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第8話
文化祭二日目の朝は、ファッションショーの準備で目が回るような忙しさだった。みんなで協力してどうにか時間までに準備を終え、舞台袖での最終確認まで漕ぎ着けた。モデルたちは全員緊張した面持ちだったが、その顔には自信が満ち溢れて見える。雪兎はいちばんうしろで見守りながら、自分が出るわけでもないのに人一倍緊張していた。さっきちらりと見た会場が、立ち見が出る程満員だったせいかもしれない。
「それではみなさん、楽しんでいきましょう!」
その一言を合図にして室内の照明が落ちた。大音量で音楽が流れ、スポットライトがランウェイの入り口を照らすと、会場から溢れんばかりの歓声が上がる。トップバッターがスタートラインに立って、第一歩を踏み出した。歓声に応えるように手を振りながら、にこにこと楽しそうに歩いていく。
いざショーが始まってしまうと、思っていたよりもやることはなかった。モデルたちは戻ってくるなり次の着替えにバタバタする者もいるが、ヘアメイクチームは髪が乱れたらちょっと整えるくらいだ。舞台袖から覗くだけでもショーは充分楽しめたし、間近でモデルたちを見られる分特等席かもしれない。
結果、ファッションショーは大成功だった。大トリを飾った楓はとんでもない歓声に迎えられ、さながら本物のランウェイのようだ。やり切ったモデルたちや生徒が笑顔で抱き合うのを見守りながら、微力ながらその一員になれたことに達成感を覚える。会場に手を振りながらこちらへ戻ってくる楓は、スポットライトの下で特段輝いて見えた。目に焼きつけておきたいと思ったのは雪兎だけではないはずだ。
歩き切った興奮冷めあらぬ様子で駆け寄ってきた楓に、その勢いのまま強い力で抱き締められた。口から心臓が飛び出しそうなほど驚いて、すぐに動くことができない。はじめて包まれるぬくもりが心地いいと感じてしまうことにも戸惑った。聞こえる鼓動が早いのは、なにも雪兎だけのせいではないらしい。
「ごめん、つい抱きしめたくなって。先輩の腕はたしかだって証明できたことがうれしくて」
「俺だけじゃなくて、みんなで頑張った結果だよ?」
「うん。でもここまで歓声を受けられたのは、先輩のお陰だなって思うから」
ぎゅう、と抱き締められる腕に力が籠った。苦しいと小さく苦言を呈すと少し力が弛んだが、離してくれるつもりはないらしい。
「歓声がすごいのはきみが元々格好いいからだよ?」
「先輩、俺のこと格好いいと思ってくれてたんだ」
顔を覗き込んできた楓がうれしそうに破顔した。今の楓は極上のお菓子みたいに甘くて直視に堪えない。顔の近さに頬が熱くなった。会場の薄暗さの中で、気づかれていないことを願う。
「俺だけじゃなくてみんな思ってることだよ」
「先輩が思ってくれてることが重要なんだよ」
楓はそうやってすぐ、雪兎の心を擽ってくる。
「きみはすぐ、俺を絆すようなことを言うんだから」
「ほだす?」
「なんでもない。ほら、みんなが呼んでるよ」
気づくと、会場からアンコールを求める声が上がっていた。他のモデルたちはすでにアンコールに応える準備を始めており、楓はそちらをちらりと見ると、名残惜しそうに雪兎を離した。
「先輩、このあと時間ある?」
「うん、当日はあんまりやることないし」
「じゃあ一緒に文化祭回ろう」
「え?」
「お化け屋敷、一緒に入ろうって言ったでしょ」
そう言えばそんなこと言われたなと思っているうちに、楓がそこで待っててね、と言い残してステージに戻っていった。歓声を浴びる楓を見ていると、とんでもない約束をしてしまった気がして青くなる。あわよくば彼と文化祭を回りたい女の子は山ほどいるとわかっていたが、せっかくの誘いを断るのも惜しい気がした。惜しいと思えるくらいには、絆されている自覚があるし、その時間が近づくにつれてじわじわと楽しみの方が勝ってくる。
今日はきっと、高校生活最高の思い出になるだろう。いくら頑張っても楓を想う女の子たちと同じ土俵に立てることはない雪兎が、半日くらい楓を独占したところできっと神様は許してくれる。これ以上を望んだりはしない。
だから、許して欲しい。
文化祭を終えてからの日々はあっという間に過ぎた。雪兎は無事に美容専門学校への入学が決まり、自由登校期間に入ると母の店を手伝う毎日を過ごした。専門学校は実家から通える範囲内だったが、都内に住んでいる姉の家に居候することが決まっている。手伝いの合間に荷造りをしていると、生まれ育った我が家を出ていく寂しさが募った。雪兎が出ていけば母がひとりになってしまうことも気がかりだ。
卒業式を翌日に控え、朝から昼までは卒業式の練習に参加した。文化祭実行委員のお陰で少し話せる生徒が増えたものの、大きな環境の変化はなかった。相変わらず楓との逢瀬は続いていたが、それも雪兎が卒業してしまえば終わりだ。
三年生は午前中で終わりだったので、雪兎は久々に屋上へ上がった。楓と逢えたらいいなと思いながらドアを開けたら、楓がベンチに座ってぼんやりとしているのが目に入る。いつしか雪兎は屋上のカギをドアに差しっぱなしにしていた。だれも来ないとわかっていたし、楓がいつでも逃げ込める場所を提供したかったからだ。
