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第10話

 また逢いに来ると思うと言った央基の言葉は当たっていた。滅多にないことだが、疾風は予約が入っていない日は店を早めに閉める。閉店したあとは従業員が自由に使っていいことになっていたので、普段は練習をするスタッフが数名残っているのだが、今日に限っては雪兎ひとりきりだった。カット用のマネキンでいざ練習を始めようとしたところで、CLOSEがかかっているはずのドアがノックされた。通りに面した窓にもブラインドを落としていたし、明らかに閉店後だとわかるはずだ。そう思いながらも、せっかく来てくれた客を無下にはできない。カギを開けてドアを明けると、帽子目深に被りサングラスをかけた男が立っていた。一応バレないように変装をしているつもりのようだが、その立ち居振る舞いからはオーラが駄々洩れだ。 「もう、お店は終わったんだけど」  素っ気なくそう言ったつもりでも、楓にはちっとも響いていないらしい。自分の方が背が高いくせにサングラスをずらして上手いこと上目遣いに見上げてくる仕種に、ぐらりと心が揺らいだ。 「まだギリギリ営業時間内じゃない?」 「予約が入っていない日は早めに閉めるんだ」 「そうなんだ。でも、先輩がいてラッキーだったな」 「ラッキーって、もうお店は閉めたんだってば」 「そんな酷いこと言わないでよ。今日は先輩に髪を切って欲しくて来たんだからさ」  そう言われると無下に追い返すこともできなかった。どうやら本気で言っているようだったので、招き入れてからドアをしっかりと施錠する。もう逢わないと決めたはずなのに、そんな決意は彼を前にするとなんの意味もなさない。彼を前にすると降って湧く甘い感情に、心がじくじくと熟んでいくようだ。  席に案内すると楓が帽子を取った。現れた色素の薄い柔らかい髪はあのころと変わっていない。棚からケープを取り出して自分のワゴンと共に楓の元へ戻ると、鏡越しにこちらを伺う眦が笑みに弛んでいた。相変わらずの瞳は吸い込まれそうで、見られていると思うと落ち着かない。ケープで彼の首から下を覆うと、椅子についているペダルを踏んで高さを調整した。 「どんな感じにしましょう?」  心の内を悟られないように気を遣い過ぎて、言葉の響きがよそよそしくなってしまった。楓が可笑しそうに噴き出して、それからちょっと短めにお願いしますと言う。 「そんなに笑わないでよ」 「ごめん、緊張してる?」 「そりゃあ、あのころとは違うし、」  楓の髪をコームで梳きながらそう言い訳した。邪魔な分の髪をピンで留めると切る部分を霧吹きで濡らす。気にしないようにしていても手が緊張で震えていた。彼の髪をはじめて切ったあの日のことを思い出す。あの日彼は、雪兎が似合うと思う髪形に切ってくれと言ってくれたのだ。 「少しずつ切っていくから、都度教えてもらってもいいかな」 「お願いします」  そう言って楓が鏡越しに笑みを向けてくる。失敗しませんようにと願いながら、微かに震える指先を叱咤した。カットを任されるようになってしばらく経つのに、楓の髪を切っているのだと自覚するだけでこんなにも緊張する。あのころも失敗したらどうしようと思っていたけれど、今はもう失敗は許されない。 「そんなに緊張しないで。ちょっとくらい切り過ぎても大丈夫だから」 「そういうわけにはいかないよ。きみはもうスターなんだから」 「スターって。ああ、先輩は俺のファンなんだっけ」  そう言われてどきりとした。そう言えば再会したあの日、そう言って誤魔化したのだっけ。けれど彼はその言葉に、雪兎がどれだけの拒絶を込めたのか気づいていないに違いなかった。もう二度と逢わないつもりで絞り出した言葉だと、もしわかっていたならここには来てくれなかっただろう。  