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幼子と抗不安薬〈1〉

 毎日が穏やかに過ぎていった。たまに柊二さんの機嫌を損ねることはあっても、エロい揶揄いはあれから一切なかった。今は柊二さんのことを信頼に足る人だと思う。でも新倉さんと話した『男色』に関しては、俺にとってはまだ踏み込めない領域だ。  そしてキッチンも調理器具や家電で俺好みに充実してきた。柊二さんが気に入った料理名やレシピを書き記した柊二さんノートももうすぐ二冊目に突入しそうだ。  ある日の昼過ぎ、俺は遅めの昼ごはんを食べた後、夕飯は何にしようか冷蔵庫と相談していた。すると柊二さんから電話がかかってきた。新倉さんたちがここに来たら部屋に居させてくれ、という内容だった。変な言い方をするなと思っていたら、数分後にインターフォンが鳴った。モニターには、おちゃらけたカンジさんと渋い顔の新倉さんと仁川さんが映っていた。そしてその後ろに小さな人影が見えたような気がしたが、モニター画面が消えてしまった。  玄関扉の鍵を開けて待っていると扉が開いた。俺は、どうぞ、と言って三人を招き入れようとしたら、やっぱり見間違いじゃなかった。仁川さんに手を繋いでもらって不安そうな顔をした小さな男の子がいた。  柊二さんはこの男の子をここに居させてくれと言いたかったんだ。  仁川さんにリビングのソファーに連れていかれると、その子は大人しくちょこんと座った。辺りをチラチラと見ては俯いている。  新倉さんは渋い顔で、研一、あの子はな、と小声で話し始めた。男の子は、赤尾さんという組員の子供で、太一君といって今、五歳らしい。保育園から連れて来たと新倉さんは言った。 「保育園って、どうして」 「赤尾は離婚した後、赤尾のお袋さんと一緒に太一の面倒をみてるんだが、今日の昼過ぎ、お袋さんと車で買い物に行ってる途中で交通事故に遭ってな、二人もと救急搬送されて今は病院だ。お袋さんは重体でな、赤尾はなんとか電話はできる状態だったから組に連絡してきたんだ。保育園にいる太一をお願いしますってな」  知らない男が突然保育園にやって来て、連れて行かれたら太一君も当然不安になるだろう。 「保育園の先生も戸惑ったでしょうね…太一君を新倉さんたちにみたいな人に本当に託してもいいのかって」 「お前、それどういう意味だ」  新倉さんは、俺の頭を小突いた。新倉さんとは今では好きなことが言える間柄だ。 「一旦、事務所に連れ帰ったんだが、太一は何も喋らないし何も飲まないし怯えるばっかりだからさ…柊二さんが見兼ねて、お前だったら何とか出来るだろうって、連れてきたわけだ」  まぁ、それは当たってる。 「わかりました。ちょっと待っててください」  俺は自分の部屋に行って、久しぶりにレブロンのコックコートに着替えた。保育園に通っているんだったら、コックさんとわかってくれるだろう。  俺はソファーに座っている太一君の前でしゃがんだ。 「こんにちは。俺はここでコックをしている須貝研一といいます」  太一君は顔を上げて俺を見た。俺の服装を見て少し頷いた。 「君の名前を教えてくれるかな』  太一君は黙ったままだ。 「赤尾太一っていうんだよ」  カンジさんが口を挟む。 「お前はバカか。本人に喋らせるんだろうが」  傍にいた仁川さんがカンジさんを蹴っ飛ばした。カンジさんは肩をすくめてソファーから離れた。  まったくもう…本当に空気の読めない人だ。   「太一君っていうんだね?ねぇ今いくつかな』  太一君は、おずおずと手のひらを広げた。 「そっか、五歳か。じゃあさ、お兄さんは何歳でしょうか?」  太一君の表情が少し和らいできた。太一君は首を傾げながら両方の手のひらを広げて俺に向けた。 「十歳?…ううん、もう少し年上かな…ねぇ、本当のことを教えてあげるからこっちに来ない?一緒におやつ食べようよ」  太一君は、小さな声で、うん、と言ってくれた。俺は太一君に向けて手を出すと、その手を掴んでくれた。   「新倉さん、研一君に任せてよかったですね」  仁川さんが言った。   「ああ、柊二さんの言った通りだ」  俺は、太一君の手を引きながら、思わず頬が緩んだ。  そうだ。太一君にアレルギーがないか訊かないと。 「新倉さん。太一君に食物アレルギーがないか保育園に確認してくれませんか?」 「そうだな。わかった」  新倉さんが保育園に確認している間に、俺は太一君をキッチンに連れて行った。強面の男たちから離してあげたかった。