの山の点を指さしオレを見た。 「ネロ、お前が家族と住んでいた村がおそらくこの中にある。どれも病で全滅した村だ。後日一緒に探しに行こう。……彼らの誤算だったのは、東方人は帝国で流行る病に抵抗力が弱いってことだ。住んでた地域が違うんだから仕方ないんだが。これで大半の闇魔法使いが大人も子どももまとめて死んだ。彼らの薬学でも未知の病はどうしようもなかったんだろうな。錬金術師の技術は王都で学問としてまとめられているが、東方人の村については謎なことが多い。これを調べ上げたばあさんってのは凄い人だ。東方人も弱点をさらけ出すのが嫌で隠してたんだろうしな」  ぽんぽん、とゼファーの手がオレの頭を撫でた。灰色の目がじっとオレを見つめ、赤が強く混じるオレの髪をするりと指にからめた。 「お前が生き残った理由はこれだ。東方の血筋と、帝国の血が上手く混ざり合って共存している。せめぎ合い、片方が弱まると補い合い、どちらも消えることなく存在し続けた。それで、お前は闇属性の魔術師として生きてこられたんだ。俺たちがすすめるべき政策は東方人とその血を引く血族の保護、そこから始めてお前みたいな例を増やすことな。……これでますます国から出せなくなっちまったなぁ、ネロ」  あとの魔術書とかは好きに読め、と本と資料を積み上げてゼファーは席を立った。  黙って聞いていた皇帝はメイドに茶の用意をさせ、『ゆっくり読んで。隣の部屋客間だから、よければ泊っていって』と言い残し部屋を出て行った。  結局ゼファーと皇帝の関係を聞き逃したが、罪人として鉱山に送られてくる前は騎士団長と同じくらい仲良かった、てことでいいか? 何があったのか今度詳しく聞いてみよう。  ゼファーが罪人になった経緯とか。王都に戻ってきても捕まらないところを見るに、もう死んだことになってるか罪自体がないことになってるか、どちらかだよな。  そうしてオレとライオネルだけが部屋に残され、手持ち無沙汰だったオレは古びた本をひとつ手に取った。ぱらぱらとめくると見たことない魔法がいくつも載っていたが、目が滑ってまるで頭に入ってこない。 「あー……そういえば今日は団長がいなかったな」 「大神官殺害未遂の事件で、忙しいみたいだ。被害者が神職だからと騎士団の預かりになったと聞いている」  お前は行かなくていいのか、とつい口にしそうになって踏み留まった。  こいつ騎士団辞めたままだったな。いや、今は両目が使えるようだし戻れるんじゃないのか?  ずっと片目を隠して眼帯をつけていたのに、最近ライオネルは堂々と両目を晒して過ごすようになった。  オレの色に染まった紫色の瞳でこちらを見つめる、その視線に落ち着かなくなる。 『……眼帯をしていなくとも、この目は見えていないのと変わらない。最優先でネロを追いかける『目』だ。ネロ以外を映す気は、これからもない』  真面目な顔でそんなことを言われたオレの身にもなってくれ。  あれからライオネルは遠慮もなにもかなぐり捨てていた。口付けはあの日以来されていないが、ことあるごとに甘い囁きを向けられているしなんなら毎日口説かれている。勘弁してくれ。  眼帯はもともと執着の印のように残した紫色をオレに知られないためだったらしく、もう告白してしまったから良いんだと笑っていた。 「お前は騎士団に戻らないのか」 「えっ……ああ、戻って来いとは言われているんだ、でも」  広めのソファの端と端に座りながら話していたライオネルは、ふとオレの方を見ると、空いていた距離を詰めてきた。 「おい、何で近寄るんだ」 「……今はまだ、戻る気はないんだ」 「任務に支障ないだろ。仕事しやがれ聖騎士」 「でも、屋敷にいればいつでもネロの紫色が見える。それに慣れてしまうと……離れがたい」  本に顔を近付けてライオネルの方を見ないようにしていたら、ぴったりと身体を寄せられて驚いた。  ビクッと身体を震わせて避けようとするが、肘掛けがあってこれ以上横には動けないんだよな。  逃げる先を考えあぐねているうちに、ライオネルの手が腰に伸びてきてしっかり抱き寄せられてしまった。吐息が耳朶に触れるとくすぐったくて首を竦める。 「ネロ。そんなに身体を硬くしないでくれ。怖くないから」 「こ、こわくてこうなってるわけじゃ……」 「では、なぜなんだ?」  わざとなのか、ライオネルは唇をオレの耳元へ近づけて囁きかけてくる。その声はいつもの張りのある伸びやかな声ではなく、熱の籠もった甘い響きを帯びていた。  官能的にも聞こえるその声に身体の芯が痺れたような感じがする。本を障壁のように立ててライオネルの胸に押し当て、そのまま押し返そうとするがびくともしなかった。  鉄板みたいな胸にも驚いたが、オレの身体はそんなにひ弱か? とプライドも傷つく。 