恋焦がれる相手が懲りずに逢いに来てくれたのだから、自惚れるなというほうが無理だ。自惚れただけ馬鹿を見るとわかってはいても、嫌われてはいないのだとつい思ってしまう。そんな邪な気持ちを抱いていると、彼の髪に触れる指先がちりりと焼け焦げそうだった。  楓の指示が的確だったので、不安とは裏腹に理想の髪形に仕上がってほっとした。髪の屑を払ってケープを取り払うと、楓が短くなった髪を弄りながらいい感じだと言ってくれた。 「ようやく、約束果たせたね」 「約束?」 「先輩が美容師になったら最初のお客さんにしてくれるって言ったろ? 最初っていうのは無理だったけど、切ってもらえてよかった。これからもよろしくね」 「これからって、専属の美容師さんがいるだろ? 切り慣れてる人の方がいいと思う」 「迷惑?」 「そんなことはない、けど、」  彼の言葉が本当であるのなら、素直にうれしかった。仕事上の付き合いとはいえ定期的に逢えるのだから。二度と逢わないつもりだと央基に言った舌の根も乾かぬうちに、そう思う自分の浅はかさを呪いたくなる。 「じゃあ決まり。とりあえず、このあと食事でもどうですか?」 「え? このあと?」 「予定ある?」 「ないけど。きみこそ忙しいんじゃない?」 「もしかして行きたくない?」  そう問われると言葉に詰まった。行きたくないなんて口が裂けても断りたくはない。けれどこれ以上踏み込んでしまったら、どんどんと欲張りになりそうで怖かった。彼は傍にいられるだけで満足だと思うことすら烏滸がましい存在なのだ。  困っていたら、じゃあ埋め合わせってことでと言われた。何事かと思ったら、どうやら卒業式の日の約束を反故したことを言っているらしい。気まずさが顔に出ていたのか、怒ってるわけじゃないから、と困ったように笑われる。ただそう言えば来やすいだろうと、雪兎に気を遣ってくれているらしい。  そういう優しいところはあのころから変わっていなかった。その気持ちを無下にするのはあまりに勿体なくて、断る言葉をなくしてしまった。  片付けを終えて店の戸締りをすると楓と連れ立って道を歩く。いくら夜だとは言え通りに出れば繁華街だ。割と人通りがある道を楓は気にした様子もなく歩いていくので、雪兎ばかりがバレやしないかと冷や冷やした。帽子とサングラスで顔を隠したくらいでは楓のオーラを消すことは難しい。声をかけられたりはしなかったが、明らかに道行く人が振り返るのがわかる。 「顔バレしたりしないの?」 「うーん、たまに声をかけられたりはするけど、夜だしわからないんじゃない? 街中にいたら結構バレないもんだよ。ここまでも電車で来たし」 「電車で来たの? きみが?」 「俺のことなんだと思ってるの? 普通に電車だって乗るよ。タクシー移動とかの方が多いけど」  楓がそう言って苦笑った。あのころならともかく今の楓が電車内にいたりしたら、阿鼻叫喚になったりしないのだろうか。それこそ楓になんだと思っているのだと、笑われそうな気がするから言わなかった。  連れてこられたのは裏通りにあるこじんまりとしたお店だった。地下に続く階段がぽっかりと口を開けている、いかにも芸能人御用達といった雰囲気だ。そこここにいる人たちがみんなお洒落で、全員が全員芸能関係者なのではないかと思ってしまう。上京して何年経ってもこういう洒落た店は苦手だ。  案内されたのは個室だった。店内は控えめな明るさだったが、向かい合う楓の顔は中々直視することができない。メニューを差し出されたがお洒落な名前でよくわからなかったので、年上としては情けなかったが全部楓に任せることにした。 「よく来るの?」 「事務所の同期に美味しいって教えてもらって何回か来たくらい。先輩のお店から近かったし、個室だからゆっくりできるかなって」 「そう。こういうところ来たことないから緊張する」 「じゃあ、これからいろんなところに行こうよ」  そう言う楓に面食らった。