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第10話 …知らなかった

  ぐったりした樹をベッドに横たえ、渡辺はその愛おしい体を覆うようにしてしっかり抱きしめた。  このまま、抱き合ったまま離れられないよう、鎖で縛ってしまえたら。この腕が離れないよう、樹の肌に溶接してしまえたら…  渡辺は愛しい体温を腕の中に感じながら、切ない想像に浸った。 「樹?」  ふと気がつくと、渡辺の腕の中で樹が涙を流していた。 「大丈夫か?」  情事の後、我に返って樹の体を傷つけていないか確認した。それでも我を忘れて抱いてしまったから…どこか見えない部分を傷つけてしまったのかもしれない。 「痛いか?どこが痛い?」  体を離して顔を見ようとする渡辺に、樹が全力でしがみつく。体を離したら全てが崩れてしまいそうに感じた樹は、渡辺の背中にまわした腕に精一杯の力を込めた。 「乱暴にしたから…つらかっただろう」 「もっと…ギュッてして」  涙声の樹を抱きつぶさんばかりに、渡辺が腕に力を入れる。 「もう抱かないから…もうしないから…」  その言葉に樹の体が硬直した。自分が浅ましい姿をみせてしまったから?渡辺を求めてしまったから? 「どうして?僕が汚れてるから?けがれてるから?」  広い胸に顔をうずめたままそう言った。顔を上げて、渡辺の目を見るのが怖かった。 「…そうだな。樹は汚れてる」  その言葉が樹の胸をえぐる。もう生きていられない。樹の体から全ての力が抜け落ちた。 「樹は真っ白だから。他の男の色が交じり合って汚い色になっている。俺はその色を全て塗り替えて、俺だけの色に染めたい。他の色は一切入れたくない」  腕の力を緩め、激情を抑えるように渡辺はふーと息を吐いた。 「渡辺さん…僕…渡辺さんの色に染まりたい。僕…渡辺さんが…」  渡辺が大きな手で樹の口を塞いだ。 「言うな。それ以上は言うな。それ以上言われたら独占欲を止められない。他のヤツと寝るなんて絶対に許さない。全裸の写真なんて絶対撮らせない。それでも樹がやると言い張ったら…寝ている間に首輪をつけて、この家に監禁する」  今だって、どこへも行けないよう縛っておきたいのだから。 「俺はそのくらい嫉妬深くて独占欲が強い男なんだ。だから見守るだけにしようと決めていた。一度箍が外れたら、コントロールが効かなくなるから」 「僕…汚くない?醜くない?」  今の樹にとって心配はそれだけだった。渡辺に嫌われたら、醜いと言われたら、自分はこの世から消えるしかない。 「他の男と寝ている樹は醜いだろうな。だけど俺といる時の樹は綺麗で愛らしくて、凡人の俺の手が届かないくらい美しいよ。だから縛っておきたい。どこへも行けないよう、他の男のところへも、俺の手の届かないところへも行けないよう、縛りつけてしまいたい」  樹は渡辺から少し体を離して、両腕を差し出した。 「縛って。渡辺さんの体に縛りつけて」  渡辺が大きく目を見開いて息をのむ。 「渡辺さん、僕が好き?愛してる?」  大きな瞳からポロポロと涙を溢しながら、樹がすがるような目で渡辺を見つめた。 「ああ、愛してる。…いや、そんな言葉じゃ足りない」 「よかった…よかった…僕も…渡辺さんが好き。渡辺さんを縛りたい」  両腕を差し出したままの樹の涙を拭ってやりながら、渡辺は自分の衝動が落ち着くのを感じていた。    ―これならまだ抑えられる。樹を離してやれる。こう言ってくれる樹を…  震える体をギュッと抱きしめた後、樹の髪をグシャグシャとかき混ぜて、渡辺が起き上がろうとする。 「待って!抱いてて。ずっと抱きしめてて」  叫ぶようにそう言った樹は、渡辺の腕を全身の力の込めてつかんだ。 「じゃあ、こうしよう。服を着せてやるから、一緒にリビングまで行こう」 「服なんかいらない。渡辺さんに抱きしめてて欲しい」  胸が痛いから。つぶれそうなほど痛いから、抱きしめてくれないと息ができない。 「そうか…」  困ったように微笑んだ渡辺が、ベッドに上がり再び樹を抱きしめた。 「胸が痛い?」 「うん」 「もう痛くないか?」 「痛い。まだ痛い」 「樹?」 「痛い。まだ痛い」 「一日中このままでいるつもりか?」 「うん。ずっと。明日もこのままでいる」  渡辺の口元から笑みがこぼれた。 「俺もこのままいたいけど…大人だからな」  そう言ってベッドから降り、樹を抱き上げた。 「食べやすいもの作ってやるから、リビングで待ってろ」 「は、恥ずかしいよ…」 「降ろそうか?」 