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第16話

「毎回自分の家に帰ってから現場に行くのは不便じゃない?」  疲れたと項垂れる楓に食事を温めてやりながら、ついそう言ってしまった。弾かれたように顔を上げた楓に、そんなことはない! と否定されると、その力の入りように苦笑いが零れてしまう。  森宮 楓主演のBLドラマは深夜帯にも関わらず放映前からSNS上で大きな話題になっていた。楓は他の撮影の合間を縫って取材や宣伝のために奔走し、普段にも増してスケジュールに余裕がなさそうだった。そのうちのいくつかの媒体でヘアメイクとして声をかけてもらわなかったら、まったく逢うことすら叶わないほどだった。公私混同はいけないとわかっていながらも、声をかけてくれた凪には足を向けて眠れない。  それだけ忙しいなら、雪兎に連絡する時間をすこしでも休む時間に充ててほしい。逢いたくて仕方のない気持ちを押し殺して連絡を控えていたら、ある日いつでもいいから連絡をくれと泣きつかれてしまった。仕事の合間にスマートフォンを見たときに雪兎からのメッセージが入っていると仕事のやる気が出るのだという。 「もしかして迷惑?」 「……俺が逢いたいと想ってること、知ってるくせに」  そう答えれば、楓がうれしそうに頬を綻ばせる。雪兎が逢いたくて仕方ないとわかっているくせに、そう問うてくるところがずるかった。そもそもすこしでも楓に逢う時間を作ろうと、うちに帰ってくれば? とけしかけたのは雪兎のほうなのだ。  最初のうちはまだ、仕事で逢うことができていたからよかった。しかし忙しい楓と本格的に時間が合わなくなってくると、逢えない寂しさが募ってくる。楓が雪兎の気持ちを代弁するように、二言目には逢いたいと言ってくれるようになったので、密かにチャンスだと思ってしまった。うちに帰ってきたら? と冗談めかしたのは雪兎だけれど、本当に雪兎の家に帰ってくるようになるとは思っていなかった。ほとんど一緒に住んでいる、といって過言ではないと思う。 「先輩が心配することはなにもないよ。最近は直行してるし。それに帰ってきたら先輩に逢えるんだって思うと、仕事に張り合いも出るし」 「それならいいんだけど」  最近はさすがにすこし落ち着いたのだろう、以前と比べて早く帰ってきてくれるようになった。それでも忙しさは相変わらずのようで、ひとつ撮影が終わればすぐに次の撮影が始まり、ゲストで別の作品に出演することもあるという。映画などはずらりと出演作が並ぶこともあるし、確実にいまいちばん忙しい俳優のひとりに数えられるだろう。  そんな男が目の前で雪兎が作った夕飯を美味そうに食べている。彼のファンが知れば度肝を抜かれるに違いない。 「森宮くんのお家ってここから近いの?」 「どうして?」 「遠かったら、着替えに帰るのとか大変だなって思って」 「タクシーだから大変でもないよ。マネージャーに迎えにきてもらったりもするし」  何気なしに言われた言葉にどきりとした。何気なさを装って、田中の反応を伺ってみる。 「マネージャーさんになにか言われたりしない? 自分の家以外のところに迎えにきてもらうわけでしょ?」  彼女にどう思われているのか、ずっと気になっていた。あれ以来、田中は現場で顔を合わせても恙ない挨拶をしてくるだけだ。それが逆に不気味で変に勘繰ってしまう。  たとえなにか苦言を呈されていても、楓が雪兎に教えてくれるとは思えないが。 「上手く誤魔化しているから、先輩はなにも心配しなくて大丈夫だよ」  そうだといいのだけれど、とは口が裂けても言えまい。空になった食器を片付けて食後のお茶を淹れて戻ると、彼がソファに座って台本を読み始めていた。共に過ごす時間が増えるにつれ、楓は雪兎に遠慮することなく過ごすようになった。マグカップをローテーブルに置くとありがとうと返事はくるものの、その視線は台本の文字を追っている。そうなると最低一時間くらいは没頭してしまうので、その間に風呂に入ってしまうことにした。  風呂から上がると、丁度楓が台本を閉じたところだった。風呂上がりの雪兎を見てふふっと柔らかな笑みを零すと、俺も入ってこようかなと立ち上がる。荷物が入っているクロゼットの一角から着替えを取り出した楓から、まだ寝ないでねと念を押された。 「わかったから、早く入っておいで」 「そう言ってこないだ寝ちゃったの、だれだっけ?」 「もう、今日は絶対起きてるって。きみ、明日早いんだから早く入っておいで」  そう促してようやく、楓がそそくさと風呂場へ引っ込んだ。この間はベッドでゴロゴロしていたらうっかり寝てしまったので、今日はお茶を淹れ直してソファで待つことにした。