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第17話
「じゃあ、無事に終わりそうなんだ」
『うん。このあと地方撮影の終了を祝ってみんなとご飯食べに行く予定。まだ気が早いんだけど』
地方での撮影へ旅立ってから数週間、楓は毎日のように連絡を寄越した。撮影は順調に進んでいるようで、撮影隊は全員がひとつのホテルに長期滞在し、和気藹々と楽しくやっているようだ。このまま順当にいけばあと数日で地方撮影を終え、残りは東京のスタジオでの撮影に切り替えることができそうだ、という。
『戻ったら真っ先に雪兎さんに逢いに行くね』
「うん。帰ってくる日が決まったら教えて。楓くんのすきなもの、いっぱい作って待ってるから」
『やった! 雪兎さんって、昔から俺を甘やかすのが上手いよね』
「そうかな?」
『そうだよ』
ふふっとうれしそうに笑う気配が電話越しに伝わってきて、雪兎もうれしくなる。今日は連絡が夜遅くなりそうだから、と電話をくれた時間は見計らったように雪兎が店の片付けを終えたころだった。
電話を切るときはいつもとても名残惜しい。声が聞けるぶん、いま楓がどんな表情をしているのかわからないことがもどかしかった。早く逢いたいと言われるたびに、雪兎の中でも彼に逢いたい気持ちが募ってしまう。
楓がぐずぐずと会話を引き延ばしたあと、じゃあまた明日と言って通話を終えた。終わってしまった寂しさが募って、スマートフォンを握り締めたまま力なくしゃがみ込んだ。握った手を額に押し当てて、逢いたくても逢えない切なさを溜息と共に吐き出す。長らく楓のファンでいたころは逢えないことが当たり前だったのに、いまや隙あらば逢いたいと願ってしまっていた。随分と欲張りになったものだなあと自嘲する。
バックヤードから戻るとほとんどのスタッフは帰宅したあとだった。残っていた者も帰り支度を終えて、雪兎に挨拶をすると続々と帰っていく。雪兎も帰ろうと思っていたところで、スタッフの女の子に呼び止められた。
「お帰りのところすみません。これ、届いてました」
「うん? なんだろう?」
差し出されたのはA4サイズの茶封筒だった。表側には店の住所と雪兎の名前が書かれており、裏返すと差し出し人には田中の名前がある。怪訝に思っていると、タイミングを計るかのように店の電話が鳴った。彼女が取ろうとするのを遮って、先に帰るように促した。なんとなく、これは雪兎が対応すべき電話だという予感がする。
「本当に大丈夫ですか?」
「うん、俺が対応するから」
彼女は怪訝そうにしていたが、食い下がることはしなかった。鳴り続ける電話を心配そうに一瞥してから、お疲れさまでしたと更衣室へ引っ込んだ。それを見届けてから受話器を取った。
「はい、お電話ありがとうございます。香川が承ります」
『お世話になっております。森宮のマネージャーの田中と申します』
やはりか、と思った。荷物を持ったスタッフが雪兎に頭を下げて店を出ていく。これで完全に、店の中には雪兎ただひとりだ。
「お世話になっております。生憎、椎木は不在ですが」
『椎木さんではなく、あなたに用があってお電話いたしました。少々お時間いただけますでしょうか』
ぞわりと、心臓を撫でらるような、いやな心地がした。彼女が雪兎に話があるというのなら楓に関することに決まっている。茶封筒を見下ろしながら、この中にはなにが入っているのだろうと勘ぐった。指でなぞると、平たい物の他に長方形の物が何枚か入っていることがわかる。
「封筒を送ってくださいましたよね」
『お受け取りいただけましたか。中身はこの前の撮影の記事が上がってまいりましたので、その確認資料です。それと、写真が幾枚か』
「写真?」
『週刊誌の記者から弊社に送られてきた写真です。のちほどご確認いただければ、わたしがお電話した意図がわかっていただけると思います』
「……俺と森宮くんの写真なんですね」
田中はそれには答えなかった。続く沈黙が答えだと暗に示されているようだった。台に置いた封筒越しに、写真の縁を無意識になぞっていた。いったい、田中が危惧する写真とはどんなものなのだろう。
そこになにが写っていようが、男同士である以上、そこから邪推されることはないだろう。それでも田中の硬い声は、決定的ななにかが写されているのだと暗に示していた。
