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新たな生活〈1〉
俺は自分の基地に戻ると、紙袋にスウェットの上下と下着類を何枚か入れた。そして小さな段ボール箱に貴重品や文具品やらを詰め込んだ。
俺が二十歳になった時、マスターは、自分が保証人になるから、どこかに引っ越してもいいんだよ、と言ってくれた。ほぼベッドしかないこの場所に慣れたとはいえ確かに不便なことばかりだ。だか、俺の原点がここにある。俺はまだここに居たかった。マスターはいつも俺の気持ちを分かってくれる。半分呆れ顔で、好きにしたらいいよ、と笑って言ってくれた。あらから、あっという間に五年が過ぎた。
そして約十年間世話になったこの小さな秘密基地に、俺は一礼をした。
フロアーに戻ると、君子さんは泣きじゃくっている。
「君子さん、そんなに泣かないで。今まで本当にお世話になりました。それですいませんが、後の荷物は適当に処分してください」
君子さんは、口を真一文字にして、何度も頷いた。
「それと、マスター、これは解約してください」
俺はマスターにスマホを渡した。
「ああでも、まだしばらくは持っていなさい」
「いえ、新しいのを直ぐに買ってもらいますから」
俺は、殿村さんをチラッと見ると、殿村さんは、すぐにサムアップをした。
「あの、マスター。このコックコートは貰ってもいいですか?」
「ああ、もちろんだ。じゃあ、それと」
マスターは、襟元の赤いコックスカーフを外すと俺に渡した。
「頑張れよ、研一。今まで、本当にありがとうな」
「はい。俺こそ本当にありがとうございました。一生感謝してもしきれません。それと、あの、これ受け取ってください」
俺は、マスターの手を取ると、通帳と印鑑とキャッシュカードを渡した。その口座には今まで貯めてきた俺の全財産が入っている。マスターは驚いて何も受け取らずにその手を引っ込めた。
「研一、何を言ってるんだ」
「マスター、お願いです。マスターがやりたかったこと、俺にも手伝わせてください。本当は一緒にしたかったけど…今の俺にはこんな形でしか手伝えないんです。だから、どうか受け取ってください。暗証番号はマスターの誕生日ですから」
マスターは流れる涙を拭いもせずに、わかった、ありがとう、と言って、受け取ってくれた。
マスターや君子さんは泣いているが、俺はどうしてだか泣けなかった。マスターに拾ってもらったあの日に、俺の涙は出し尽くしたんだろう。
すると、新倉さんが、お待たせしました、と店の扉を開けた。
俺は、紙袋と段ボールの小箱一つを持つと、殿村さんに背中を押され、店の前に停まっている黒塗りの高級な車の後部席に乗り込んだ。
車はスピードを上げて夜の街を走る。自分で選んだことだとはいえ、あまりの急展開に俺の心はこの現実に追いついていない。そんな俺を殿村さんは、まるで戦利品を愛でるように見ている。
「研一…」
「はい…」
さっきまで、須貝君だったのに、いきなり研一だ。
「研一。俺のことは、柊二さんと呼ぶんだ。いいな」
「わかりました。柊二さん」
「それでいい」
柊二さんはしばらく無言で目を閉じていたが、急に何かを思いついたようだ。踏ん反り返って座っていた体を少し起こした。
「新倉。悪いが、帰る前にエリ子のところに寄ってくれるか?」
「…ああ、はい。わかりました」
エリ子だって?柊二さんの恋人?奥さん?いい人がいるんだったら、その人に食事を作ってもらえばいいのに…やっぱり、俺は料理人じゃなくて、他の使い途で俺を何処かに閉じ込めようとしているのか?
