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幼子と抗不安薬〈4〉
太一君が出ていった後、俺はその場に座り込んで立ち上がれなかった。
「研ちゃん。首のところ血が出てるわ」
太一君が引っ掻いたところだ。エリ子さんはハンカチを出すと、俺の首を拭いてくれた。少しヒリヒリする。
「研ちゃん…太一ちゃんの気持ち、受け止めてくれてありがとうね」
エリ子さんは、俺を心配してくれている。もう太一君は行ったんだ。新倉さんが言ったように、今は太一君に堪えてもらうしかないんだ。俺はもう子供じゃないんだから、しゃんとしないと…それにこのままだとエリ子さんは俺を抱きしめそうだ。
「エリ子さん。新倉さんが睨んでますよ」
「もう!馬鹿ね、何言ってんのよ」
「ありがとうございます。俺、大丈夫です」
俺は立ち上がると、キッチンに行ってお湯を沸かした。そして、三人分の棒茶を淹れた。
「どうぞ…」
「ありがとう。いい香りね」
「でしょう?落ち着くんですよねこの香り…柊二さんも気に入ってくれてて、毎朝一番にこれを飲んでますよ」
「何だ?お前と暮らして柊二さんはお爺さんになったのか?」
エリ子さんは、もうっ、て笑いながら新倉さんを叩いた。
「エリ子、俺は病院に行ってくる。お前は柊二さんが帰るまでここに居ててやれ」
「そんな…新倉さん、俺なら大丈夫ですって。こうすることが太一君にとって一番よかったって、ちゃんとわかってますから…エリ子さんと一緒に行ってください」
俺は、二人を送り出した。
一人になると、太一君の、嘘つき、って言葉が頭の中で響き始める。嘘を言うつもり、いや、俺は嘘はついていない。太一君の母親は我が子より男を選んだ、その気持ちが変わったんだ。それが、太一君の母親の人生なんだ。
子供は親から無償の愛を受けることができるなんて、子供の勝手な思い込みだ。エゴなんだ。それがわかって俺は誰にも頼らなかった。
女はどうして子供を産むのだろう。何のために産むのだろう。自分と同じ一人の人間を育てる覚悟もないくせに。生まれた子供はどうすればいい。大人になるまでただ時をやり過ごすだけなのか。でも俺は生きている。何のために?誰のために?嘘つきと言われても、俺はこれからも生きるんだろうか。
俺も太一君のように少しは抗えば良かったんだろうか。そうすれば少しは違う生活ができただろうか。いや、どこかに放り出されていたかもしれない。でもその方が、毎日、自分の存在を否定され続けるより良かったかもしれない。
俺は何だったんだろう。未だにわからない。あの母親にとっての俺の存在の意味。俺は生きていてもよかったのか。
太一君を受け止めてあげたいって思った俺は…どこに行ったんだろう。
「お前…薬、飲んだのか?」
テーブルで頭を伏せていた俺は柊二さんに起こされた。
「…え?…ああ…柊二さん、おかえりなさい」
チッ、て柊二さんの舌打ちの音がした。俺は顔を上げて柊二さんを見た。
迂闊だった、と言った柊二さんの顔は、下唇を噛んで片側の頬が引き上がっていた。
「悪かったな一人にして…新倉からお前の様子は聞いていたんだが、赤尾のお袋さんの容態が急変してな、帰るに帰れなかったんだ…お前、薬飲んだんだな?」
どうして薬のことを知ってるんだろう。
「柊二さん、薬のこと…どうして」
「野崎先生から聞いていたんだよ。お前は危ういってな」
知らなかった。
「抗不安薬っていうのか?それを処方したその日に先生から連絡があった。お前には希死念慮があるから注意してやれって。俺もわかっていた。あの時、俺が青酸カリの入った水を飲めって言ったら、お前は何の躊躇いもなく飲もうとした」
あの怪我の往診の時、野崎先生は俺の心の内を見抜いていた。動けるようになったら受診に来なさいと言われた。そして抜糸をしてもらった時に先生に俺の全てを話した。母親が売春婦であること。ずっと精神的虐待を受けていたこと、母親の客を脅して青酸カリを手に入れたこと、ホストクラブで働かせられそうになり中学卒業と同時に家出をしたこと。先生は静かに話しを聞いてくれた。そして、この先、自暴自棄になったり色々考え過ぎて不安になったりした時に、これを服用すると少しは楽になるから、と抗不安薬を処方してくれた。