『写真の方はわたしの方で揉み消しました。いまの森宮にこの手のスキャンダルは不都合ですから。代わりに、共演女優との熱愛記事が出ます』
「……は?」
『こちらとしても苦肉の策だと思ってください。以前ご忠告差し上げたはずです。森宮に絆されることなく、くれぐれも』
身の程を弁えてくださいますよう。
熱のない、冷ややかな声だった。失礼しますと言う言葉と共に通話が切れて、無機質な音だけが残る。
受話器を置くと、深いため息が漏れた。いつの間にか張り詰めていた緊張が解けて、その場に座り込んでいた。カウンター上の封筒を手探りで見つけると、意を決して封を破いた。中には言われた通り雑誌のゲラが入ったクリアファイルと数枚の写真が入っていた。逆さにすると、写真だけがばらばらと床の上に落ちる。
いちばん上の一枚を取り上げると、楓と雪兎がふたりで歩いているところが写っていた。夜の写真だったので、辛うじて楓だとわかる程度だ。二枚目も三枚目も同じような写真だったが、楓が柔らかな笑みを浮かべて雪兎に話しかける様子が窺い知れる。これのどこがスキャンダラスな写真だというのだろう。ただふたりで写っているというだけで、友人同士にしか見えないだろうに。
「きみ、なんて顔してるの」
つい、そう呟いて楓の顔をなぞる。小さな笑みが零れてしまうのは、その表情の裏に潜めた楓の気持ちを知っているからだ。付き合う前も、楓はいとおしそうに見つめてくれていたのかと、つい泣きそうになってしまった。心の奥がふいに締めつけられて痛い。たしかにこの表情は、ただの友人に向けるものだとは言いにくい。
楓はいままで熱愛スキャンダルを起こしたことがなかった。その理由を深く勘ぐった者がいたとするのなら、この写真たちは充分な懸念材料になる。それを田中は事前に摘んだのだ。
四枚目は雪兎のマンションへ楓が入ろうとしているところで、最後の一枚は駅のホームで手を繋いでいる写真だった。楓と気持ちが通じ合ったあの日の夕方に、電車から降りた直後だろう。明らかに隠し撮りだとわかった。人気俳優である彼は常に記者の標的にされているのだろう。
何気なく裏返すと最後の一枚には汚い字のメモ書きが記されていた。かろうじて〈確定か?〉と読める。すべて裏返して見ると、四枚目にも〈通う相手は男?〉とある。
仮にこの写真たちが憶測の記事と一緒に世に出たとして、果たして信じる者がいるかどうか。楓はBLドラマに主演したタイミングだし、それに乗じたフェイク記事だと捉えられるのが関の山だろう。それでも雪兎の存在が彼のキャリアを脅かしているのは事実だ。田中は苦肉の策だと言っていたが、共演女優との熱愛スキャンダルの方がよほどクリーンで印象がいい。そんなことは言われなくてもわかっている。
それでも楓を手放す気にはなれなかった。彼が雪兎を大切にしてくれることも、どれほどの愛情を傾けてくれているかも全部知ってしまった。雪兎と付き合うことは足枷にはならない。そう断言してくれた彼を、どうして手放すことができるだろう。
先ほど楓と電話していたときの、温かで柔らかなしあわせを返して欲しかった。彼に相談するべきだとわかってはいながら、これはふたりでどうにかできる問題ではないこともわかる。田中が揉み消してくれたのならいまは彼女に感謝して言われた通り身の程をわきまえることが最善なのだ。
帰ろうと立ち上がって封筒を鞄にしまった。写真をまとめてバックヤードのシュレッダーにかけていたら央基から電話がかかってきた。一瞬楓かと期待した自分を自嘲する。いまごろ彼は共演者たちと楽しい夕食をとっているはずだ。もしかしたら熱愛報道されるお相手も、その中に含まれているかもしれない。
「なんだ、ヒロか」
『なんだって、なんだよ。森宮さんかと思って期待したんだろ。いま地方だっけ?』
「うん。いまごろ共演者さんたちとご飯食べてるんじゃない?」
『それで機嫌悪いの?』
そう勘繰られてどきりとした。最後の一枚をシュレッダーへと押し込みながら、気分の悪さも細切れになってしまえばいいのにと思った。それでも央基を誤魔化すのは至難の業だ。ここは正直に話すのが得策ではあるのだけれど。
「悪くないよ。ついさっきいやなことあったからさ」
『せっちゃん、大丈夫?』
「うーん、あんまり大丈夫ではないかも」
『電話でできる話? 飲みに行く?』
「ヒロが飲みたいだけだろ?」
『まぁ、いまならせっちゃん誘いやすいかなって思ってさ。森宮さんと上手くいってから、誘いづらくなっちゃって』
