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真実〈3〉
問題の木曜日を明日に控えた今日。俺はまだ気持ち的にグラタンさんのことを引き摺っていた。騙された訳ではないが、釈然としない。隠し味の昆布出汁を言い当てて、あんなに美味しそうに食べてくれていたのに、それが手管だったなんて。本当に人間不信になってしまう。母親はとんでもない奴だが、俺に嘘はつかなかった。嘘をつかなかったから俺は傷ついたんだが。
そして、明日のことばかりを考えていると、あっという間に今日一日の営業が終わろうとしていた。君子さんが最後のお客さんを見送って厨房に入ってくると、ドアチャイムが音を立てた。君子さんが、申し訳ありません、今日はもう、と言うと、聞き慣れた声がした。グラタンさん、いや、若頭の殿村さんが店内にいた。しかも補佐の新倉さんを連れている。
「申し訳ない。閉店時間だとわかっていたんだが、どうしてもマスターに相談したいことがあってね。少し時間をいただけないだろうか」
スマートな口調で話すグラタンさん。でもその優しい顔の下には、ヤクザの幹部という裏の顔が潜んでいるんだ。俺は厨房から一歩も出なかった。顔を合わしたくなかった。俺を見て笑いかけても俺は作り笑いはできない。
すると君子さんがフロアーに行って、二人のヤクザを席に案内した。
「こんばんは。明日、お越しになると思っていましたが…一日フライングですね」
「まぁ、色々あってね」
いつものグラタンさんの声だ。君子さんも淡々と、お忙しいんですね、と応えている。
「先週、お渡し損ねたお釣りです。白ワインニ杯と和風グラタンのお代をいただきました」
「ああ…そういえば。お釣りなんてよかったのに」
君子さんが、そう言う訳にもいきませんよ、と言うと、マスターが二人のヤクザに、こんばんは、と声をかけた。俺はカウンターからフロアーを覗き見た。
マスターは二人の前に座った。グラタンさん、いや殿村さんから名刺を受け取っている。
「ねぇ…研ちゃん。権藤さんに連絡した方がいいかな」
厨房の方に戻ってきた君子さんは俺に訊いた。
「でも…今は警察を呼ぶような事態でもありませんし、もう少し様子をみませんか?」
「まぁ、確かにそうね。じゃあ、注文でも取ってこようかしら」
君子さんはトレーに水の入ったコップを乗せて、三人が座っているテーブルに近寄った。
「ご注文は…いつものになさいますか?」
「ああ、そうだな…でも今日はグラタンはやめておく。ワインをもらえるかな」
「はい。グラスでよろしいですね?そちら様は?」
「彼は車を運転するから、何かノンアルの物を頼むよ」
君子さんは、少々お待ちください、と言って厨房に戻ってきた。そして注文のドリンクを持って、またフロアーに行った。俺は君子さんの後ろ姿を見ながら、やっぱりな、と思った。わかっていたが俺のグラタンなんて、もうどうでもいいんだ。
マスターに相談って、殿村さんは一体何を言い出すんだろう。俺は気にしながらも厨房の後片付けを始めた。
しばらくすると君子さんが、裏口でゴミ捨てをしていた俺を呼びに来た。
「ねぇ、研ちゃん。マスターが呼んでるんだけど」
「えっ?俺ですか?」
「そう。なんだか、妙な雰囲気になってるのよ」
もう用無しの俺に一体何だろう。俺は素早く手を洗ってフロアーに行った。お待たせしましたと言った俺を見たのは、俺の知っているグラタンさんではなく、ヤクザの顔をした殿村さんだった。眼光は鋭く、まるで俺を射止めるようだ。
「あの、俺に何か」
俯き加減のマスターに訊いた。
「研一。こちらは、まぁお前も知っている方だが、コンサルタントの会社を経営されている殿村さんだ。で、隣の方は同じ会社の新倉さんだ」
「…はい。いつもご来店いただきありがとうございます」
俺は殿村さんと目を合わせることなく挨拶をした。
「…研一。急な話しなんだが、こちらの殿村さんが、その、お前を…殿村さん専属の料理人にしたいと申し出があってな」
はぁ?専属の料理人だって?何だそれ…。
俺が理解できない様子なのを見て、殿村さんが口を出した。
「俺は、週一度この店で、須貝君のグラタンと冷えたワインを飲むのが、唯一の楽しみなんだが、どうしたものか大人の事情でそれが難しくなりそうなんだよ」
殿村さんはわざとらしく鷹揚な口振りで話した。