「俺はあの時…お前を試した。俺を毒殺するつもりだったら抵抗するはずだからな。だが後悔したよ、お前を信じていたのに何で試したんだってな。おまけに大怪我までさせちまった…あの後からお前を注意して見ていたつもりだったのに」
先生は柊二さんに処方後すぐに話していたのか…。
「俺は気付かなかったが、いつも飲んでいるのか?」
「いえ、薬を飲むのは初めてです」
「本当だな。薬はここにあるだけか?」
「はい」
柊二さんは薬が入っている『野崎医院』と印刷されている紙袋を手に取った。
「薬は俺が預かる。不安な時は薬なんか飲まずに俺に頼れ、いつでもお前の傍にいてやるから」
柊二さんは脇を抱えて俺を立たせると俺の部屋に連れて行った。そしてベッドに俺を寝かせると、もう少し奥にいってくれ、と言って、上着を脱いでネクタイを外すと柊二さんもベッドに横になった。
「お前が寝るまでここにいる」
そう言って、柊二さんは腕枕をしてくれた。
恭介さんが言った通りだ。柊二さんは優しい。処方を受けた時からずっと気にかけてくれてたんだ。でも、個人の診療内容を他人に話すのはどうなんだろう。柊二さんと先生の仲だとしてもだ。まぁ、野崎先生も俺のことを心配してのことなんだろうけど。
「なぁ、どうして薬なんか飲もうとしたんだ?」
「太一君に…嘘つき、って言われて…それから色々なことが頭に浮かんできて、考えが止まらなくなって、自分でもどうしていいかわからなくなって…」
「そうか…だがな、太一も本当にお前のことを、嘘つきだなんて思ってるわけじゃない。どうにもならない気持ちを吐き出したいだけだ」
そうだ。あの時俺は、太一君の辛い思いを受け止めてあげたいと思ったんだった。
「これ以上考えるな。太一にもいずれわかる時がくる。いいな?」
「…はい」
しばらくすると柊二さんは思いついたように言った。
「それか、もうこれ以上何も考えられないように、今から俺がいいことをしてやろうか?」
いいことって…ああ、あの時の揶揄いのキスを思い出した。まさか、あの時も何か意味があってやったこと?いや、あれはただのおふざけだ。
柊二さんは少し体を起こして、俺の額に顔を寄せた。一瞬俺は身構えた。またキスをされるんだと思った。柊二さんはそれを見逃さなかった。
「バカ、本気にすんな。冗談だ」
柊二さんは腕枕をしてくれてる手で、俺の頭をポンと軽く叩くとそれから俺の頭をゆっくりと撫でてくれた。こんなふうに誰かに頭を撫でてもらうなんて初めてかもしれない。柊二さんは、ったくお前は、と言いながら頭を撫で続けてくれた。柊二さんの体温と匂いはなんだかとても心地よかった。さっきまであんなに生きていることについて考え巡らせていた俺の頭の中は、そんなことはもうどうでもよくなっていた。たぶん薬と柊二さんのせいだろう。俺はゆっくりと眠りに落ちていった。
夜明け前に俺は目覚めた。柊二さんが横にいた。一晩中添い寝をしてくれたんだ。ベッドスタンドの薄明かりの中、眉間に皺のない柊二さんの寝顔を見ていると、俺の人生に深く関わってくれたのはレブロンのマスターと、そして柊二さんもそうなんだと気付いた。俺は家出をするまでずっと一人だった。でもその後の俺には傍で助けてくれる人がいた。マスターは俺を優しさで包み込んでくれた。柊二さんは、柊二さんなりの情けを問答無用で俺にぶつけてくる。それが柊二さんの優しさだとようやく俺も理解できるようになった。そして、もっと柊二さんを知りたいと思っている。俺からも柊二さんに触れてみようか。
柊二さんはいつシャツを脱いだのかは全く気付かなかったが、俺の頬の下には柊二さんの逞しい素肌の腕がある。俺は柊二さんの裸の胸にそっと手をのせた。
「まだ、早い。もう少し寝ろ」
柊二さんは起きていた。腕枕の腕を曲げて俺の頭を包み込みまた頭を撫でてくれた。そして俺は微睡んでいった。
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