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第20話
土曜日は予約が盛況で、閉店時間を過ぎてもまだ客が残っていた。そうしているうちに央基が来たので、すこし待っていてもらうことになった。最後の客は高校生の女の子で、楓のファンなのだという。
女子高生からの質問にたじたじになっている雪兎を、央基が雑誌を読むふりをしながら、可笑しそうに笑みを怺えているのがわかる。腹立つなぁと思いながらも笑みは崩さず、どうにか話を合わせる。
「楓くんのヘアメイクをした美容師さんが東京から来てる! って噂になってて、そしたらお兄さんも格好いいんだもん。モデルさんかと思った」
「俺が? まさか。そんなに褒められたのははじめてだよ」
「ええ? 自己評価低すぎじゃない?」
ズバリそう言われて面食らった。裏表のない率直な意見に、央基も笑いを怺えて震えている。
母は自分のお客を捌き終わると夕食の支度をしに上がってしまったので、店の中は三人だけだった。ここに母がいたら彼女に加勢しそうなのでいなくてよかったと思う。そうかなと謙遜したところで、最後の仕上げを終えた。散った髪を払ってから髪形を確認してもらうと、満足そうな笑みを浮かべてくれる。
お会計をしながら、いつまでいるのかと問われた。すっかりこの店の人間のような気がしていたが、雪兎は現在絶賛休職中だ。世間が落ち着いたら疾風の店に戻る予定だったが、楓の熱愛報道はまだ世間を騒がせている。明確な答えを返せないでいると、働いている店の場所を問われた。
「ここ、お母さんのお店なんでしょ? お兄さんはどこのお店の人なの?」
「原宿の裏通りの、」
店の名前を告げると驚いたように目を丸くした。どうやら疾風のヘアサロンは、女子高生にとって憧れのお店であるらしい。
「うっそ! すごーい!」
「俺のお店ってわけじゃないけどね」
「充分すごいよ! 今度また切ってくれる?」
「もちろん。ご予約お待ちしております」
うれしそうな笑みを浮かべた彼女を送り出すと、ようやく一息吐いた。店に戻ると央基が鏡の前の椅子に移動してくれていた。床に散った髪を片付けてから、恭しくケープをかけた。
「せっちゃんって、結構言い寄られたりするんじゃない?」
「どうだろう。容姿を褒められることは多い気がするけど、あんまり本気にしてないから」
「自己評価低すぎって言われてたの、面白かったなぁ」
「笑い過ぎだよ」
そう咎めると、央基が鏡越しに少々バツの悪い顔をした。いかにもわざとらしいのでケープを整えるふりして強めに引っ張ると、ごめんごめんと悪びれもしない謝罪がくる。
雪兎自身はそうは思わないのだが、色々な人から同じようなことを言われてきた。鏡で自分の顔を見ても特段整っているとも思わないし、楓が言うように世界一かわいいとも思えない。それでも、楓に褒めそやされているうちに、彼の隣にいても自然と周りの目が気にならなくはなってきた。雪兎に自信がなくても、楓がいいと言ってくれるのだから十全だと思えるようになったのかもしれない。
「実家に戻ってるって聞いてから心配してたんだけど、元気そうでよかったよ」
「なにも言わなくてごめん。ヒロと呑んだあとかな、記者が俺のところに訪ねてきたんだ。俺と楓くんのこと確実なところまで掴んでるみたいだったから、しばらく楓くんと連絡を絶って、関係がないって思わせた方がいいってことになってさ」
いまでも、あの記者のことを思い返すと腸が煮え繰り返りそうだった。いまのところは楓の熱愛報道ばかりで、雪兎とのことが暴露された様子はない。疾風が言った通り、楓ほどの立場になると、生半可な情報では記事を出せないのかもしれない。
「大丈夫だったの?」
つい表情が硬くなるのに、央基が鏡越しに心配そうな視線を寄越した。それに大丈夫だと微笑んで、つい感情的になりそうな気持ちを落ち着けるように深く息を吸う。
「うん、店長が助けてくれたから。その日のうちにここまで送ってくれたんだ。楓くんからは連絡がくるんだけど返信はしてない」
「森宮さん、気が気じゃないだろうなぁ。熱愛報道まで出されてさ、せっちゃんを不安にさせたんじゃないかって思ってるところに、連絡が取れなくなったんじゃ」
