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第21話

『俳優の森宮 楓さんが休養を発表されました』  テレビをつけた途端に耳に飛び込んできた物騒な文言に、雪兎はテレビ画面から目が離せなくなった。母親が準備してくれた朝食を食べる手も止めて、楓に連絡をしようとスマートフォンを取り出す。けれどまだ朝が早かったので、寸でのところで思い止まった。ニュース速報の情報が正しいとするのなら、すこしでもゆっくり休ませてやったほうがいい。  連絡する代わりに楓の事務所の公式サイトにアクセスしてみた。過剰にアクセスが集中しているせいで当然繋がらなかったが、SNSでも同様に楓の休養が発表されていた。それを一言一句目を皿にして読みながら、どこまでが本当でどこまでが建前だろうと勘繰る。ニュースでも同様の文面のアナウンサーが読み上げていたが、予定されていた仕事とは当分の間キャンセルされ、休養するという情報だけしかわからない。理由は連日記者に追われたことによる心労とのことだった。  ――俺のせいだ。  心配ですね、とコメンテーターに意見を求めるアナウンサーの声音が、深刻そうな響きを帯びた。コメンテーターのひとりがそれに同意してから、過剰な反応を示すマスコミの対応に苦言を示した。その意見はもっともだが、芸能界の荒波に揉まれながらもっとも忙しい俳優に数えられる楓が、そんなことで体調を崩すとは思えなかった。おそらくは雪兎に逢えない心労が、思いの外重たかったのだ。  正直、雪兎には自覚が足りなかった。あいされていることも大切にされていることもわかっていたくせに、楓が眠れなくなるほど心をかけてくれる存在であったことには思いもよらなかったのだ。いつも溌溂として輝いていた楓の、やつれた顔をはじめて見た。それほど体調が悪いようには思えなかったけれど、逢いたくて気が狂いそうだったという言葉は、一言一句心の底からの本音だったのだと思い知る。  ――やっぱり、電話してみようかな。  時刻は朝の七時を回ろうかといったところだった。昨日雪兎に再会できた楓は、今日こそはぐっすりと眠れているかもしれない。そう考えると、発信ボタンを押す指が躊躇った。さすがにもうすこし待ったほうが無難かと思って、あとで電話したい旨のメッセージだけ送っておく。  楓とのメッセージ画面には、楓からのメッセージがずらりと並んでいた。『なにかあったの?』という問いのあと、返信がないことへの心配が並び、最後のほうは雪兎への愛の言葉と逢いたいという文言が刻まれていた。昨日の夜、雪兎はそれを読みながら、自分の行動が正しかったのかわからなくなってしまった。それに今朝の休養報道が追い打ちをかけてきた。なにも知らないまま連絡を絶たれた楓の気持ちを慮れば、明らかに雪兎が悪い。楓を守るための行動だったとはいえ、彼の心情を思うと胸の奥が後悔に疼くのだ。  重苦しい溜息と共に朝ご飯を咀嚼していると、開店準備をしていた母から声がかかった。うっかりゆっくりしすぎてしまったかと慌てて食事をかき込むと、いま行くと声を張り上げる。食器をシンクに置いてから店へと出ると、母のほかにひとり、見知った顔が立っていた。どうやら母が雪兎を呼んだのは、この訪問客のせいであったようだ。 「……どうされたんです?」 「突然のご訪問をお許しください」  そう言って、田中が深々と頭を下げた。上がってもらったら? と母が言うので、玄関のほうに回ってもらった。居間へと通して、ふたりぶんのお茶を淹れる。座卓を挟んで向かい合うと、自然と緊張が高まる気がした。  こうしてまじまじと向かい合っても、田中の無表情からは感情がほとんど読み取れなかった。いただきます、と断られてから茶を飲んでいる姿は、ぴしっとしていて隙がない。さすがは森宮 楓のマネージャー、気を休める隙もないのだろうか。 「あの、楓くんのことですよね?」 「この度はご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」  恐る恐るそう切り出すと、田中が小さく頷いてから、そう頭を下げてくれた。いったいなんのことを謝られているのかわからずに戸惑っていたら、週刊誌の記者のことです、と教えてくれた。 「まさか香川さんを突撃するとは思わず、お店もお休みさせてしまい申し訳ありません。凪さんからご連絡をいただいて、はじめて知った次第でして」  田中の表情に申し訳なさが滲むのを見て、なんだか恐縮してしまった。大丈夫です、と答えるのも違うような気がして言葉に詰まる。しかし彼女は、なにも答えられない雪兎には気を止めてはいないようだ。 「あの写真を送りつけてきた記者はあくどいやりかたで有名です。どんな手を使ってでも暴こうとする。あの男のせいで、潰れた人間をなん人も見てまいりました。いずれ目をつけられるのではないかと案じていたのですが、対策が甘かったようです。あなたと森宮を無関係に見せることこそ、最善だと思っていたのですが」 「……だから俺に身の程をわきまえろと?」 「傍から見ても、森宮があなたに好意があることは隠しきれていませんでしたから。あなたさえ気をつけてくれさえすれば、最悪な事態は避けられると思ったのです。それで絆されるなと釘を刺させていただいたのです。不躾でしたでしょう?」 「それは……はい。正直ちょっと怖かったです」  そう白状する雪兎に、田中が苦笑いを零してくれた。その表情が僅かでも笑みに崩れれば、ぐっと親しみやすさが増すのだから不思議だ。彼女だってなにも、雪兎が憎くてそう言ったわけではないとわかる。  すべては楓を守るための防御策なのだ。 「ああ言っておけば、あなたの心を折れると思ったのです。