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幼子と抗不安薬〈2〉

 エリ子さんは、お店仕様で髪も化粧も完璧だ。仕事前の忙しい中、来てくれたようだ。   「柊二さん、お待たせしました。ユキちゃんに何度か電話して、ようやく繋がりました」 「そうか、急に頼んで悪かったな」 「いいえ。ユキちゃんすっごく驚いていて…でも太一君に会えるの喜んでました」 「で、いつ来れるんだ?」 「明日の朝一に出るって言ってたから、たぶんお昼くらいかしら…エリーゼで落ち合う約束をしています」 「わかった。俺は明日は赤尾の手術に立ち会うことになっているから、悪いが太一を迎えに来てくれるか?」 「ええ、もちろんです。太一君も新倉より私の方が安心するでしょうし…太一君が一言も喋ってくれなかった、って新倉は落ち込んでるんですよ、あの顔で…笑っちゃうわ」  俺も、保育園の先生も新倉さんみたいな人は戸惑ったでしょうね、なんて余計なことを言ってしまったしな…冗談のつもりだったんだけど。 「ユキちゃん、本当は太一君に会いたく仕方がなかったんです。自分が太一君を置いて出て行ったから勝手なことは言えないし…でも、今後はたまにでも太一君と会うことができたらいいなって、涙ながらに話してました」  エリ子さんは太一君の母親の気持ちに寄り添うように話す。でも、自分の子を捨てたことは変えようがない事実だ。   「どうして産んだんですか?」  俺の突然の問いかけにエリ子さんは驚いた。   「研ちゃん…?」   「大人の勝手で欲望のままにやりました、できました、産みました、育てられません、はいさようなら、って簡単に子供を捨てて…子供の人生を何だと思ってるんですか!」 「研一、お前が口を挟むことじゃない」 「柊二さん、研ちゃんの言う通り。本当にその通りだと思う。ユキちゃんもきっと後悔してるんだと思う。だから今回太一君を預かるって言ったんだと思うの」 「預かる?期間限定で預かって…それでまた返品するんですか…子供は荷物なんかじゃないんですよっ!」  どうしようもなく怒りが込み上げてくる。俺は何に、誰に怒っているんだ。   「研一!太一のとこに行けっ!」  柊二さんの鞭を打つような厳しい声が俺に刺さった。  俺は自分の部屋の方を見ると、太一君が扉に隠れるように立っていた。しまった、俺の興奮した声で起きたんだ。 「ねぇ、お兄ちゃん。ママが来るの?」    俺は、エリ子さんを見た。エリ子さんは頷いた。   「えっ…ああ…そうみたい…だね」 「ほんと⁈…ほんとにママが来てくれるの?」 「明日だけどね」 「うん!」  太一君はここに来て一番の笑顔を見せた。こんな可愛い子をどうして自分の勝手で手放すことができるんだ。 「あらぁ、太一ちゃん!ちょっと見ないうちにまた大きくなって…おばさんのこと、覚えてる?」  エリ子さんは太一君に向けて手を広げた。太一君はエリ子さんの元に駆け寄った。   「うん。パパのお友達でしょ?覚えてるよ」  エリ子さんは腰の辺りで抱きついている太一君の頭を優しく撫でた。柊二さんは、エリ子さんに太一君をソファーに座らせるように伝えると、ゆっくりと太一君の前に屈んだ。エリ子さんも太一君の横に座った。  俺は、キッチンでハンバーグの準備を始めた。    柊二さんは、太一君にわかる言葉で話している。自分の父親や祖母が事故に遭ったと言われても全てを理解するには太一君はまだ幼すぎる。ただ、明日母親に会えるということだけは頭にあるのか、柊二さんの話しは落ち着いて聞いている。      エリ子さんは仕事に行った。太一君は夕飯のハンバーグを美味しいと言ってたくさん食べてくれた。それから俺は風呂に入れて、俺のTシャツをパジャマ代わりに着させた。太一君は、女の子みたい、と笑ってベッドに転がった。太一君は安心しきった顔で俺のベッドですぐに眠った。     「柊二さん、さっきはすいませんでした…俺…」 「いや、お前も思うところがあるんだろう。俺たちがどうこう言ったところで、これは赤尾たち家族の問題だ。とりあえず太一は喜んでいるんだから、明日は笑顔で見送ってやれ」 「はい、そうします」  俺はコーヒーを淹れた。柊二さんはテーブルに座ると、俺の顔を見ながら話した。 「聞いたことがなかったが、お前の両親はどうしているんだ?」  柊二さんは、俺にとって一番答えに困る質問をした。マスターは俺の親については柊二さんに話していなかったんだ。 「父親とは、一度も会っていません」 「亡くなったのか?」 「いえ、どこの誰かもわからないんです。母親は誰とでもやる女なんで、母親自身も本当に俺は誰の子供かわからないようです」 「そうか…答えにくいことを訊いてしまったな」  柊二さんはコーヒーを一口飲んだ。   「世の中の男全てにDNA鑑定でもしたら判明するんでしょうけど…たぶん俺には外国の血が入ってると思うんです」 「まぁ、俺のために料理を作って俺の世話をしてくれたら、そんなことは関係ないがな」  この際だから、母親のことも話しておこう。 「俺は、もの心ついた時から母親に、あんたなんか産みたくなかったって言われ続け、俺はどうして生まれちゃいけない子供なんだろうってずっと思っていました。ある程度大きくなったら、その意味も分かるようになって…妊娠に気付いた時は堕ろせなくて、やむなく俺を産んだんだって」 「そうだったのか…今は、お前の気持ちはどうなんだ?」 「どうなんでしょう。産みたくなかったと言われても現に俺は生きてるし、もう、どうでもいいことですよ」  柊二さんは俺をじっと見た。柊二さんのその表情は俺がここに来て初めて見るものだった。俺への憐れみや同情のようにも見えるし、心配そうにも見える。 「俺が小さい頃から母親は売春婦だったんです。今もそうなのかは分かりませんが。俺が中学卒業と同時に母親は俺を知り合いのホストクラブで働かそうとしました。だから俺は家出をしました。母親の金を盗んで、置き手紙をして…何とかなると思っていました。でも、結局、レブロンのマスターに助けてもらった…」 「それからは、会ってないのか?」 「はい、一度も。会いたいとも思いませんし、母親も厄介払いができたと思ってますよ」  柊二さんは、大きく息を吐いた。 「俺は、もしお前が置き手紙一つでここを出ていったら、どんな手を使ってでもお前を捜しまくるからな」  柊二さんは真剣な顔をしている。俺はどう応えたらいいんだろう。俺はただの料理人なのに。 「じゃあ、グラタンのレシピを誰かにちゃんと伝えておかないといけませんね」  少し茶化すように俺が言うと、柊二さんは、バカヤロウ、とだけ言うとまたコーヒーを飲んだ。俺も、さてと、と立ち上がった。 「お風呂のお湯、もう冷めてしまったと思いますから入れ替えてきますね」  俺はそう言って柊二さんの傍を通り過ぎようとした時だった。急に柊二さんに手首を掴まれた。 「研一。俺は本気だ」  俺を見る柊二さんの眼はさっきよりも数倍も恐さすら感じられる真剣そのものだった。手首にも痛みが走る。 「…は…はい。わかりました」  俺の怯えを感じとったのか柊二さんは俺の手を離した。 俺は本気だ、って、どう受け止めればいいんだろう。俺は手首を摩りながら風呂場へ行った。

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