「そうかも。でも、信じるしかないから」
「なにを?」
「これが楓くんを守ることに繋がるって。俺は一般人だし、マネージャーさんみたいに楓くんを守れる術も度胸もないから、せめて迷惑だけはかけたくないなって。俺はなに言われてもいいけど、楓くんが貶されたりするのは許せないから」
「せっちゃんが悪く言われるのは、森宮さんが許さないと思うよ? 俺も許せないしさ。でも、いまは我慢のときだね」
「そう。正直楓くんには逢いたいけど、しょんぼりしていても母さんに心配かけちゃうし。もうすこしで逢えるって信じて、耐えるしかないかなって」
「人の噂も七十五日って言うし?」
央基がそう言って、鏡越しに悪戯な笑みを浮かべた。七十五日くらいで収まればいいけれど、こればかりはどうなるかわからない。長く報道されるのは楓の人気の裏づけにはなるけれど、逢えない時間はそれこそ永遠の様に感じる。
散髪を終えてケープを央基から外したタイミングで、母が夕飯ができたと顔を出した。ヒロくんも食べていくでしょう? という問いに、彼がうれしそうに頷いた。
「せっかく帰ってきたのに、家で食べなくていいの?」
「うん。せっちゃんのとこ行くって言ったら、食べてくるんでしょ? って言われたし」
「はは、おばさんらしいね。片付けてから行くから、先行ってて」
「手伝おうか?」
「大丈夫。ヒロは今日お客様なんだから」
そう言うと、央基が擽ったそうに笑った。それから代金を支払うと、勝手知ったる奥のドアから家へと上がった。
雪兎はその様子を見送ってから、床に散らばった髪を箒でまとめてゴミ箱へと捨てた。使った器具などを手早く片付けると、店のドアを施錠して、道に面した窓にブラインドを下ろした。ふと視線を感じた気がして外を見たが、前の通りを通行人が歩き去るだけでこちらを注視している怪しい影はない。まさかあの記者が、と思ったが深追いはしなかった。
片付けを終えて電気を消したところで、カウンターに置いていたスマートフォンが光った。薄暗い中でぼんやりと浮かび上がる画面には、楓からのメッセージがあることを告げている。つい、無意識で指が伸びてしまった。ロックが解除されると開くまでもなく、『逢いたい』と表示される。
そのただ一言の切実さが、雪兎の胸を抉った。力が抜けてしゃがみ込んでしまうと、心臓が握り潰されるような切なさが襲ってくる。彼がどんな気持ちでこの言葉を送ったのかを考えると、胸の奥が詰まって上手く息ができなかった。
毎日何度メッセージを送っても、雪兎から返信がこないことはもうわかりきっているはずだ。理由もわからずに連絡が取れなくなった恋人を、完全に諦めきるまでにかかる時間はどれくらいだろう。週刊誌に追われてマネージャーからの監視が厳しいいま、彼がどれほどもどかしい気持ちでいるのか、その文面から痛いほど伝わってくる。
「俺も、逢いたい。逢いたいよ、楓くん」
もし、雪兎が女の子だったらこんな気持ちを抱くことはなかったかもしれない。堂々と彼の隣に並んで、お似合いまでとはいかなくても、微笑ましい目で見守ってもらえたかもしれない。それでも雪兎は女の子になりたいわけではなかった。自分のまま、ただ楓のことを想っていたい。それはそんなにも許されないことなのだろうか。
コツンと、ガラスを叩くような音が静寂の中に響いた。耳を澄ますと、コツコツと二回、同じような音がする。まるでノックしているような音だった。
そっとドアの方を見ると、外にだれかが立っている。店の扉は框が切ってあり、腰から上には店名が書かれた透明なガラスがはまっている。そのガラスをその人物が指先でコツコツと叩いていた。店の中の明かりを落としているせいか、その表情は影になって見えない。それでも、雪兎にはそれがだれなのかわかった。
考えるより先に身体が動いていた。カギを開けてドアを開くと、男の手を引いて店内へと引っ張り込む。彼はいま、ここにいてはいけない人だ。充分気をつけているだろうけれど、こんなところを記者に撮られたらもう言い逃れはできない。
