19 / 23
第19話
疾風はいつまで休みをくれるのか明確にはしなかったが、戻ってくるときは連絡するようにと念を押してから帰っていった。突然帰ってきた息子に母は驚いていたが、夜も遅かったのでその日は簡単な食事を振舞ってくれ、風呂に入っている間に雪兎の部屋を準備してくれた。連絡をくれたら布団を干しておいたのにと小言を言われたが、その声にはうれしさが滲んでいるように思えた。
都心の人気店で働いている息子が帰ってきたという噂はたちまち小さな田舎町を席巻して、数日のうちに母の美容室は大盛況となった。普段の客層は年齢層が高めだが、週末などは雪兎に切ってほしいと若い女の子や男の子の予約が入った。いつの間にか楓のヘアメイクを担当しているという尾鰭までついて、雪兎自身を見にくる女の子たちまで出てくる始末だ。
この事態に母は苦笑いを零しながらも、人手が増えたことを喜んでくれていた。かつて母の美容室を手伝っていた雪兎が、いまやプロのスタイリストとなって母と並んで髪を切ることができている。平日は比較的予約がゆったりとしていたが、それでも普段に比べたら大分忙しくなったという。
「せっちゃん、この男の子の髪を切ったことあるんでしょう? すっかり有名人だねぇ」
予約の波が落ち着いた夕方、母に髪を切ってもらっていたお客さんが、置いてあった雑誌を手に取った。彼女は近所に住んでいて、雪兎も小さいころからよく知っている間柄だ。女手一つでふたりの子供を育てる母を気遣って、よく色々なものを差し入れてくれていた。
その雑誌は雪兎がゲラを貰ったものだ。若い女の子のお客さんが増えたので、客層に合わせて揃える雑誌を増やしたのだ。楓が表紙を飾ったそれは好評により緊急重版がかかったとネットニュースになっていた。雪兎の元にも完成版が田中から送られてきているはずだが、店にも家にも顔を出していないので受け取れてはいない。
「俺なんてまだまだだよ。偶々高校のときの後輩だったから、担当させてもらっただけ」
「あら、じゃあこの子もこの辺りの子なの?こんな格好いい子いたかしら」
「森宮さんちのお子さんよ。ほら、デザイナーの」
「そんな人いたかしら?」
おばさんは惚けたようにそう言って笑うと、あっさりとこの話を終わりにした。ぱらぱらと雑誌を捲ったあとで興味を無くしたように、他の雑誌の上に戻す。おばさんが興味を持ったのは俳優の楓ではなく、〈有名人の髪を切れるまでに成長した幼いころからよく知る近所の男の子〉のほうなのだ。
他愛ないお喋りに戻ったふたりを尻目に、雪兎は床に落ちた髪を掃いたりタオルを畳んだりと、店の片付けに精を出した。今日は彼女が最後の予約客で、平日ということもあって飛び込みの客も来る様子はない。折角なので早めに店仕舞いをして、久々に親子水入らずで食事に行く予定だった。
作業を終えてカウンターの中でぼんやりとしていたら、店の電話が鳴った。うっかり自分の店の名前を言わないようにと気をつけて取ると、予約をお願いしたいんですが、と聞き覚えのある声が言う。
「ヒロ、揶揄ってるの?」
『はは、バレたか』
「バレるに決まってるだろ。どうしてここにいるってわかったの?」
『森宮さんに、あ、兄の方な。仕事で逢ったときに聞いたんだよ。くれぐれも弟の方には言わないようにって口止めされたけど。なに? 喧嘩でもした?』
「違うよ。これ店の電話だからあとで連絡するよ」
『そうだね、ごめん。あ、週末空いてたら予約入れてよ』
「予約って、わざわざこっちに帰ってくるつもり?」
『たまには実家に顔見せないとさ。それに、せっちゃんに髪切ってもらったことなかったし。いいだろ?』
「いいけど、週末は生憎予約がいっぱいなんだ。時間外でもよければ切るよ」
『幼馴染特典ってやつ? じゃあ土曜日の夜は?』
「いいよ。予定しておく」
予約表の欄外に央基の名前を書き入れてから電話を切った。おばさんのカットを終えた母が央基くん? と聞いてくるので、そうだと答える。
「週末帰ってくるから、俺に髪切って欲しいって」
「あら、切ってあげたことなかったの?」
「うん。お洒落なサロンには行きづらいって言われて」
「男の子ってそういうものよねぇ」
雪兎の返答におばさんがそう同意をして、次の予約を入れてから帰っていった。それを外まで見送った母が、扉の札をCLOSEへとひっくり返して戻ってくる。手早く片付けを終えると、俄然張り切ったように、出かけましょうかと笑った。
夕飯は昔よく行った、商店街の外れにある洋食店に行くことにした。誕生日や入学式などのお祝い事があると、母が必ず連れてきてくれた思い出の場所だ。古き良き時代の洋食店と言った風情の、よくいえば昭和レトロな店内で、ザ洋食といったメニューが食べられる。雪兎が子供のころに腕を振るっていたのはおじいちゃんシェフだったが、いまはその息子に代替わりをしたらしい。