すくなくともしばらくは、森宮から離れてくれると考えていました。熱愛報道を出したのも、あの男の目を逸らすための苦肉の策でした。まぁ、あんな茶番はあの男には通用しませんでしたけど。ただ、香川さんが森宮と連絡を絶ってくれたことで、あの男の動きもだいぶ鈍ったようです。ありがとうございました」  そう、田中が頭を下げた。土下座をする勢いで深々と下げられたので、慌てて頭を上げてくれるように頼む。雪兎の行動は楓にとってはマイナスでも、世間体の面ではプラスに働いたようだ。なによりあの男を牽制することができた、という事実は大きい。 「あの、ひとつお伺いしてもいいですか?」 「ええ、もちろん」 「楓くんが休養するってニュースで見たんですけど、大丈夫なんですか?」 「ええ、ご心配には及びません」  田中がひとことそう言って、茶をひと口飲んだ。謝罪が終わってほっとしたのか、さきほどよりは随分とくつろいだ様子に見える。 「忙しいということもありましたが、あなたに逢えないという事実が思いの外堪えたようです。よく眠れていないようでしたし、世間から隔離するいい機会だと思い休養という形を取りました。記者からの追撃も逃れられますし、それによる心労と報道してもらえば牽制になるでしょうから」 「そうでしたか」 「それに、森宮に言われたのです。あなたとの交際を認めてもらえないのなら俳優はやめる、と」  こちらの気も知らないで、ひどいものでしょう? と言いたげに田中が嘆いた。雪兎はその顔をまじまじと見つめながら、返す言葉を失う。心のうちで、そこまで? という戸惑いと、うれしさが綯い交ぜになっていた。もしそれを言われたのが自分だったら、本気で止めにかかっていただろうけれど。 「……本気じゃないですよね?」 「森宮は本気でしたよ。凪さんの伝手でモデルのアルバイトをしていた森宮をスカウトしたのはわたしです。最初は乗り気ではなかったのですが、高校三年生のころ、より多くの人に見てもらえる存在になりたいと言うようになりました。きっとあなたに見つけてもらうためだったのですね」 「え?」 「ともかく、自分の俳優人生を人質に取られてはこちらも反対する気が起きません……まぁ、そもそも最初から本気で別れさせようとは思っていませんでしたが」 「……楓くんと一緒にいてもいいんですか?」  つい恐る恐るになるその言葉に、田中がもちろんと答えをくれた。柔らかな笑みもなければ、声のトーンも単調で、一見賛成されているようには思えない。それでも田中はそのスタンスを崩すつもりはないようだ。それがなんだかおかしくなってきて、ついありがとうございますと笑みを零してしまった。 「森宮は実家に戻っておりますので、是非お尋ねになってください。お休みは一週間程度の予定です。それが終わるころには、色々と片がついているはずです」 「逢いにいっていいんですか?」 「昨日も逢われたのでしょう? もし記事が出そうになったら、わたしが全力で潰しますのでご安心を」 「心強いですね」 「森宮に任せておいたらなにをされるかわかったものではありませんから。あなたはもうすこし、森宮から想われている自覚を持つべきですよ。あの男、相当しつこいので」  そう言った田中が、困ったように微笑した。それからお邪魔しましたと頭を下げて立ち上がる。外まで送ると、もう一度丁寧に頭を下げてから帰っていった。タクシーを呼ぼうかと申し出たが、大通りに出れば捕まるからと固辞された。 「大丈夫だった?」  店に戻ると開店準備はほとんど終わっていた。タオルを畳む母を手伝いながら、田中から言われたことを掻い摘んで話した。もちろん、楓と恋人同士であることは伏せておく。 「うん。楓くんのマネージャーさん。記者はもういなくなったからって」 「そう。じゃあそろそろ東京へ戻れるんじゃない?」  当たり前のようにそう言われて、そのことをいまのいままでまったく考えていなかったことに気づかされた。そうだった、そもそも雪兎は記者から逃げるために実家に帰ってきていたのだった。母とこの店に立って仕事をするのが、たった一か月で当たり前になっていたことに驚愕する。ここでの日常が当たり前になりつつある雪兎とは違って、母は最初から割り切っていたのだろう。  そう言われるのは、思いの外寂しかった。不特定多数ではなく、付き合いの深いご近所の常連さんを相手にするということが、心地よくていいなと思い始めていたのだ。 「もうちょっとここにいたら駄目かな?」 「そう言ってくれるのはうれしいけど、だめ。もうすこし技術を磨いてから戻ってらっしゃい。そしたらこの店も安泰だし」  母がそう言って、茶目っ気たっぷりに笑った。その笑みに俄かに泣きそうになって、慌ててそうだよねと笑って誤魔化す。本来ならばすぐにでも疾風に連絡をして復帰の相談をするべきなのに、後回しにしてもいいような気がした。終わりができてしまったことが無性に寂しい。 「そうだ。森宮さんの息子さん、休養するんでしょう? お見舞いに行ってきたら?」  寂しさを押し込めようと黙々とタオルを畳むことに集中していたら、母が思いついたようにそんなことを言い出した。ついまじまじとその顔を見てしまえば、雪兎から申し出るよりも先に、そうしなさいよと念を押されてしまう。 「今日はそんなに忙しくないし、雪兎がいることに慣れちゃったから、ひとりでお店を回す練習しないと。ね、いってらっしゃい」  手からタオルを奪われて、わざと邪険にするように追い払われた。もしかしたらそう言いつつ、母も寂しさに耐えかねたのかもしれない。そう気づいたのは、店へと繋がるドアをばたんと閉められてしまったあとのことだ。

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