「そこで考えたんだが、それならいっそのこと君を攫っていこうかなと、まぁこれは冗談だけど。でね、須貝君に俺の専属の料理人になってもらえないかな、と思ってマスターにお話をしていたんだよ」
「研一はうちで住み込みをしているから、うちから通うとなると難しいのではとお伝えしたんだが、殿村さんもはなから殿村さんの自宅にお前を住み込ませるつもりなんだそうだ」
まさかの俺が目当てだっていうのか?マスターと懇意の仲になるんじゃなかったのか?いや、でも俺を人質にして、マスターに無理難題を迫るつもりとか…ああ、普通に考えてインテリヤクザはそんなリスクは負うわけないか。
それから、俺は頭をフル回転させてこの状況を整理した。もし、もしも俺がこの話しを断ると、殿村さんはこれからもレブロンに足繁くやってくるかもしれない、いや、さっきの言い様を鑑みると絶対に来る。前原刑事が言っていた、瀧野連合だっけ、そいつらも今、ギリギリの状態で殿村さんの動きを見ている。警察もそうだ。敵対する若頭が自分たちのシマに出張ってきたのは、ただ洋食屋に行くためで、その店のグラタンが気に入ったから通っているなんて一体誰が信じるっていうんだ。警察がこれまで何とかしてヤクザたちに守らせてきた不文律が容易く壊れてしまう可能性がある。俺は心の中でゆっくり数を数えた。…七、八、九…十。
「わかりました。お受けします」
俺は決めた。行き倒れの俺を助けてくれて、これまで俺一人でも生きられる術を与えてくれたマスターや君子さん、そしてこの店レブロンに絶対に迷惑はかけられない。
「えっ…研一…よく考えろよ。お前の人生なんだから」
「ええ。俺もそろそろ次に進むことにします。俺の料理の腕を見込んでのお話なんですから」
「いや…でも、研一」
マスターもこの場の解決策が見つからないようだ。
今、俺がこの話しを断ると、殿村さんは今まで以上にレブロンにやって来るとマスターも分かっている。狙いをつけたら必ず落とす、ヤクザの習性だ。そして断った先に待っているトラブルは容易に想像できる。しかもそれは、レブロンだけの問題ではなくこの街全体に関わることだ。
「いやぁ、もう少し考えてくれてもよかったんだけど、見かけによらず須貝君は思い切りがいいね。益々気に入ったよ」
殿村さんはご満悦だ。狙った獲物は絶対に逃さない獣のような目をして言った。
「あの、お受けするにあたって、一つお願いがあります」
横に座っている新倉さんが身構えて、ジロッと俺の顔を見た。殿村さんはそれを見逃すことなく、新倉さんの腕を軽く叩いた。
「何だろう…お願いって」
殿村さんはわざとらしい笑み顔で訊いた。
「はい。俺が料理人としてそちらに伺った後、やっぱり俺が期待外れだったからって、マスターの料理を食べにレブロンに来るのだけは、絶対にやめてくださいね」
俺は毅然として言った。俺にできることは、ヤクザをこれ以上このレブロンに近づけないことだ。
殿村さんは片眉を上げて、ニヤッとした。
「わかった。もうここには二度と来ない。約束しよう」
「本当ですね。浮気されたら俺は傷付きますよ」
殿村さんと新倉さんは顔を見合わせて笑った。
「面白い奴だな。須貝君は」
俺は、笑いながらまだ何か言いかけようとした殿村さんを無視して、マスターを見た。
「マスター長い間、お世話になりました。この御恩は一生忘れません」
マスターは、研一、と言って目頭を押さえた。マスターは俺の真意を理解してくれている。俺を引き止めない選択をしたのは苦渋の決断だと、俺にはわかる。
「では、荷物を取ってきますので、少しだけお待ちください」
俺の言葉にマスターは驚いた顔をした。殿村さんと新倉さんは薄ら笑いをしている。
「研一。何もそんな今すぐなんて」
「いえ。今日の、今晩のうちがいいんですよね。殿村さん」
殿村さんは、何も答えない。
明晩になれば、おそらく警察もレブロンを見張るだろう。それに瀧野連合の奴らもひょっとして何か企てているかもしれない。それを見込んで殿村さんは、一日早い水曜日の今日、レブロンにやって来た…はずだ。
殿村さんは新倉さんを見ると軽く顎で指図した。新倉さんは頷くと、店の外に行った。
俺は厨房横の小部屋、俺の秘密基地に荷物を取りに行った。
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