「ヤダ」  首にまわされた腕を優しくさすって、渡辺は樹をリビングに運んだ。  リビングで服を着せられた樹は、渡辺を追ってキッチンに立つ。 「あっちで待ってろ」 「嫌だよ。渡辺さんが消えちゃうかも知れない」 「こんなデカい体、消えようがない」 「でも見ていたい」 「そうか。わかったから離れて見てろ」  ふっと笑みを漏らした渡辺が、腕にべったりとしがみつく樹を引き剥がす。 「やっぱり…縛っちゃえばよかった」 「抱き合ったままの状態で縛るには、第三者の協力が必要だ」 「僕だって大人なのにな…渡辺さんだけ大人って感じでズルい」  拗ねるように口を尖らせる樹を見て渡辺が微笑む。  その微笑みはすぐ自嘲に変わった。 「俺が感情に引きづられたら…樹も俺もこの世にいない」 「え?」 「心中したいと何度も思った」  鍋を火にかけながら、世間話をするかのように思ってもみなかったことを言われ、樹はショックで言葉を失った。  ―知らなかった。渡辺さんがそんなこと思ってたなんて… 「樹が初めて野村の家に泊まった時…何をしているのか何となくわかってしまって、一晩中吐いた。その後もおまえが男と寝ているんだと思うと、ムカムカして何度も吐いた。それでも樹への想いは誰にも負けないんだからと自分に言い聞かせていたら、1年ぐらいで吐かなくなった」  樹が初体験の相手である野村隆志(のむら たかし)と出会ったのは18歳の時。渡辺はその時すでに樹を愛していた。 「渡辺さん…いつから僕が好きだったの?」 「初めて会った時から。カメラ越しにおまえの才能に惹きつけられて、素顔のおまえに魅了された。だけど保護者的存在でいたかったんだ。そうすれば、いつまでもおまえを見守ってやれるから」  いつも甘えさせてくれた。いつも温かく包み込んでくれた。狂おしい感情を抑えながら、渡辺が自分を10年も想ってくれていたなんて…知らなかった。 「おまえが野村と付き合うまでは、自分の感情がこんなに激しいものだと知らなかった。だから見守るだけでもいいと思っていた。だが野村におまえを取られたと思ってしまって以来、狂おしいというのが、どういう感覚なのかわかった」 「どうして…言ってくれなかったの?」 「モデルとして華やかな世界を飛び回るおまえに、そんなこと言えるか?おまえを縛りつけたい。誰にも見せたくない。誰にも触らせたくない。俺だけのものでいてくれ。そんなこと言ったら、引かれるに決まってる」  確かに、あの頃の樹は自分のことで精一杯だった。  ―いや、今でも精一杯だけど… 「何度も…男の家にいるおまえをひきずって連れ戻したいと思った。衝動を抑えきれなくて、刃物を持って家を出そうになって、自分を止めるためにすねを切った。痛みで自分の気持ちを静めるために」  ―足の傷…撮影の時についたんじゃなかったの? 樹は自分の耳を疑った。 「自分で…切ったの?」 「ああ。流れる血を見ながら痛みに堪えていると、冷静になれるから。冷静になって床についた血を拭っていると、落ち着いて自分の部屋に戻ることができた」  衝撃的な事実を知り、両手で口を押さえた樹の目から涙がこぼれた。 「俺がどういう人間かわかっただろう。自分が何をしてしまうか、わからないんだ。俺は蝶のように飛び回る樹が好きだ。だから見守りたかった」  渡辺ができあがったお粥を器に盛り、リビングへと運ぶ。 「ここで食べよう。樹?」  樹はキッチンに立ち尽くしたままだった。 「変なこと聞かせて悪かったな。墓場まで持っていくつもりだったのに…これで俺が恐ろしい男だと分かっただろう」  ―そうじゃない。渡辺さんを恐ろしいなんて思ったことない。樹は渡辺の想いの深さに胸を打たれて動けなくなっていた。 「大丈夫。突然、切りかかったりしないから。ほら、座って飯食うぞ」  肩をそっと抱いてリビングへと誘導しようとする渡辺に、樹が抱きついた。 「どうした?胸が痛い?」  樹は首を横に振る。 「じゃあ、どうした?」 「渡辺さんの…胸が痛い」 「俺の胸?」 「痛いよ。渡辺さんの胸が痛い」 「俺は大丈夫」 「痛いよ…胸も足も…体中が痛い…」 「そうか…それならギュッと抱きしめてくれ」  渡辺が抱きついたままの樹を引きずるようにして、ソファーの前に立たせる。そして自分はソファーに座り、樹の腹に顔をうずめた。 「ギュッと抱きしめてくれ」 「うん…」  樹は膝をついて、渡辺を胸に抱きしめた。 

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