店の隅に追い込まれると、そのまま強い力で抱き締められた。雪兎の背が壁を滑って、ずるずると床に座り込む。暗がりの中で楓の掌が存在を確かめるように雪兎の頬に触れた。雪兎も彼の頬に手を伸ばすと、逢いたかったと囁いた彼が、いとおしそうに頬を摺り寄せてくる。腕を彼の首に絡めて抱き寄せると、吸い寄せられるように唇が重なった。心にぽっかりと空いていた空白がいとおしさで満たされていく。大丈夫なふりをしていても、大丈夫などではなかった。
ずっとずっと逢いたくて、枯渇してしまいそうだった。
「ずっと逢いたくて逢いたくて、気が狂いそうだった」
「うん」
「勝手に逢いに来てごめん。でも嫌われたんじゃなくてよかった。雪兎さんに嫌われたら、生きていけないから」
「きみは本当に大袈裟だなあ」
そう言う自分の声が、自分の声ではないように聞こえた。楓へのいとおしさが滲んだ、甘い響きをしている。頬をうれしそうな笑みに崩した彼の、その唇が雪兎の眦に触れた。擽るように食まれると、触れられたところにじんわりとした熱が生まれる。
ぴったりと身体を抱き寄せ合ったまま、なにがあったのかを掻い摘んで話した。雪兎の話を聞き終わると、楓は自分の不甲斐なさに打ちのめされたような重い溜息を吐いた。雪兎との関係を疑われていることも、写真を撮られていることも、一切知らなかったと嘆く。今日ここに来たのも雪兎がいそうな場所をこっそりと探し続けた結果であるらしい。
「よくわかったね」
「忘れたの? 俺は数少ない情報網を辿って、雪兎さんまで辿り着いた男だよ?」
冗談めかしてそう言われるのに、つい笑い声を上げてしまった。慌てて口を噤んだのは、母や央基に気づかれてしまうことを懸念したからだ。
そうだった、彼はそういう人だった。雪兎がどこまで逃げようが、隠れようが、必ず探し出してくれる。その一途さが、雪兎の臆病な心を変えてくれたのだ。
「追いかけられたりしなかった?」
「大丈夫。だいぶ数は減ってきたから。俺のせいでいやな思いさせてごめん。もっと早く相談してくれたらよかったのに」
「楓くんと完全に切れたって思わせるためには、きみに知らせないほうがいいって話になったんだ。店長がきみは俺の前では形無しだからって」
「それは言えてるなぁ」
そう自嘲した楓に頬を撫でられた。いとおしげな指先が擽ったくて身を捩った。室内の電気は点けずにいても、街灯の明かりが窓から入ってくるお陰で、これだけ近づいていれば互いの顔くらいは見える。しばらく逢っていない間に、楓は少し瘦せたようだった。やつれた、といった方が正しいかもしれない。すこし瞼の下の隈も気になった。もしかしたら雪兎のせいで、満足に眠れていないのかもしれない。
「でも、ちゃんときみに相談すべきだった。不安にさせてごめんね」
「雪兎さんがまだ俺をすきでいてくれることがわかっただけでいいよ」
楓の頬に手を伸ばして下瞼を親指で撫でると、その意味に気づいた彼がうれしそうに頬を弛めた。眠れていないのかと問えば、夜は余計なことを考えて不安になるので、台本を遅くまで読んで気持ちを紛らわしていたと白状する。そうしているうちに眠気が襲ってきて、ソファなどで束の間の睡眠を取っていたらしい。顔が疲れていると撮影スタッフからは心配されたそうだが、映画の撮影は先日無事にクランクアップしたそうだ。
不意に雪兎を呼ぶ母の声が、ドアの向こうから聞こえてきた。流石に遅いと思われたのだろう。そのドアが開くのはまずいと思って、すぐ行くと返事をする。名残惜しく楓と離れると、先に立ち上がった彼が雪兎を引っ張り上げてくれた。
「田中さんには俺から相談してみる。ちゃんと話せばわかってくれる人だから」
「ここに来たこと、怒られないかな?」
「俺が代わりに怒られておくよ。しばらく俺も実家にいるつもりなんだ。連絡、してもいい?」
「うん。今度はちゃんと返すよ」
そう言うと楓が安堵の笑みを零して、名残惜しそうに帰っていった。彼の背が見えなくなるまでドア越しに見送って、カギをしっかりとかけ直す。そうしてひとつ息を吐いて気持ちを整えてから、家へと上がった。
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