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第23話
店内が込み合ってきたので、食事を終えると店を出た。車を近くのコインパーキングへと移動させてから海まで歩いた。海岸線を並んで散歩しながら美味しかったねと笑い合う。楓はその細い身体のどこに入るのだろうというくらいよく食べた。痩せた分を取り戻すにはまだ足りないだろうけれど、美味そうに食事をする様子に安堵した。
秋に差しかかったとはいえ、砂浜にはまだちらほらと遊泳客やサーフィンを楽しむ人の姿が目立つ。思ったよりも人が多かったが、楓は気にしていないらしい。砂浜に降り立つと海の方へと走り出した。慌ててついていくと、靴と靴下を波打ち際で脱ぎ捨ててそのまま海へと入っていく。雪兎も来いと満面の笑みで誘われたので、濡れることを躊躇している自分が馬鹿らしくなった。
雪兎も靴と靴下を脱いでズボンを捲り上げると、楓が伸ばしてくれた手を取った。水は心地よい冷たさで、強くなってきた陽射しの暑さをしばし緩和してくれる。彼がわざと飛沫を飛ばして悪戯っ子のように笑うのに、陽射しにきらきらと光る飛沫の向こうの楓がとても眩しい。
「雪兎さん、焼けちゃうね。これ、被ってて」
そう言った楓が自分の帽子を雪兎に被せてくれた。露になった楓の髪が陽に透けて綺麗だ。バレちゃうよ? と言ったら気にしなくていいと笑われた。帽子を押しつけるように頭を撫でられると、なんだか気にしているのが馬鹿らしくなってしまった。
案の定、通りすがりの女の子たちがこちらのほうを指さしていた。スマートフォンを向けられている気がしたものの、楓は気にもしていない。それに気づかせようとした雪兎は、ふいに腕を掴まれて引き寄せられた。そのまま唇を奪われると、遠くから小さな悲鳴があがる。
――うそ、
頭が真っ白になって、動くことすらできなかった。どうしよう、と焦る気持ちに鼓動が急くのに、どうすることもできない。あの子たちが写真を撮ったかはわからない。撮られていても顔まではわからないかもしれない。しかしそれがもしSNSで拡散して炎上でもしたら?
どうしようと不安になる雪兎を他所に、楓が下唇を食んでから名残惜しそうに離れた。随分と不安そうな表情をしていたのか、大丈夫だよ、と眦に唇を落としてくれた。なにが大丈夫なのかちっともわからない。白昼堂々とこんなことをするのは一般人でも憚られるのに、ましてや楓は人気俳優だ。休養中の身であり、こんなところで遊んでいたことが知れたらとんでもないことになりそうで怖い。
しかも男とキスをしていたなんて騒がれたら。
「雪兎さん?」
「もし、だれかに見られたら、」
「大丈夫だよ。だれも見てないよ」
そう言われて周りを見渡すと、先ほどの女の子たちはもういなかった。あれは気のせいなんかじゃなかったはずだと思ったけれど、追いかけて確かめる勇気もない。すっかり気落ちした雪兎の顔を楓が覗き込んだ。ごめんね? と謝られると、なんだかせっかくの楽しい雰囲気を壊してしまった気がして申し訳なくなった。楓はただ、当たり前の恋人同士みたいに振舞っただけなのに。
「楓くんは悪くないよ。俺が気にし過ぎちゃて」
「ううん。俺も舞い上がっちゃって、雪兎さんが人一倍気にしいだって忘れてたよ」
「きみはもうちょっと周りを気にするべきだと思うよ?」
「今度からは気をつける。今回は大目に見てくれる?」
そう問われて頷くと、楓が安堵したように雪兎を抱き寄せた。言ったそばからと思ったものの、楽しそうな彼に水を差すのは忍びなかった。まぁいいかと許してしまう自分の甘さが、いつかまた危機を呼ぶかもしれない。それでもそのたびに乗り越えていけばいいと思えている自分に気づく。
海から上がると砂浜に座ってしばらく海を眺めた。柔らかな砂を足先で蹴ると、指の間に入り込むのが擽ったい。午後になると少し風が出てきたので、暑さはすこし和らいでいた。楓はただ海に来たかっただけのようで、このあと近くの観光地に行くつもりはないらしい。雪兎も人混みは苦手なので、もうしばらくここでゆっくりすることを選んだ。それに楓がバレやしないかと冷や冷やするのはごめんだ。
「いつ東京に戻るの?」
「そうだなぁ。きみがこっちにいる間はもうすこしいようかな」
「本当に? 疾風さんに怒られない?」
「どうだろう。随分長くお休みもらっちゃったけど。戻ったら居場所なかったりしてね」
そう冗談めかしたら、楓が大丈夫だよ、と笑ってくれた。疾風に限ってそんなことはしないだろうけれど、もしそうだとしても、不思議と不安は感じなかった。思っていた以上に母の店を手伝うことへの充実を感じていたからかもしれない。