新倉さんたちには悪いが、やっぱり小さな子供にとって父親以外のヤクザは怖い存在だと思う。 「研一、大丈夫だ。何もない」 「わかりました」  よし、じゃあ太一君とおやつタイムにしよう。 「太一君。オレンジジュースと牛乳、どっち飲む?」 「ええっと…オレンジジュース」 「オッケー。じゃあ、今から美味しいフレンチトーストを作るからちょっと待っててね」  太一君は俺にぺったり引っ付いて、フレンチトーストの出来上がりを待った。 「研一。太一を任せてもいいか?俺たちは事務所に戻りたい」 「いいですよ」  太一君にとってもその方がいい。 「太一君、お父さんのお友達が帰るから、バイバイして」  太一君は、俺の陰に隠れながら、手を振った。 「おお!太一またな。バイバイ」  こういう時のカンジさんはいいんだけどな。三人の男たちが出て行くと、太一君の顔から怯えが無くなった。きっと怖かったんだな。キッチンに甘い匂いが漂うと、太一君はフライパンの中を見ようと俺に掴まって背伸びをした。 「もうすぐできるよ。太一君はフレンチトースト食べたことある?」 「ない。パパもおばあちゃんも作ってくれないもん」 「そっか。じゃあ初めてなんだね。美味しくてほっぺが落ちてもしらないよ」 「ええっ…落ちるわけないだろ。お兄ちゃんそんなこと言ってたら恥ずかしいよ」  今の子供って大人びた言い方をするんだ。でも俺もスカした子供だったかもな…。       さぁ、美味しそうな焦げ目がついた。お皿に乗せて蜂蜜をたっぷりとかけて、と。太一君の目はキラキラしてる。よかった…お兄さんとしばらく一緒に過ごそうね。  お腹いっぱいになった太一君は、俺のベッドで転がって遊んでいると、いつの間にか眠ってしまった。  今日の夕飯はハンバーグでも作ろうかと考えながら、太一君に毛布を掛けた。  太一君は事故のことをどこまで知っているんだろう。起きてから色々訊かれたら、何て答えればいいのか…新倉さんに訊いとくんだった。  玄関の扉が開く音がした。柊二さんが帰ってきたみたいだ。俺が部屋から出ると、柊二さんはネクタイを外しながら、研一、助かったよ、と言いながらリビングに入ってきた。 「おかえりなさい、柊二さん。太一君は俺の部屋でお昼寝中です」 「お昼寝って…もう夕方過ぎだぞ」 「さっきおやつを食べて、ベッドではしゃいで、そのまま寝てしまいました」 「そうか。仁川が感心してた。お前の対応は上手いってな」  俺は肩をすくめた。仁川さんは恭介さんに今日のことを話して、二人してまたカンジさんをバカにするんだろうな。 「柊二さん。赤尾さんとおばあさんの具合はどうですか?」 「ああ、赤尾と会って来た。左脚大腿部の骨折で、明日、昼から手術らしい。おばあさんはまだ意識不明だ」 「そうですか…太一君に訊かれたらどう答えればいいですか?正直に事故に遭って入院中と言ってもいいんですか?」 「まぁ、隠しておけないだろうし。目が覚めたら俺から伝える。その後はお前が寄り添ってやれ」 「で、太一君はどうするんですか?ここにしばらく居させてあげるんですか?俺は構いませんけど」 「今晩だけだ。今、エリ子に赤尾の女房に、いや元女房に連絡を取ってもらってる」 「エリ子さんが、ですか?」 「ああ、エリ子の店で働いていたんだ。そこで赤尾が惚れ込んで猛アタックしてな…太一ができて結婚したんだが、今まで夜の世界で働いていた女がいきなり子育てやら家事やらで家から出られない状況に精神的に参ってしまったんだろうな…赤尾の他に言い寄っていた客の男とどこかにとんずらだ」 「そんなぁ…太一君を置いて…?」 「ああ、それで赤尾だけではどうにもならないから、お袋さんを呼び寄せたんだ」  勝手過ぎるだろ…。子供を何だと思ってるんだ。 「それで、他の男の人とどこかへ行ったのに、エリ子さんと連絡を取ってるんですか?」 「エリーゼのママだからな、たまに連絡は取り合ってるようだ。赤尾もそれは知っている。太一のことを頼める人も誰もいないし施設に預けるくらいならと、赤尾も渋々納得して、エリ子に連絡をしてもらうことにしたんだ。もうすぐエリ子から連絡がくるはずだ」  仕方がないとはいえ赤尾さんに同情する。自分や子供を裏切った女に太一君をまた会わせるなんて絶対にしたくないはずなのに。業腹に思っても子供の安心を優先するのは父親だからなんだろうか。  インターフォンが鳴った。エリ子さんが来たみたいだ。  

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