季節は春を迎えようとしていたが今日は風が冷たかった。ぽかぽかとした陽射しに照らされる楓の髪が陽に透けて、それだけで絵になる。
ドアが開いたことに気づいたのか、楓がはっとしてこちらを見た。久しぶりと笑う笑みがぐっときて泣きそうな気持になる。
「もうお昼か。先輩たちは午前中で終わりなんだよね」
「お昼かって、いま来たわけじゃないの?」
「三限が体育だったんだけど、体育館から卒業式の練習してる声が聞こえてさ。それで、ああもむすぐ卒業しちゃうんだって思ったらここに来たくなって、四限サボっちゃった」
「大丈夫なの?」
「自習だったから」
そう言う楓はいつも通りだったが、些か元気がないようにも見えた。それは雪兎が卒業する寂しさを感じてくれているからだろうか。それを言うのなら、雪兎の方がずっと寂しい。
きっと楓はそのうち、地味で目立たなかった先輩のことなんて忘れてしまうだろう。楓の日々は雪兎と比べ物にならないくらいに輝いて、きっと目まぐるしい。あの日楓がここのドアを開けてくれたお陰で、この一年はとても楽しかった。そう思うからこそ、寂しさも一入だ。
そんなことを考えていたら、涙が頬を伝うのがわかった。ぎょっとした楓に肩を掴まれて、なにか悪いことでも言ったかと問われる。なんでもないと首を振っても、一度溢れてしまったものは中々止まらなかった。大丈夫かと覗き込んでくる楓の瞳が、吸い込まれそうなほど綺麗だった。そこに映る自分の姿は前髪で顔を隠した、地味で大人しそうな男でしかない。
「ごめん、急に寂しくなっちゃって。きみに逢えるのも最後だなって思ったら、つい」
「ここで逢えるのは、でしょ?」
「え?」
「逢おうと思えばいつだって逢えるよ。俺、先輩に逢いに行くし。ほら、こっちに帰ってきたときとかさ。お祭だって来年は一緒に行こうよ」
「そう言ってくれてうれしいけど、きみは俺のことなんかすぐに忘れちゃうよ」
「そんなことないよ。俺は、」
そこで楓が言葉を失ったように固まって、すぐに誤魔化すように笑う。なにを言おうとしたのか、知る術のない雪兎がきょとんとしていると、楓の指が優しく眦を拭う。びっくりして涙が引っ込むと、触れられた部分にじわりと熱が滲んだ。
「そうだ、約束の証になにか交換するのはどう? そしたら忘れないでしょ?」
「なにかって?」
「そうだなぁ、ボタンは? 先輩の第二ボタンと、俺のを交換すればいいんじゃない?」
「きみは卒業するわけじゃないんだから、」
「先輩のを縫いつければいいじゃん。ずっとここに先輩のボタンがあれば絶対に忘れないし」
いい考えでしょう? とでも言いたげな満足そうな笑みを浮かべられると、そんな気がしてきた。鋏を持っているかと問われて、楓の髪を切るための鋏を入れっぱなしにしていたことを思い出す。髪を切る専用の鋏は他の物を切ると切れ味が悪くなってしまうが、細い糸を切るくらいであれば差し支えないだろう。
鞄から取り出した鋏の持ち手を楓の方へ差し出す。受け取った楓が自分のブレザーの、上から二番目のボタンの糸を切った。次は雪兎の番だと言うように鋏を差し出されたので、同じように上から二番目のボタンの糸を切る。切ってしまってからはたと、明日が卒業式本番であることに気づいた。けれどもうあとの祭りだ。
「いま切っちゃ駄目だったんじゃない?」
「そうか。でも俺のボタンを縫いつければわからないよ」
はい、と、綺麗な指に挟まれたボタンがころんと雪兎の掌へ落ちた。同じデザインのなんともないボタンのように見えて、これは楓の第二ボタンなのだ。将来、彼の卒業式の日に争奪戦になるだろうこれを、こんなに簡単に手に入れてしまっていいのだろうか。そして女子生徒たちが欲しているボタンが実は雪兎のものだなんて、だれが想像するだろう。
「ボタン交換するのって、なんかいいね」
「そう、かな?」
「うん。先輩の第二ボタン、大切にするね」
渡したそれを大切そうに握り締められると、まるで心臓を柔く握られているような心地がした。掌にすっぽりと隠れてしまうほどのボタンを、これから先雪兎はずっと大切にするのだろう。忘れないよと言ってくれただけでうれしいのに、こんな約束までくれるなんて、不相応にも程があるとはわかっているけれど、
「あ、予鈴、」
雪兎がそう言うと、楓が名残惜しそうな顔をした。このままでは五限目もサボりそうだったので、楓の手を引いてベンチから立たせる。
「ほら、行かなきゃ」
「先輩って真面目だなぁ。どうせ次もテストが返ってくるだけだよ?」
「それでも授業にはちゃんと出ないと駄目だと思う」
「わかったよ。じゃあ卒業式のあと、ここで待ち合わせね」
言われたことを雪兎が理解する前に、楓は約束だからね! と言い残して屋上を去ってしまった。たったひとり残された雪兎は言われた言葉の意味を噛み締めながら、貰ったボタンをきつく握りしめた。
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