「お母さんのお店を手伝うのは楽しかったんじゃない?折原さんの髪切ってるの、楽しそうだったし」
「見てたの?」
「雪兎さんに逢いに行った日にちょっとだけね。あんまり楽しそうだったから、すごく妬けた」
そう言って、楓があっけらかんと笑った。どうやらあの日感じた視線はあの記者ではなく楓だったらしい。妬けたというのは、嫉妬してくれたということだろうか。今更央基に? と思ったけれど、口には出さなかった。雪兎も楓が誰か親しい人と知らない間に楽しそうにしていたら、それが旧知の友人だろうと同じ気持ちを抱くだろうと思ったからだ。
「声かけてくれたらよかったのに」
「ひと目でも逢えたらいいなって、そう思ってただけだったから。でも、折原さんと仲がよさそうなところを見て、このまま離れてたら雪兎さんを盗られてしまうんじゃないか、って怖くなった。折原さんは雪兎さんのことをよく知っているし、同い年だし、俺よりも頼りがいがあるだろ? それにたぶん、雪兎さんのこと俺以上に大切に想ってるってわかる」
「ヒロはそんなんじゃないって前にも、」
「うん、わかってるよ。全部わかってても、ぐるぐる考えちゃうことってあるでしょ? ましてや雪兎さんから突き放されてる最中だったしね?」
その言葉にどきりとしたが、楓の声音はあくまでも柔らかく、雪兎を見る視線も優しかった。その眦が笑みに弛んだので、揶揄されているのだとわかる。だから、喉まで出かかった謝罪の言葉を飲み込むことにした。
「年下だって、気にしてたの?」
「雪兎さんだって年上なこと気にしてるでしょ?」
「そう言われるとそうだけどさ。俺が払おうと思っても、いつの間にかきみが払っちゃうこととか」
「雪兎さんちでご飯作ってもらってるんだから、それくらいは当然だよ。それにすきな子の前では格好つけたいでしょう? どんなに頑張ったって、同い年にはなれないんだから」
「同い年ってそんなにいいかな?」
「そりゃあそうだよ。雪兎さんと同じクラスになれたかもしれないし、友達にだってなれたかもしれない」
「もしそうだったら、きみは俺のこと気にもしなかったと思うよ?」
「そうかな? 俺はどこにいても、雪兎さんのことは見つけていたと思うけど」
そうだろうか? と思いつつも、楓の言葉を邪魔することはしなかった。水平線を眺めている楓の脳裏には、同い年に生まれた自分たちの空想がいくつも詰まっているのかもしれない。
けれどどうだろう? もし同じクラスに楓がいたとしたら、きっと話すことなく卒業していたのではないだろうか。雪兎は楓に淡い憧れにも似た恋心を抱きながら、とくになにが起こることもなく卒業する。再会することもなければ、もしかしたら楓の後押しがなかった雪兎は美容師にもなっていなかったかもしれない。
そう考えると、人生はほんのすこしのずれで想像もしていなかった方向へと転がり出していく。本当に、楓に出逢えて同じ気持ちを返してもらったことへの奇跡に、じんわりと胸の奥が温かく疼いた。楓は残念だというけれど、雪兎にとってはこれ以上はない。
ここにいる楓が、雪兎にとっての最愛だ。
「ほんのちょっとタイミングがずれていたら、雪兎さんは俺と出逢っていなかったかもしれないって考えると、怖くてたまらなくなるんだ。あの日俺が屋上に行かなかったら、雪兎さんを見つけたのが俺じゃなかったら、どうなっていたのかなって」
「どこにいても、俺のこと見つけてくれるんじゃなかったの?」
揶揄するように楓の顔を覗き込んだら、はっとした彼がそうだったね、と笑った。常に前向きな楓が、ネガティブなことを言い出すのは珍しい。あくまでも世間から離れるためだ、と理由付けはしていたけれど、休養を発表するほどに追い詰められていたのはたしかなのだろう。楓の心を苛んでしまったのが雪兎なら、救えるのもまた雪兎だ。
謝罪を重ねるよりも、そう考えたほうがずっといい。
「俺はきっと、楓くんと出逢っていなかったら美容師にはなっていなかったと思うんだ。すくなくとも、店長の店に就職はできていなかったと思う。母さんの店に雇ってもらって、細々とやっていくのが精一杯だったかも」
「そんなことは、」
「ほんとうだよ。楓くんが俺の背を押してくれたからがんばろうと思えたんだ。それにね、」
そこから先の言葉を、絞り出すのには勇気が必要だった。それでも言葉にしないと伝わらない想いが存在していて、それを楓にしっかりと伝えたい気持ちが溢れ出てくる。どんな言葉を並べたら、この想いのすべてを伝えきることができるだろう。
