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第28話

 久々の出勤はすこし緊張していた。ドアを開けておはようございます、と頭を下げるなり、同僚たちが口々に挨拶を返してくれた。 「おー、香川。久しぶりだな。もう大丈夫なのか?」  珍しく開店準備から出勤していた先輩にそう言われて、一瞬固まってしまった。なにに対しての〈大丈夫〉なのか判断がつきかねたからだ。 「おふくろさん、大変だったんだってな。お前が抜けた穴は店長が埋めてたぞ。ちゃんとお礼言っとけよ」  ――ああ、そうだった。  そう肩を叩かれて、ようやく頭が追いついた。急遽雪兎が長期休暇を取ることになった理由を、疾風が上手いことでっち上げてくれていたのだ。雪兎は母が体調を崩したため、看病と店の手伝いに実家に帰ったことになっていた。  同僚たちからの心配を申し訳なく受けながら、開店準備の手伝いに入った。そのうちに開店時間になって、予約客が続々と店を訪れては去っていく。雪兎は復帰したばかりで予約を取っていなかったので、アシスタント業に徹していたのだが、それでも口々に語られる楓の話題からは逃れられない。当たり障りなく受け答えしながらも、内心バレやしないかとハラハラしていた。上手く笑えていたかもわからない。  楓が映画の制作発表の場で報道陣と繰り広げたバトルは、復帰早々ワイドショーやSNS上で大変な話題となっていた。楓と雪兎の仲を暴いたあの記者が会場にいて、直接楓に質問をぶつけたのだ。その様子はワイドショーで流れ、SNSなどでも切り抜き動画が拡散していた。その日帰ってきた楓は記者をやり込めてやったと鼻高々だったが、それらを目にするたびに雪兎の胃はきりきりと痛みだす。SNSなどでは楓の〈お怒りモード〉が珍しいと面白がるコメントも散見された。 「この前の会見見ました? わたし、森宮 楓があんなに怒ってるとこ、はじめて見ました」  女性客が担当美容師にそう話しかけるのを聞いて、床を掃いていた雪兎は思わず顔を上げてしまった。担当しているのは後輩の女の子で、ねー! と同意を示しながらにこやかに髪を切り進めていく。 「すきなんですか? 森宮 楓」 「きらいな人なんています? でも、男の人と付き合ってるのは意外だったなぁ。どんな人なんだろうって気になりますよね。あの森宮 楓にあそこまで想われてるの、羨ましすぎません?」 「発表された文書も素敵でしたもんね! それだけすきな人を侮辱されたら、だれだって怒りますよ」 「ですよねー。きっとお相手のかたも素敵な人なんだろうなぁ」  柔らかな声音に、思わずじーんとしてしまった。通りがかった先輩にさり気なく小突いてもらえなかったら、不審な目を向けられていたかもしれない。  床の髪を掃き終えると、カラー材の準備をお願いされた。ひとり裏のシンクで作業をしながら、先ほどまでの会話を思い出す。あの子のように、好意的に受け入れてくれた人ばかりではないだろう。それでもああいう風に思ってくれている人がいるとわかったことに、うれしさが込み上げてきていた。  楓の隣にいて、見合う男でいられるのかはまだわからない。〈素敵なかた〉と思ってもらえる確率は限りなく低そうだ。それでも雪兎が思っていたより、世間からの反応は厳しくなかった。それだけでいまは、充分だといえるだろう。 「それ終わったら、次カウンセリング頼むな」  顔を覗かせた先輩にそう言われて返事をする。それでさっさと行ってしまうかと思いきや、彼はなかなかその場から動こうとはしなかった。普段はズバズバと物を言う人であるだけに、言い淀んでいる様子が妙に気になる。 「まだなにか?」 「黙ってるのは俺らしくないから言っちゃうけど、森宮 楓と付き合ってるんだろ?」  そう言われて手がとまった。この人は気づいていて、さきほどもさり気なく雪兎をせっついてくれたのだ。なんと答えたら正解なのかを考えているうちに、盛大な溜息を零された。この先輩はむかしから、すぐに答えないことへの圧が強い。 「答えないってことはそういうことでいいんだな?」 「……はい、そうです」 「言わされてるみたいになってんじゃねぇよ。こういうときは胸張っていけ。お前ら、お似合いだよ」  思わずぽかんとしてしまうのに、先輩が照れ臭そうにしているところをはじめて見た。すこし苦手だなと思っていたことを謝りたいくらい、そう言ってもらえたありがたさが胸にぐっとくる。 「あの、ありがとうございます。まさか先輩からそう言ってもらえるとは思わなくて」 「味方ってのはひとりでも多いほうがいいだろ。さっきのお客さんもそうだけど、案外みんな好意的に受け止めてると思うぜ。男でも女でも、だれかひとりを大切に想う気持ちは素敵じゃん……って、なに?」 「そんなこと言う人だったんだなと思って」  まじまじとその顔を見つめてしまうと、不愉快そうに顔を歪められた。気持ちを切り替えるように溜息を吐いたあとで、仕事に戻るから、と出て行ってしまう。  それを苦笑いで見送りながら、言われた言葉を噛み締めた。だれかを大切に想うその気持ちは、どんなものであれ尊重されるべきものだと雪兎も思う。堂々と胸を張れるかどうかはまだわからないけれど、縮こまる必要はないのだと先輩から教えてもらった気がする。  夕方ごろ、すこし早めに上がらせてもらうことになった。予約も比較的落ち着いていたし、初日とあってみんなが気を遣ってくれたのだ。バックヤードで帰り支度をしていると、同僚のひとりがひょっこりと顔を出した。なんだかすこし浮かない顔をしている。なにか問題でも起こったのだろうか? 「どうかしました?」 「あの、森宮さんというかたがいらっしゃってまして……」 「え?」 「俳優の森宮 楓さんだと思うんですけど」  若干半信半疑の様子の彼女のあとについていくと、楓が順番待ちのソファに座っていた。だいぶ客足は引いていたものの、まだ営業時間帯の店内にはそれなりの数のお客さんがいる。一応キャップとサングラスで顔を隠しているとはいえ、それが森宮 楓であることは一目瞭然だった。店内中の視線とざわめきを一身に集めながら、しれっとスマートフォンに目を落としているのがこれまた凛として美しい。 「あとは俺が対応するから大丈夫。店長との打ち合わせだと思うから」 「え? でも香川さんいますか? って」  笑みを貼りつけた頬が固まった。それをどうにかこうにか誤魔化して、業務に戻ってもらう。全員に注目されているなかに一歩踏み出すと、緊張で息が詰まってきた。鼓動が耳元でうるさくて、いますぐ逃げ出したくなってくる。  胸を張っていけ、という、先輩の声が思い返された。そうだ、だれに認められなくても、この人は雪兎の恋人なのだ。

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