「なぁ、お前。一人で勝手に想像して勘違いするな。エリ子は新倉の女房だ」
柊二さんは俺の考えていることが丸わかりなのか?それにしても新倉さんは柊二さんの部下か何か知らないけど、その奥さんを呼び捨てにして、そこに連れて行けだなんて、柊二さんは、ひょっとして立場を笠に着たハラスメント大王なのか?そうだ…あの時。新倉さんが猫舌だと知っておきながら、熱々のグラタンを食べさせていた。絶対間違いない。これからは心して、この大王の相手をしないと…これから俺はどんな仕打ちを受けるのか…レブロンのマスターが優しかったから余計に辛く感じるんだろうな…。
「さっき店でお前が言ってた、マスターがやりたいことって何のことだ?」
柊二さんはまた思い出したように訊いた。
「ああ、あれは、子供食堂をすることです」
「子供食堂?」
まぁ、ヤクザが知らなくて当然か。
「色々な事情で食事を摂るのが難しい子供たちに、食事を提供する場のことです。マスターはレブロンのランチタイムとディナータイムの間の時間に、その子供食堂ができないか考えているんです」
マスターから最初その話しを聞いた時、俺はすごい取り組みだと感動した。世の中には俺みたいな仕打ちを受けている子供や、愛情には恵まれていても貧困で満足に食事ができない子供がたくさんいる。そんな子供たちへの食事の提供は、きっと空腹を満たす以上の支援になる。
「研一もやりたかったのか?」
「はい。俺も不憫な少年時代を過ごしてきましたから。今の俺があるのはマスターのお陰なんです。だから、僅かでもその思いの一助になればと思って、マスターに俺の全財産を託してきました。だから今の俺は無一文です」
柊二さんは、声を立てずに笑っている。
「ああ、無一文であろうとお前の面倒は俺がみる。心配すんな」
えっ…今の柊二さん、なんかグラタンさんに戻ったような気がした。
「それじゃあ俺も、近い将来のレブロン子供食堂に寄附でもしようか」
「ああ、それはよした方がいいと思います」
「どうしてだ?」
「反社会的勢力からの寄附は受け取らないと思いますから」
「バカヤロウ。俺はコンサル会社の経営者だぞ」
知ってるんだぞ、本当は山東会の若頭のくせに…。
「気を悪くしたのなら、ごめんなさい。余計なことを言いました」
ふん、と柊二さんの鼻息が聞こえた。
車はどこかのコインパーキングに停まった。エリ子さんが居る所ってどこなんだろう。すると柊二さんは俺の格好を見て、溜め息を吐いた。
「お前、着替え持ってるのか?」
「スウェットの上下なら…」
「まぁいい。その白服の上から被っておけ」
俺はコックコートのままレブロンから出てきていた。柊二さんに言われるまま、紙袋の中のスウェット着た。
パーキングから二、三分程歩くと、幾つもの色鮮やかな看板が立ち並ぶビル街に出た。そして、柊二さんと新倉さんは、その一角の雑居ビルに入った。『clubエリーゼ』と金色の装飾文字が書かれた木目調の扉の前に立つと、柊二さんは、ここは新倉が女房に持たせた店だ、と言ってその扉を開けた。店名のエリーゼは奥さんの名前からなのか…。
いらっしゃいませ、と黒い服の男の人が柊二さんに恭しく頭を下げた。柊二さんは、ああ、とだけ応え、ママを呼んでくれ、と言った。その黒服は、お待ち下さい、と店内に消えた。
エリーゼの店内の照明はかなり落とされ、所々の壁は鏡張りになっている。まさしく大人の社交場だ。すると高級そうな着物を粋に着こなし髪も着物に合うようにきちっとセットをして、いかにもクラブのママたる女性が、満面の笑みでやってきた。
「あらぁ…こんなに若い子だったんですね。新倉から、柊二さんご執心のシェフがいるって聞いてたんですけど」
それを聞いた殿村さんは、新倉さんをジロリと睨んだ。新倉さんは肩をすくめた。エリ子ママは、こちらへ、と席に案内した。
「初めまして。私はここのママのエリ子です。よろしくね」
「こちらこそ、宜しくお願いします。須貝研一といいます」
「研一君か…じゃあこれからは、研ちゃん、って呼ぼうかしら」
エリ子さんは華やかな笑顔でそう言った。少しハスキーな声と笑った顔は親しみを感じさせた。
「エリ子、今日はコイツの顔を見せに来ただけだ。これから世話になるかもしれないしな」
「あら、そうなんですか?ゆっくりしていってくださればいいのに」
エリ子さんは、傍にいた黒服に目配せをした。そしてエリ子さんは俺の隣りに移り座ると耳打ちした。
「ねぇ…こんな強面のオジサンたちの相手だと気苦労が絶えないから、何か困ったことがあったらいつでも言ってね」
エリ子さんは悪戯っぽい顔をしてそう言うと、胸元から銀色のケースを出して、その中の名刺を俺に渡した。それを見た新倉さんはムッとした顔をした。
「お前…俺は名刺なんて一度も貰ったことないぞ」
「何言ってんのよ。毎日顔合わせてるんだから名刺なんていらないでしよ」
「ちょっと若い男を見たらすぐニヤけやがって」
「はいはい。やきもちは家に帰ってからね」
エリ子さんが新倉さんを軽くあしらっていると、他の客席から、いらっしゃいませぇ、と甲高い声が聞こえた。
すると、殿村さんはエリ子さんに向かって軽く手を上げた。
「忙しそうだな。急に立ち寄って悪かったな」
「いいえ。いつでもいらして下さい。うちの子たち全員が柊二さんのファンですから」
殿村さんは、フッ、と笑った。そして、また来るよ、と言って俺の背中を押して店を出た。
ヤクザの料理人の就任早々に、俺は『クラブ』に入るという初めての経験をした。
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