声にいとおしさが滲み出て伝わればいいのに。
「男だからとか女だからとか関係なく、楓くんだからすきになった。きみだから傍にいたい。俺は人一倍周りの目を気にしちゃうし、きみの隣にいる自信はまだ足りないかもしれないけど、それでも、この先別れるつもりはないから」
「本当に?」
「うん。俺の存在がきみのキャリアを傷つけるかもしれない。きみの輝かしい将来を台無しにしてしまうかもしれない。世間からも祝福はされないだろうな。それでも、楓くんが俺をすきだって言ってくれている間は、きみの傍にいさせてください」
そう言い切ったあとの沈黙が、永遠に感じた。どうしてなにも言ってくれないのだろうと思ったが、どんな顔をしているのかさえ窺うのが怖い。それでも沈黙に堪えかねて、顔を上げる勇気を振り絞ろうとしたところで、強い力で抱き寄せられた。ごめんと耳元で謝られたのは、先ほどのことがあったからだろう。大丈夫だと示すように腕を回すと、その背を軽く叩いた。
「雪兎さん、言っていることの意味わかってる? 俺が雪兎さんをきらいになるなんて絶対にあり得ないんだよ?」
「それはすごい自信だね」
「雪兎さんは俺にとって世界の中心だって言ったでしょ?」
そう言う柔らかな声音が、じんわりと心に染み入った。うれしそうに笑む気配がして、そっと顔を覗き込まれる。こつんと額同士があわさると、つい恥ずかしくて目が泳いだ。雪兎にしか聞こえない声でかわいいと囁かれるのに、つい赤くなった頬が笑みに崩れる。
楓に鼻頭を啄まれるのに、いとしさが溢れ出てしまった。もうだれに見られてもよかった。
この男がずっと、隣にいてくれさえすれば、それで。
「ずっと考えてたことがあるんだ」
「考えてたこと?」
「雪兎さんと付き合ってること、公表しちゃだめかな? もしかしたらまた、怖い思いをさせるかもしれない。でも俺にはこんなに素敵な恋人がいるんだよって自慢したい」
「自慢したいの?」
「うん。でも雪兎さんの情報はできる限り漏れないようにするよ。雪兎さんのかわいさが世間に晒されたら、ライバルが増えちゃうでしょ?」
「真面目な話をしてるんじゃなかったの?」
呆れたようにそう言えば、楓がそうだよ、と柔らかく笑んだ。その指に頬を撫でられる擽ったさが心地よい。
「真面目な話だよ。俺は雪兎さんと末永くしあわせになりますっていう宣言をするんだから。あることないこと書かれて雪兎さんを傷つけたくない。だから釘を刺しておきたいんだよ」
「末永くしあわせにしてくれるんだ?」
「うん。俺としあわせになってくれる?」
そう問われて、あまりのうれしさに言葉が詰まった。気づかないうちに自然と涙が頬を伝って、どうして泣くの? と楓が困ったような顔をする。縋るように抱き着くと、彼が優しく背を撫でてくれた。
そうされているうちに、うれしさの隙間にじわりとした不安が滲み出てきた。きっと世間の厳しい目が向けられることや、楓のキャリアへの影響もすくなからずあるだろう。雪兎のためを想うだけなら、公表する必要はないだろうと思いたくなる。雪兎は楓が傍にいることを許してくれて、ひっそりと愛を育むだけでも充分満足できる。それでも楓が自分のキャリアを擲つ覚悟で決めたのならその気持ちを尊重したい。
雪兎と一緒にいるためなら俳優をやめると言ってくれた、楓の覚悟を大切にしたい。
「俺はきみとしあわせになりたい。きみをしあわせにしてあげたい」
気持ちが落ち着いてようやく、そう言葉にすることが叶った。楓が柔らかに笑う気配がして、顔をそっと覗き込まれる。笑みに崩れた表情が極上にきれいで、なんだかまた泣きたくなってしまった。
「ええ、なんでまた泣きそうになってるの?」
「だって、きみがあんまりにもきれいだから、」
楓の掌に両頬を包み込まれながら、つい唇を尖らせた。滲み出た涙を指で拭われるのが擽ったい。
「俺は雪兎さんが俺をすきでいてくれるだけで、この世でいちばんしあわせだよ」
その言葉が真っ直ぐに、雪兎の心へと落ちてきた。そっくりそのままその言葉を返してやりたい。そう考えていたところに、楓からがキスしていい? と問われて、返事を聞く前に雪兎の唇を啄まれた。
くちづける隙間からいとしさが溢れて零れていくような気がする。ほんの一瞬触れただけなのに、随分と永くそうしていたような気がした。赤くなった雪兎の頬をいとおし気に楓が撫でて、早くふたりきりになりたい、と笑った。
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