なにを言われているのかわからない。そんな雪兎を置いてけぼりにして、楓の声は明朗快活に続いていく。 「ご飯食べに行ったり、休みの日は映画を観たり、買い物に行くのもいいな。それから、」 「ちょ、ちょっと待って。俺に構ってる時間なんかないだろ? ただでさえ忙しいんだから、休みの日くらいはゆっくり休まないとだめだよ」 「忙しいからこそ空いた時間はすきなことしたいんだよ。だから先輩がよければ俺と遊んで欲しいな。ほら、スマフォ出して」 「え?」 「連絡先、この前交換する暇なく逃げられちゃったから。今日は教えてもらわないと」  貸して、と手を出されると四の五の言わせない圧力を感じた。鞄から取り出してロックを外すと楓に手渡す。彼が手慣れた様子で自分の連絡先を登録するのを眺めながら、あのころどうして交換しなかったのだろうとぼんやりと思った。特に必要性を感じなかったせいもあるが、ふとした瞬間に思いついてもよさそうなものなのに、  ――でも、俺からは絶対聞けなかったな。  ふふっとつい小さく苦笑うと、楓にどうして笑っているのかと問われた。なんでもないと誤魔化すと、スマートフォンを返される。彼の連絡先が登録された小さな媒体は、先ほどよりもずっしりと掌に重たい。 「すきなときに連絡してね、って言っても、先輩のことだから俺のこと気にしちゃうでしょ? だから俺からする。先輩はそれに答えてくれるだけでいいから」 「そんなに気を遣ってくれなくても、ちゃんと返すよ?」 「踏み込み過ぎると逃げられるってわかってるからね。俺ね、先輩が俺のファンだって言ってくれたのがうれしかったんだ」  そう言う楓から零れた笑みにはなんらかの想いが滲んでいるように見えた。特別な感情がなかったら逢いに来ない、と言う央基の声が不意に頭に反響する。そんなはずはない。そうわかってはいても、優しくされるたびに何度だって自惚れそうになる。 「先輩の目に俺はちゃんと届いてたんだなってわかったから。いろんなところで俺を目にしていたら、いやでも忘れられないだろ?」 「忘れられたくなかったの?」 「そうじゃなかったら、逢いに来ないよ」  どうして? という問いは、雪兎の口から零れることはなかった。丁度食事が運ばれてきたし、聞いてしまうのが怖かった。期待した答えが返ってくる確率は、限りなく低いとわかっているからだ。  食事をしている間は、他愛のない会話を楽しむことができた。楓が気を遣って、雪兎が答えにくい話題を避けてくれたのだとわかったのは、食べ終わって会計を終えたころだった。半分は払うつもりでいたらいつの間にか会計は終わっていて、しかも楓は取り合ってくれなかった。店の外に出るとすっかり夜も更けて、先ほどよりだいぶ静けさが際立つ。  楓はタクシーで帰ると言いながら、駅まで雪兎を送ってくれた。駅前通りのほうがタクシーが捕まえやすいからと言ってくれたのも、雪兎が気にしないための言い訳だろう。 「ご馳走になっちゃってごめんね。俺の方が年上なのに」 「気にしなくていいよ。俺が強引に誘ったんだし」 「強引って、俺のこと気遣ってくれただけでしょ?」 「じゃあ、今度はご馳走になろうかな。先輩って今も自炊してるの?」 「してるよ。節約にもなるし。もしかして、ご馳走って手料理のこと?」 「うん。それがいちばんうれしいな。先輩ってどこに住んでるんだっけ」 「うちに来るの?」 「だめ?」 「だめ、じゃないけど、」  ごく普通のありふれたアパートに楓が訪ねてくるところをだれかに見られでもしたら、場違いだと思われないだろうか。彼は気にしないと言うだろうけれど、楓を迎え入れられるようなお洒落な部屋というわけでもない。どうせなにを言っても言いくるめられそうだったので、雪兎はとりあえず頷いておくしかなかった。

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