夕食時には少し早いからか、店内は比較的空いていた。カウンター席には早めに呑んでいる常連さんがいたが、テーブル席の客入りは疎らだ。店員に案内されてふたりがけの席に案内されると、母がメニューを開いて寄越した。年季の入ったそのメニューを、むかしはきらきらとした眼差しで眺めていたことを思い出す。
注文を終えると、母が外食なんて久しぶりねぇと笑った。それがなんだか申し訳なくて謝ると、慌ててそんなつもりじゃないのだと弁解される。就職してからは休みが不定期ということもあって、帰省する頻度は減っていた。盆や正月は帰っていたものの、母と顔を合わせるのは実に久々だ。突然連絡もなしに帰ってきた息子のことを、彼女はなにも言わずにいままで家に置いてくれていた。というか、雪兎が店に立つようになってからずっと忙しくしていたので、まともに言い訳をする暇がなかったともいえる。
「雪兎、なにか母さんに言いたいことがあるんじゃない? 急に帰ってきた理由とか」
「ええっと、それは、」
ゆっくりと息子と向き合う機会に、問い質せずにはいられなかったのだろう。母の声は柔らかで責めているようには聞こえなかったが、言い逃れができるような隙もない。正直なことを告げてしまうには、まだ勇気が足りなかった。いくら寛大な母でも自慢の息子が男と付き合っていて、それが原因でトラブルに巻き込まれそうになっているなんて聞かされたらひっくり返るに違いない。その相手がまさか、母が言うところの〈森宮さんちの息子さん〉だとは夢にも思うまい。
先ほど母は楓のことを知っているような雰囲気だった。楓のヘアメイクを担当したと報告したときには、そんなことは一言も言っていなかったのに。
「母さん、森宮くんのこと知ってるの?」
「話をそらしたわね」
「今回のことは森宮くんに関係があるっていうか」
「そうなの? 森宮さんの息子さんのことはよく知らないけど、お母さんのことなら知ってるわよ。むかし髪を切らせてもらったことがあるもの」
「え? うちに来たことあるの?」
「まさか。まだ母さんが東京で美容師をやっていたころ、一度だけね。とても綺麗な人だった。あとからデザイナーだと知って驚いたわ。こっちに来てからは、意外と近くに住んでたってことにもね。噂になってたから」
「噂、って?」
「とんでもないお金持ちなの。それで年の半分は外国で過ごしているとか、ここは小さな町だからすぐ耳に入ってくるの。どこそこのお家はどうこうって。それで、その森宮さんと雪兎にどんな関係が?」
「むかし、俺が母さんにカットの仕方教えてもらったこと覚えてる? 切ってあげたい人がいるって」
「ええ。そんなお友達ができたのねって、おねえちゃんとよろこんだもの」
「その相手が楓くんだったんだ。それで大人になってから再会して、仕事でもプライベートでもお世話になっていて、」
「そうだったの」
思ったよりも深い関係性だったのか、母が目を丸くした。当たり障りのない説明だったが、疑っている様子はなかった。とりあえずプライベートでも仲良くしてもらっていてというところを伝えておけば、これからの言い訳も多少信憑性が出るだろう。
実家に戻ってから、楓からの連絡に返信はしていなかった。雪兎に出るつもりがないと察したのか電話はかかってこなかったが、メッセージは頻繁に入っていた。見てしまうと怺えきれなくなりそうだったので開いてもいない。
「ほら、最近楓くんの熱愛報道があっただろ? それで彼のプライベートについて、俺のところにも記者が来てさ。それで店長がしばらくお休みをくれたんだ。お店にも迷惑かけちゃうし」
「そう、大変だったね。母さんはてっきり、東京がつらくなって逃げてきたのかと」
「違うよ。そんなこと思ってたの?」
「ちょっとだけね」
母がそう笑ったところで、料理がテーブルへ届いた。温かいうちに食べようと手を合わせて、穏やかな時間は過ぎる。じんわりとした懐かしさが身体に染み渡って、しみじみと美味しかった。美味しいと笑う母を見ながら、一緒に食事をしているのがいい。
「ねぇ、雪兎」
「なに?」
「今度母さんに紹介してね」
「え? 楓くんを?」
「ええ。雪兎がお名前で呼ぶなんて珍しいもの。大切な人なんでしょう?」
柔らかな笑みを浮かべる母の、慈悲深い声にすこし泣きそうになった。もしかしたら雪兎の言葉の中に、なにか感じ入るものがあったのかもしれない。
「うん、今度ね」
そのときには、彼が世界でいちばん大切な人だと、胸を張れる勇気があればいいと思う。
そう、思わずにはいられなかった。
ともだちにシェアしよう!