「東方人の身体は、帝国の者より一回り小さいらしい」  ライオネルは唐突にそう言ってオレの手をそっと握ると、手の平を合わせてきた。  指の太さも手の平の厚みもまるで違うが、肌の色だけは同じだ。東方人らしい肌の色というとバージルのようなのを言うので、オレはやはりいるんだろう。 「筋肉も付きにくいと聞く。ゼフィール様から聞いたが、ネロはその身体で……十八歳なんだよな?」 「は? 馬鹿にしてるのか?」 「い、いやそうではなく。もう立派な大人なんだなと……先ほど聞いて」 「そうだ。子どもじゃないとバージルにも言っておいてくれ」  手のひらを合わせているのが妙に気恥ずかしく、目を逸らして早口に言い捨てる。  すると、ライオネルはなにを思ったか急にオレの手を引き寄せ、そこに唇を押しつけてきた。ひっ、と手を引こうとするけど掴まれていて逃げられない。  ちゅ、ちゅ、と何度も柔らかな唇が指先に、指の関節に、手の甲に、と触れていった。ぞわぞわと不思議な感覚が背を走る。堪えきれずソファから逃げ出そうと身体を捩るが、がっちり腰を掴まれていて動けなかった。 「は、離せ……」 「なぜ? 痛いことも苦しいこともないだろう? 子どもじゃないのなら、大人の交流を我慢することもない」 「……は? なんだって?」 「私はネロがまだ子どもだと思って、遠慮していたんだ」  スッ、とオレたちの間を辛うじて隔てていた本を取り上げられてしまった。  それを丁寧にテーブルへ戻すと、ライオネルはオレに向き直り軽々と抱き上げてしまう。向き合う姿勢で膝に乗せられて、腰をぎゅっと引き寄せられた。  密着する胸板からいくら腕を突っ張っても逃れられず、じたばたと暴れる。 「ネロ」 「ッ……なんだよ」  耳元に唇を寄せて名前を呼ばれると、また身体が跳ねた。その反応を笑われるかと思ったら、真剣にオレを見つめる、色の違う二つの瞳とぶつかった。 「ライオネルと、呼んでくれないか」 「な、なんだ、いまさら」 「バージルも、ゼフィール様も名で呼ばれているのになぜ私だけ呼んでくれない?」  そうだったか? と眉を顰めて不思議そうにすると、ライオネルは傷ついたような顔をした。しゅんとした犬のようなその表情に罪悪感がこみ上げる。 「ラ、ライオネル」  パッと顔を上げたライオネルの嬉しそうな表情は、水を得て背を伸ばす花のようだった。輝くばかりに華やかで、眩しいくらいだ。 「もう一度呼んで欲しい」 「……ライオネル」 「ああ、嬉しい。ネロ……ネロ!」  ぎゅうっと膝に乗せられたままの姿勢で強く抱き締められた。オレの肩のあたりに銀髪の頭が埋もれていて、鎖骨にはライオネルの頬が触れている。その僅かな部分がじわりと熱くて、なぜだか身体がムズムズと落ち着かなかった。 「な、名前を呼ばれたくらいで……」 「『くらい』じゃないだろう。愛しい相手に名を呼ばれて喜ばない男がいるものか」 「い、としい……?」  いとしいあいて、とは?  不思議そうに頭を横に傾けたらぴくりとライオネルが身体を硬直させた。そして左右色の違う目がみるみる見開かれていって慌てたように肩を掴まれた。 「ネロ、私は君が好きなんだ」 「……ええと、やはり男が趣味だったのか。妾にでもするつもりか?」 「そ、そうではなくて!……ああ、君の感覚ではそこまでが限界か。これは、私の落ち度だ。すまない。順序を間違えてしまったな」  低く唸ったライオネルは、勢い良く立ち上がった。  そのままオレを横抱きにして、先ほど陛下に勧められた『隣の部屋』へと移動する。そこはメイドもおらず機能的で、飾りの少ない部屋だった。オレがいやすい環境を追及してくれたんだろうか。  その部屋のベッドにそっと下ろされて、ライオネルは絨毯の上に跪いた。この姿勢、神殿のときと似ているなと思いながら様子を見ていると、ライオネルはオレの左手を恭しく捧げ持ち手の甲に口付けをした。 「聖騎士ライオネル・ヴァンフォーレは、貴方を守り、生涯をかけて貴方に仕えることを誓う」 「……え」 「許す、と言ってくれ」  乞うように見つめられて反射的にその言葉をくり返した。 「ゆ、許す」  そう言った途端、オレの手の甲に光る模様のようなものが浮き上がり、すうっと消えた。ライオネルはそれを見届けると、腰の剣を鞘ごと外してオレの膝に置いた。 「これでネロはいつでも私を殺すことができる。今のは神官の扱う聖魔法のひとつ『誓約』だ」  何だそれ、と驚いて見つめていたらライオネルは嬉しそうに目を細めて笑った。 「生涯をかけて守り、愛するのはネロひとりと決めた。他は要らない。だから破れば死ぬ魔法をかけたんだ」 「死ぬって? それ呪いじゃ……」 「――私は少しばかり自惚れていた」  オレの言葉をやんわりとさえぎるようにライオネルは言葉を続け、首を傾げたらまた微笑み返してくる。 