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第9話

 ノックの音がして、疾風が凪と連れ立って部屋に入ってきた。慌てて席を立って場所を譲ると、同席するかと問われる。それを断って逃げ出すように部屋を出た。雪兎を呼ぶ楓の声が聞こえた気がしたが、追いかけては来ないだろう。  片付け作業を続けている同僚たちに先に帰ると断ると、顔色が悪いと心配された。タクシーを呼ぼうか? という申し出を断って店を出ると、半ば走るようにして駅へと向かう。  卒業式の日、雪兎は屋上へ行かなかった。最後の最後まで行こうか行かまいか迷って、行くことができなかったというほうが正しい。楓に対する想いが普通から逸脱したものだと気づいていたからこそ、これ以上は駄目だと勝手に一線を引いた。楓が忘れないでいてくれたとしても、卒業後も連絡を取り合ってくれたとしても、これ以上を望んではいけない。彼の気持ちを無下にした後悔を忘れたことはなかった。けれどまさか、探し出して逢いに来るなんてだれが思おう。 「森宮って、あの森宮 楓!?」  雪兎の話を聞いて、央基が素っ頓狂な声を上げた。家に帰る途中で相談があると彼に連絡を入れたら、金曜日ということもあって仕事帰りに雪兎の家に寄ってくれたのだ。央基は相変わらず唯一の友人で、就職したのちも定期的に飲みに行ったり遊んだりしてくれる。広告代理店の営業をしていて、残業も多いがやりがいのある仕事だと言っていた。  楓が自分に逢いに来たと告げた途端、央基はたいそう驚いたようだ。森宮 楓という名前はいまや、飛ぶ鳥を落とす勢いでだれもが知るものとなった。雪兎が彼への気持ちを心の奥へ押し込んで過ごしていた今日までの間に、彼は一読者モデルから有名ブランドの広告塔に抜擢され、すぐに数々のドラマに引っ張りだこになった。演技力の高さもさることながら、その整った容姿と人当たりの良さでバラエティでも活躍しており、ほんとうによく姿を目にする。だから諦めきれないのだというのは、ただの言い訳だとわかっていた。画面や紙面を通してしか逢うことができない楓を、ひとりのファンとして応援するだけだと言い聞かせてきたのは雪兎自身だ。 「そう、あの森宮 楓」 「せっちゃんが恋してた森宮 楓か」  央基は差し入れに持ってきたビールの缶を傾けながら、既に状況を飲み込んだようににやりと笑った。それで? と促された雪兎はキッチンで軽いつまみを作りながら、それでって? と言葉を返す。 「念願の再会を果たせたわけだろ? 逢いに来たっていうくらいだから、脈があるんじゃない?」 「そんなわけは、ないと思うけど。それに恋してたってなんだよ。俺も森宮くんも男だぞ」 「関係ないよ、そんなの。高校の先輩をわざわざ探し出して逢いに来るなんて、特別な感情がなかったらしないと思うし。これからどうなるかはせっちゃん次第だと思うけどなぁ。せっちゃんはどうしたいの?」 「どうって、どうしたらいいかわからなかったからヒロに連絡したんだろ」  そう言ったら、そりゃあそうか、と他人事だと思って面白がっているのがわかった。つい小さな溜息を吐いてから、つまみをリビングのローテーブルに出す。 就職してからひとり暮らしを始めた雪兎の部屋はリビングと寝室が広いワンルームになっていて、間を簡易建具で仕切れるようになっていた。ダイニングテーブルは置かずに、ソファの前のローテーブルを食卓テーブルとして使っていたので、央基は慣れた様子でソファを背に床で胡坐をかいている。雪兎は明日も仕事だったが、央基に促されるままにチューハイを手に取る。酒にはあまり強くはないが、今日は飲まないと気持ちの整理がつきそうにない。  こじ開けられた心の蓋を、再び閉めるのは難しそうだった。偶然遭ったならまだしも、逢いに来た、だなんて甘い言葉を吐かれたのだ。この気持ちが初恋だと思い知らされたあとでは、もうどうすることもできない。  央基が言うように、雪兎が勇気を出せば楓との関係を続けることは可能だろう。けれどこの気持ちを抱えたまま彼の傍にいたら、叶わない恋の苦しみが永遠に続くようで怖かった。楓があの調子だから自惚れるなんて簡単だ。 「たぶん、もう逢わないよ。あっちも忙しいだろうし」 「そうかなぁ。俺はまた逢いに来ると思うけどな」 「そうだとしても、逢わない。住む世界が違い過ぎるし」 「住む世界、ねぇ。うちの会社でもお世話になってるけど、クライアントにえらい評判がよくてさ。あんな軽そうな見た目してるくせに、人当たりもいいしスキャンダルも起こさないし、あれは人誑しだな」 「人を見た目で判断しちゃあ駄目だよ。森宮くんはそもそも、あんまり女の子に騒がれるのはすきじゃないみたいだったし」  彼が最初に屋上へ訪れたのだって、女の子たちに騒がれることに辟易したからだ。彼の人気がいかに凄かったのかは、いまの活躍ぶりを見れば誰だって頷けるだろう。彼のことが嫌いな女の子なんて存在しないのではないかと、あのころの雪兎は真剣に思っていたくらいだ。  なにかを思いついたように央基が身を乗り出した。もしかしたらさ、と前置きをしたあとで、とんでもないことを言い出す。 「女の子に興味がない、とか?」 「それは、どうだろう」 「そんなわけはないか。でもせっちゃんが気に入られているのは間違いないと思うし、ちょっと積極的になってみたら?」 「あの森宮 楓だよ? そうだとしても、もう俺なんかじゃ釣り合うわけないよ。自惚れるだけ馬鹿を見るって」  自分で言っておいて、それがぐさりと心に刺さった。ぐびっとチューハイを煽ると、甘いはずの酒がやけに苦く感じる。叶うはずのない恋心ごと、飲み下して排泄できたらどんなにいいだろう。 「まぁ、最終的にはせっちゃんには俺がいるからね」 「ええ? なに言ってるの?」 「せっちゃん、俺しか友達いないでしょ? もちろんすきな人を作って、しあわせになってくれればそれがいちばんだけどさ。もしせっちゃんがおじいちゃんになるまでひとりだったら、俺が面倒見ようって決めてるから。だから安心して」  ほら乾杯、と今更になって缶をぶつけながら、央基が満面の笑みを浮かべた。その言葉が本心なのか慰めるための詭弁なのかわからないまま、雪兎はただ酒を飲むことしかできなかった。

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