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幼子と抗不安薬〈3〉

 翌朝。早い時間にエリ子さんがやって来た。約束の時間は昼前なのに。  俺は、玄関でエリ子さんを出迎えるとすぐに、昨日、八つ当たりのように言ってしまったことを謝った。エリ子さんは、いいのよ、気にしないで、といつもの優しい顔で言ってくれた。 「ねぇ、太一ちゃん、まだ寝てるかしら?」 「はい。ぐっすりと」 「柊二さんは?」 「リビングでコーヒーを飲んでいますよ」  そう、と言ったエリ子さんの表情が暗くなった。 「柊二さん。朝早くにすいません」 「おう、どうした?」 「実は、ユキちゃんから連絡があって、今日行けないって…」  数秒の沈黙の時間。冷蔵庫のモーター音が耳につく。 「どういうことだ?」 「今、一緒に暮らしている人が、太一君を預かることに反対したらしくて絶対にダメだって言われたようで、明け方に泣きながら電話してきたんです。どうしても預かるのならここを出て行けって」 「つまり、ユキ子は来ないんだな」 「はい…それで新倉が児相に連絡をして、今日の昼過ぎに児相と施設の職員が太一ちゃんを引き取りに来ることのなりました」  何だよ、何なんだ、どういうことなんだ。俺は持っていたトレーをテーブルの上に音を立てて置いた。エリ子さんのコーヒーがトレーの上でカップから溢れた。 「そんな…あんなにママに会えるって喜んでいたのに…酷すぎる。また自分の勝手で捨てるんですか?二回もですよ。預かるって言ったんなら、どうして…」 「研ちゃん…私もね、ユキちゃんがこっちに来てくれたら、二人の生活の面倒はみるから、って言ったんだけど…それでも、ごめんなさい、って電話を切られたの」  俺はトレーの端を握りしめていた。 「研一。太一が起きるから落ち着け」 「…はい。コーヒー入れ替えてきます」  大人の勝手都合で太一君はまた傷付くんだ。二度も母親に捨てられる現実を彼は受け入れられるのか。父親も祖母もいない施設で一人ぼっちになることを受け入れろというのか。酷すぎる。  子供の頃、誰にも声をあげようともせずに諦めていた俺だけど、今なら太一君に手を差し伸べてあげられる。現実を知った太一君に、少しでも寄り添ってあげたい。 「エリ子。赤尾をまだ知らないんだな?このことは」 「はい。新倉もいつ話すのがいいのか迷ってて」 「赤尾のことは、俺に任せろ。児相と施設の職員にはここに来てもらえ。その時は新倉にも立ち会ってもらう。研一、太一には間際までこのことは言うんじゃないぞ。太一のためだ」  俺は黙って頷いた。  柊二さんが出かけ、それから一時間ほどすると、太一君は起きてきた。エリ子さんと俺の姿を見てにっこりしている。 「あら?太一ちゃん、可愛いの着てるわね」 「お兄ちゃんが着ろって。女の子みたいだからヤダって言ったのにさ」 「太一君。昨日の服は洗濯しておいたからね。朝ごはんにするから顔を洗っといで」  太一君は、はぁい、と言った。着替えも済ますと、用意したパンケーキをおいしそうに頬張った。 「お兄ちゃんのご飯って、ぜ〜んぶおいしいね」 「だってお兄ちゃんはコックさんだからね」 「そっか…ねぇ、お兄ちゃん。ママはいつ来るかな」 「はっきりと時間は聞いてないんだよ」  エリ子さんは頷いた。 「太一ちゃん。ご飯が終わったら、おばさんとお散歩に行こうか」 「うん。行く!」  エリ子さんが太一君を散歩に連れている間に、新倉さんが来た。 「…ったく、面倒なことになったな。それで一時半に児相と太一を預かる施設の職員がここに来ることになった。柊二さんに報告したんだが、赤尾にも手術の前に伝えておくそうだ。術後に聞いて暴れると大変だからなって。今ならまだ折れているから動けない。それに施設入所で親の承諾も必要だろうし」 「暴れるって…赤尾さんって、そんな人でした?」 「そうなる時もある。まぁこの先のことを考えると、おばあさんはまだ意識が戻ってないし、赤尾も手術が終わってもリハビリがあるし、太一とすぐには生活はできない。もしユキ子が預かっていたら、太一を返したくないとか言い出すかもしれない。そうなったら赤尾は間違いなく拉致してでも太一を連れ戻す…なぁ研一、数ヶ月だけだから太一には堪えてもらおう」 「そうですね。それしかありませんよね」  四人でお昼ご飯を食べた後、新倉さんは太一君をソファーに連れて行くと事実を伝えた。敢えて何の感情もなく淡々と伝えた。太一君は何も言わない。ソファーで自分の膝を抱えて泣いていた。新倉さんはテーブルに座っているエリ子さんと俺に静かに言った。 「これでいいんだ。見守ってやれ」  一時半になった。時間通りにインターフォンが鳴った。モニターに中年の男性とやや年配の女性が会釈している。  俺は通話ボタンを押して、どうぞ、と言って解錠ボタンも押した。俺は玄関の扉を開けて、二人の職員が来るのを待った。 「こんにちは、はじめまして。ご本人の様子はどうでしょうか?」  柔らかな物腰で、年配の女性が訊いた。   「今朝まで母親に会えると思って楽しみにしてたので…でも今は少しずつ落ち着いてきたように見えます」 「そうですか…では、私たちの方からお話しをしますので、皆さんは少し離れていてくれませんか」 「わかりました」  二人の職員がリビングに入ってくるとテーブルにいた新倉さんとエリ子さんも無言で挨拶をした。 「太一君は向こうのソファーに座っています」  女性職員は、私が話すわ、と言って太一君の元に行った。男性の方は、太一君の荷物を預ります、と言った。 「保育園から来たので、荷物はこれだけです」  俺は、水筒と小さなバッグを渡した。  太一君は、泣き腫らした顔で女性職員の手を掴んで、俺たちの方へ来た。 「嘘つき…」  聞き逃してしまいそうな小さな声だ。 「太一君…」  新倉さんは、俺の肩を掴んだ。 「嘘つき!お兄ちゃんの嘘つき!ママ、今日来るって言ったのに」 「ごめんね、太一君。嘘をつくつもりはなかったんだ」  太一君は女性職員の手を振り解いて、俺のところに来た。俺は跪いた。太一君は俺の肩や胸をおもいっきり叩いた。 「お兄ちゃんの嘘つき!お兄ちゃんのバカ!お兄ちゃんなんか大嫌いだ!嘘つき、嘘つき、嘘つき」  太一君は俺の首筋を掴んで、爪を立てて引っ掻いた。泣きながら俺を睨んでいる。 「ごめんね。本当にごめん…ごめんね」  最後は、うわーん、と拳骨で俺を叩きながら泣いた。今の俺は太一君に何もしてあげられない。泣いて喚いてどうにもならない感情を発散させている太一君を、ただ受け止めてあげることしかできない。  見兼ねた男性職員が、俺から太一君を離した。 「太一君、ダメだよ。お兄さんも辛いんだからね」  太一君は、半ば引っ張られるようにして玄関に行った。 「太一君!皆んな太一君のことが大好きだからねっ!」    玄関の扉が静かに閉まった。

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