「今日、ゼフィール様にネロの年齢を聞いたんだ。それと、ネロの髪に触れるのは特別気に入られた相手だけだったとも言われたし、抱擁の許しを得ているのも私だけだと気づいて自惚れてしまった。ネロも私と同じように好いてくれているのではと、恥ずかしながら勝手に思っていたんだ。すまない」  一度銀色のつむじが見えてから、ライオネルは再び顔を上げた。 「今度は間違わないように私のすべてを捧げてネロに愛を乞う。……ネロ、私は貴方を愛している」  怒濤のように与えられる情報に頭がついていかない。ゼファーが何を口走ったのか知らないが、間違いだ。  確かにオレは髪を触られるのは好きじゃないが、それはカキアみたいに乱暴に引っ張られるのが嫌いだからで……。  いや、なんでライオネルには許したんだっけ?  上手い言い訳が出てこない。これじゃあまるでライオネルが言うように、オレがこいつを好きなことが理由みたいに、なってしまう。 「……!」 「ネロ? 顔が真っ赤だ……」 「いや、ちょっと待て、待ってくれ、こん」 「こん?」 「らん、してるッ」  ベッドに転げて顔を覆い、ううう、と唸りながら丸まった。  いやいや待て待て、オレがどうしてこいつを好きにならなきゃいけないんだ。  顔は良いが性格はおキレイ過ぎて鼻持ちならないし、いつも喧しく追いかけてきて諦めも悪くて何度もその執着に呆れさせられて、オレのせいで怪我をさせたし騎士団も辞めさせられたから恨んでるだろうし、それからなんだっけ?  駄目な理由は、もっとあったよな。たくさんあっただろう!? 「お、お前……オレを恨んでないのか」 「なぜネロを?」 「目を矢で射抜かれただろう」 「アレは君の放った矢ではないし、私が勝手に君を守ろうとしただけだと言っただろう? しかもネロが応急処置をしてくれたおかげでこの目は新しい力をもった美しい紫に生まれ変わった。感謝こそすれ恨むなどあり得ない」 「……オレが、悪党の闇魔術師でも、いいのか。嫌われ者のオレでも」  問いかける声がだんだんと小さく、自信がなくなっていく。 「私は、どんな君でも構わない。きっと、ひと目見たときから焦がれていたんだ」  でも淀みなく答えるライオネルに引きずられ、オレの不安は浸食されるように押し流されていった。  オレはあの日ライオネルが放った言葉を忘れたことがなかった。  ガキだと見下されたと思ったから、忌々しさから覚えていたのだと思っていた。でも本当は、あの輝く白銀の鎧と靡く銀髪、そして鋭いアイスブルーの瞳の煌めきが、目に焼き付いて離れなかったんだ。 『君は、まだ子供だろう! そんなところで何をしている!』 『うるせぇ! ガキだって立派な悪党になれんだよ!』  ライオネルは騎士になったばかりでおそらく十七歳、オレはまだ十二だった。  生意気なヤツがいたと、少しでも刻みつけてやろうと思った。住む場所の違う清廉潔白な騎士に対して、汚泥に塗れたこの身は塵ほどの価値もない。  できることなら、無視できないような忘れられない悪党になってやろうと思った。どこに現れてもオレを真っ先に見つけてくれるのが、内心嬉しくて仕方なかった。  大人たちに無視されて、玩具みたいにうち捨てられて見向きもされなくて、戯れにいたぶられては放り捨てられるだけの奴隷だったオレが。  あんな綺麗な瞳に映ることができた、そのことが堪らなくむず痒くて浮き足立って、泣きたくなるくらい嬉しかったんだ。  きっとあの時からオレはライオネルのことが特別で、焦がれるほどに、好きだった。 「……ライオネル」 「ネロ? どうしたんだ、泣いて……?」  ベッドに横になったまま、鼻をすすり上げて両手を伸ばした。おろおろと動揺しているライオネルを引き寄せる。みっともなく涙でくしゃくしゃの顔を晒してるのは分かっていたが、どうしても堪えられなかった。 「ライオネル、オレも。お前が、好きだから……抱き締めて欲しい」 「……ネロ!」  手を掴まれ、強い腕に引き寄せられた。  初めてオレからも相手の首の後ろに腕を回して、力の限りに抱きつく。オレの腕の力なんか比じゃないほどライオネルの力は強くて、息が苦しくなるくらい抱き締めてくれた。  それが心地良くてどうしようもないくらい嬉しくて、オレはずっとライオネルを抱き返していた。  だってオレは、ずっとこれが――欲しかった。  オレだけを見てくれる人が、この世界にひとりでもいい、いてくれたなら。  生まれてきた意味があるんだろうって、思えるからだ。

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