「ええ、気にしなくていいのに」
『せっちゃんは気にしなくても、森宮さんは気にするかなって。男ってそういうもんだろ?』
電波の向こうで央基がそう笑って、いつもの店でと電話を切った。いつもの店は央基の会社と雪兎の店の丁度中間くらいにある居酒屋だ。以前はお互いの家で飲むことの方が多かったが、楓と付き合い出した雪兎を慮ってくれたのだろう。当たり前のように受け取る気遣いの心地よさが、いまの雪兎には酷く染み入る。
店に着くと、テーブルについていた央基が軽く手を挙げてくれた。楓と行く店とは違って、混んでいる店内は雑多な印象だ。カウンターとテーブルと座敷に分かれてはいたが、仕事帰りの会社員や大学生でほぼ満席の空間が賑やかしい。
央基と向かい合って座ると、店員がおしぼりとお冷を持ってきてくれた。飲み物と適当なつまみを頼むと、身を乗り出した彼に浮かない顔してるよと苦笑われる。
「そんな顔してるかな?」
「してるしてる。森宮さんと喧嘩でもしたの?」
「違うよ」
「でもいやなことあったんだろ?」
あくまでも軽い口調なのは、つい重く考えがちな雪兎の気を紛らわそうとしてくれる彼の癖のようなものだ。深刻な響きを伴わないお陰で、雪兎は随分と央基にたくさんのことを相談することができていた。
「あのさ、たとえばだけどね。もし自分の存在が相手に都合が悪いって言われたとするだろ? それでも傍にいたいと思うことは、わがままなのかなって」
「森宮さんとの話? なにか言われたの?」
「マネージャーさんにね。目の敵にされてる気がする」
「そりゃあ森宮 楓が惚れ込んでる相手だもん」
当たり前のようにそう言われて、思わず笑ってしまった。いままでは冗談だろうとあしらえた言葉が、いまは真実だと知っている。
掻い摘んで話した経緯を、央基は苦々し気な顔で聞いていた。雪兎には楓と付き合う覚悟が足りていなかったのかもしれない。芸能人と付き合うならいつでもどこでも周りの目を気にするべきだ。楓は気にし過ぎだといつも言ってくれたけれど、人一倍もっともっと気をつけるべきだった。
「浮かれていたのかもしれない。もっと気をつけるべきだった」
「それを言うなら森宮さんの方だろ。あの男こそもうすこし、せっちゃんがすきって気持ちを隠すべきだよ。だれが見ても駄々洩れ」
「……そうなの?」
それは田中から苦言も呈されるはずだ。楓に絆されることなく、と口を酸っぱくして言っていたのは、そういう事情があったのかもしれない。
「まぁ、ちょっと鈍感なところがせっちゃんのかわいいところなんだろうなぁ。それで、せっちゃんはどうしたいの?」
「とりあえず、諦めるつもりはないかな。片想いがようやく報われたわけだし」
「そっか。強くなったね、せっちゃん」
「そう?」
「ちょっと前のせっちゃんだったら、あっさり身を引いてたでしょ。そもそも、森宮さんのこと受け入れるつもりはないって言ってたしさ」
「そうだっけ?」
そう惚けた雪兎を、央基が笑って受け流した。そんなことを言っていたあのころの自分が、いまはもう信じられなかった。だれかをいとおしく想い、慈しむ気持ちを楓が教えてくれた。それが簡単に諦められるようなきれいな恋でないことも、同時に思い知ったのだ。
「その気持ち、大切にしろよ。これはせっちゃんにとって最初で最後の恋なんだから」
「大袈裟だなぁ」
「大袈裟なもんか。そうに決まってるよ。せっちゃんのことずっと見てきた俺が言うんだから」
「そっか」
「これで俺も肩の荷が下りるよ。せっちゃんの面倒は森宮さんが見てくれるだろうし。でも、もし嫌気が差したらいつでも俺のところにおいでよ。全力で味方するから」
「ヒロは俺に対して過保護過ぎるよ」
「せっちゃんは俺にとって家族みたいなもんだからさ。だからしあわせでいてくれないと困るんだよ」
そう言う柔らかな央基の声には、いつもの冗談めかした軽さはなかった。ただ真摯な気持ちだけが滲んでいて、小さく礼を言うことしかできない。彼はずっと、雪兎にとって唯一の友達で、家族で、ヒーローだった。友達が多いくせに雪兎のことはひとりにせずに、必ず優先してくれる優しさを持っていた。いまも変わらずそうしてくれるし、よき相談相手になってくれている。それでも彼は雪兎の王子様にはなれない。
それは森宮 楓ただひとりだ。
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