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第29話
「雪兎さん」
雪兎に気づいた楓が立ち上がって、柔らかな笑みを零した。それにだれもが息を呑むのを感じながら、打ち合わせでしょう? などと適当な理由をでっち上げて、その場から打ち合わせ室のほうへと連れていく。楓がそれに驚いた顔をしながら、なにも言わずについてきてくれた。お騒がせしました、と店内に手を振るのに、小さな悲鳴を吞み込んだような声が聞こえてくる。
打ち合わせ室に入るなりしっかりとドアを閉めた。うしろに立つ楓の気配に緊張していたら、案の定長い腕の中に囲われてしまった。逢いたかった、と肩に額を擦りつけられるのに、朝あったばかりじゃないかと苦笑いが零れてしまう。
今日はドラマの顔合わせと本読みだけだと聞いていたが、復帰してからの楓は休んでいた空白を埋めるようにスケジュールが詰まっていた。それでも普段に比べるとまだ余裕があるほうだといい、一緒に暮らしているぶん、顔を合わせる時間もとれていた。それでもまだ凪が家を出ていないので、家で触れ合えるタイミングはそう多くはない。
「仕事は?」
「早めに終わったから、雪兎さんを迎えに行こうと思って。それに、またあの記者が雪兎さんを張ってるみたいだから」
「週刊誌の記者ってそんなに粘り強いもんなの?」
「そりゃあみんな気になるでしょ。俺がどんなかわいい人と付き合ってるのか」
揶揄するような声音に笑ってしまった。どうやら楓は雪兎を心配して迎えに来てくれたようで、裏口から出たとき、すこし離れた路地に怪しい車が路駐しているのが見えた。楓がいうには、あれが週刊誌の記者の車なのだという。
「これ被ってて。雪兎さんの顔、撮られたくないし」
「どうせモザイクかけてもらえるでしょ?」
「俺が雪兎さんのかわいいお顔を撮られるのがいやなの。変なやつに懸想されたら困る」
そう渋い顔をした楓に、被っていた帽子を頭へと押しつけられた。わざとらしくぐりぐりと力を入れられるのに笑みが零れてしまう。行こうと差し出された手を遠慮がちに握った。いくら写真を撮られようとも、もう公表してしまったあとなのだ。
「そうだ、どうせなら見せつけてやろうか」
「見せつける?」
「雪兎さんは未来永劫、俺のものなんだよって」
え? と曖昧な笑みを浮かべた唇を、ちょっと屈んだ楓に奪われた。じわりと頬に熱が滲むのを感じて、慌ててその肩を押す。真っ赤になって口元を覆う雪兎に、楓が満面の笑みを浮かべていた。そのまま抱き寄せられると、人通りが少ない路地とはいえ、こんなところで、という気持ちが拭えない。
「明日トップニュースだったりして。〈俳優の森宮 楓。白昼堂々恋人と路チュー〉」
「大丈夫なの? それ」
「いいでしょ、べつに。雪兎さんは俺の恋人なんだから」
そう言われるのに、そうだねと笑い返した。帰ろうと引かれた手を今度はしっかりと握り返して、楓の他愛のない話に相槌を打つ。
路地を抜けて大通りを駅へと向かう間も、楓は手を離そうとはしなかった。道行く人々が楓に気づいて振り返っても、驚くほどに堂々としている。ただ雪兎だけを見つめてくれるその横顔に、胸がときめいてやまない。
「楓くん、明日早い?」
「雪兎さんと同じくらいかなあ。どうして?」
「えっと、今日は俺の家に帰らない? もう付き合ってるってみんな知ってるんだし、問題ないんじゃないかなって……その、だめ?」
なんだかとんでもないことを言っている自覚が追いついてきて、最後のほうはしどろもどろになってしまった。立ち止まった楓に、真っ赤になった顔をまじまじと見つめられるのがいたたまれない。どうかな? と彼を見上げると、とんでもなく甘い笑みを浮かべた顔がそうしようと頷いてくれた。
次の休みに引っ越してこようと思う、と楓に告げると、彼はすぐに田中に連絡して、その日の午後のスケジュールを開けてくれた。央基に頼めば充分だと言い張ったのだが、それはそれで楓の気に障ったらしい。絶対に休むから、と言い張られてしまうと、食い下がるのも申し訳がなかった。雪兎が楓の家に避難してから半月が経とうとしていた。
そんな話をしたら、引っ越しの手伝いに来てくれていた央基が作業の手を止めて楓らしいと笑う。
「そりゃあ、いやだよ。恋人がほかの男とふたりで引っ越し作業するって」
「ええ? そうかなぁ」
「男ってそういうもんだよ? あんな見せつけるみたいな写真撮られちゃってさぁ」
「もう言うなってば」
楓が見せつけてやろう、と言ったときの写真は、本当に楓が言った通りそっくりそのまま、翌日にはスクープとしてネット記事にされていた。雪兎の顔は見えない角度で撮られていたし、内容はそれなりに好意的なものではあったものの、これまでスキャンダルゼロで売っていた楓のクリーンなイメージはすくなからず傷ついたのではないかと懸念している。それに対しての事務所のコメントは〈はじめての恋人に浮かれているだけなので、温かい目で見守ってください〉と呆れていた。
「森宮さん、隠す気ゼロじゃん」
揶揄するようににやりとされると、返す言葉が見つからない。困ったことに楓は、バラエティや雑誌の取材で雪兎に対して聞かれるまま、当たり障りなく盛大に惚気ているらしいのだ。相手方もプロなので危ういところは切ってくれているようだが、田中が苦言を呈してくるくらいだから相当なのだろう。そして驚くことにその様子を、楓のファンは概ね好意的に受け入れてくれているらしいのだ。
「でも安心した。なにがあっても、せっちゃんをしあわせにしてくれそうで」
ずっとたったひとり傍にい続けてくれた央基からそう言われるのは、なんだかぐっと胸に来た。彼が楓との関係に悩んでいた雪兎の相談に乗り、背中を押してくれなかったらこんなしあわせを手に入れることはできなかったかもしれない。
「ありがとう、ヒロ。ヒロがいたからここまでこれた気がする」
そう口にするのは照れ臭かった。変に顔が笑ってしまうのは央基も同じであるようで、照れ隠すように苦笑いながら、お嫁にいっちゃうのかぁ、とぼやいた。
「おばさんには紹介したの?」
「落ち着いたら挨拶にいくつもり。それから楓くんのご両親にも」
「緊張するねぇ」
「ほんとうに。すっごいお金持ちなんだよ」
「いいじゃん、玉の輿」
央基ににやりとされると不思議と心が軽くなった。公表するにあたり楓は両親に話を通してくれてあったが、海外生活が長いからだろうか、好意的に受け入れてもらったようだ。それから頻繁に早く連れてこいと急かされていたようだが、いまの楓に海外に行ける休みを取る余裕はない。そんなわけで来月、彼らのほうが帰国してくれることになった。せっかくなら雪兎の母親も招待して、実家で盛大な両家顔合わせのパーティーを開くつもりでいるようだと、楓が呆れていた。
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