静かな部屋の中でシャワーの音に耳を澄ませているのは落ち着かなかったので、テレビをつけて適当なバラエティを観ているふりをする。  次はがんばるからと言っておきながら、なかなかその機会は訪れなかった。楓は明日からしばらく地方での撮影で朝が早い。きっと今日もなにもせずに更けていくのだろうと思っていたら、いつの間にか楓が戻ってきていた。 「先輩?」  声をかけられてはっと我に返った。楓が髪をタオルで拭きながら、寝てたでしょ?と 揶揄してくる。ごめんと苦笑って楓からタオルを受け取った。足の間に座った彼の髪を乾かしてしてやるのがここ最近の日課なのだ。 「明日の準備しに帰らなくてよかったの?」 「うん。兄さんに持ってきてもらうから」 「凪さんに?」 「ああ、言ってなかったっけ。俺、兄さんと一緒に住んでるんだ。あの人一応俺の専属スタイリストだから、今回の撮影にも同行するんだよ」 「一応って。凪さんに怒られるよ」 「俺がもうちょっと売れてたら、先輩を専属ヘアメイクとして連れていけたのになぁ」 「もう充分売れっ子のくせに」  そう言ったら、楓が擽ったそうに笑った。ドライヤーを洗面所から取ってきて乾かし始めると、彼が心地よさそうに目を瞑る。彼の髪は指触りがよく、癖もなく真っすぐだ。普段はワックスでスタイリングしているので、さらさらヘアーの楓が見られるのは雪兎だけの特権かもしれない。 「どこで撮影なの?」 「九州のほう。お土産買ってくるね。毎日電話もするし」 「俺のことは気にしなくていいから、作品に集中しておいで。連絡はメッセージで充分だから」 「またそんなつれないこと言う!」 「ふふ、冗談だよ。俺も森宮くんの声が聞きたい」 「じゃあ、今のうちにその〈森宮くん〉ってやめない?」  振り向いた楓が雪兎の膝の上で腕を組んで、そこに顎を乗せて見上げてくる。強請るような光を宿した瞳には、いやとは言わせない不思議な力があった。雪兎が言葉に詰まっていると、そんなに難しいことかな? とさも当たり前のように言ってくる。 「急にそんなこと言われても、俺にはハードルが高すぎるよ」 「たかが名前を呼ぶだけだよ?」 「きみだって俺のこと先輩って呼ぶくせに」 「俺はいつでも呼べるよ? ね、雪兎さん」  ただ名前を呼ばれただけなのに、一瞬間呼吸を忘れた。甘い笑みを浮かべた楓を直視できなくて、思わず真っ赤になった顔を両掌で覆う。なんで顔を隠すのかと苦笑った楓が、雪兎の隣に座り直した。掌をどかされて顔を覗き込まれる。 「そんなかわいい顔しないでよ」 「想像以上の破壊力だったから」  本当に、心臓が壊れるくらいにときめいてしまった。それを大袈裟だと言いたげに笑った楓が、次は雪兎さんの番だよと甘い声を出す。ぐっと押し黙ってしまうと、強請るように口端を唇で啄まれた。促すように頬を指で撫でられると、緊張が迫り上がって落ち着かない。  楓にとっては、名前を呼ぶことなどなんでもないに違いない。余裕綽々なその表情を睨んでも、ちっとも響いているようには思えなかった。それがちょっとだけ憎い。 「ほら、雪兎さんの番だよ?」 「……きみは自分のポテンシャルを知るべきだよ」 「わかっててやってるんだよ?」  にやりとするその顔がとんでもなく格好よく見えてしまった。心臓がもたなくなりそうなのに、逃してくれる気はなさそうだ。 「いじわる」 「雪兎さんがかわいいのがいけないんだよ。それに、ちゃんと俺のことすきでいてくれるんだなってわかるから」 「そんなことしなくても、ちゃんとすきだよ。その、楓くんのこと」  ありったけの勇気を振り絞ってそう言ったら、先ほどまで余裕綽綽だった楓が面食らった。それからじわじわとその頬に笑みが広がって、うれしそうに破顔する。揶揄するように頬を抓まれるのが擽ったかった。笑みを零してしまえば、楓からかわいいなぁと声が零れる。 「きみ、そんなに俺のことかわいいって思ってくれてるの?」 「当たり前でしょ」  楓の唇が雪兎の唇にそっと触れた。なんども啄まれているうちに夢中になって、気づいたらそのままソファへと押し倒されていた。見下ろしてくる楓の目がすっかり男の目をしている。 「えっと、明日早いんじゃ……?」 「しばらく離れるぶん、充電させてもらわないと。ね?」  すっかり油断していただけに、鼓動が一気に跳ね上がってしまった。どうしようと思っているうちに再び唇を奪われる。服の下へと楓の手が忍んでくるのに、ちいさく身体を震わせた。これから与えられる甘い刺激を、身体が待ち侘びてしまうのだ。

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