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幼子と抗不安薬〈5〉

 数時間後、柊二さんは、いつものように朝食を食べ、いつものようにコーヒーを飲みながらタブレットでニュースを見ていた。俺がテーブルの朝食の食器を下げようとした時、なぁ研一、と声を掛けられた。そして、夕飯は外で食べよう、と言った。 「それじゃあ、お帰りは遅くなりますね」 「バカ、お前も一緒に食べに行くんだよ」 「えっ…?」 「たまには気分転換も必要だろう。早めに帰るから夕飯の支度じゃなく、お前が出掛ける支度をしておけよ」 「えっ…あっ…はい。ありがとうございます」  柊二さんが出掛けて家のことを一通り終えた俺は、なんだか落ち着かなかった。いつもなら、お茶を飲みながら料理番組を観ているのに、今日は見逃してしまった。  気分転換って…昨日の俺のことを気に掛けてくれてるんだ。柊二さんは一体どこに行くつもりなんだろう。ラーメン屋とか牛丼店とか気楽な店にしてほしいけど…それはなさそうだ。  柊二さんはスーツなんだから、俺もある程度はちゃんとした服にしないといけないよな。俺はエリ子さんに見立ててもらったスーツを着ることにした。人生初めてのスーツだ。でも、ネクタイの結び方がわからない。エリ子さんに言われた通り、柊二さんに聞くことにしよう。    いつもより早く帰ってきた柊二さんは、スーツ姿の俺を見て、驚きながらも微笑んでいる。 「へぇ〜。似合ってるじゃないか」 「馬子にもなんとかって、思ってるでしょう?」 「バカ言え。本当に似合ってるよ」  俺は頬が赤くなるのを感じた。 「俺、ネクタイの結び方がわからなくて…」 「ああ…じゃあ俺もネクタイを外す。結び方は今度ゆっくり教えてやるよ」  出向いた店は、柊二さんの行きつけのまぁまぁ高級な中華の店だった。通された個室には朱色の丸いテーブルがあって、聞き慣れないBGMが流れている。    柊二さんチョイスの大皿の料理が次々と運ばれて目の前で店員さんがサーブしてくれる。いつもと勝手が違って変な感じがした。柊二さんの空の皿を見ると、店員さんが傍にいるのに大皿からいつものように取り入れてしまった。柊二さんは、笑いながら、ありがとう、と言った。家では言ったことなんてないのに。ちょっと嬉しかった。それに柊二さんチョイスの料理は全てとても美味しかった。  食事の後、柊二さんはドライブに連れて行ってくれた。そこは綺麗な夜景が見える高台にある公園だった。街の灯りがキラキラと輝いていた。まるで光の粒を撒き散らしたようだ。外にはこんなに美しい場所があるんだと、俺は初めての夜景に見入ってしまった。  そこは夜景の人気スポットなのか、カップルや家族連れの姿が多く見られた。それぞれが幸せそうな声をあげている。  俺は今は恵まれた生活をさせてもらっている。高級マンションに住み込んで好きな料理の仕事に就いている。  それに比べて、太一君は…太一君は今どうしているんだろう。不安で淋しくて泣いていないだろうか。あの時、泣きながら俺を睨んでいた顔を思い出す。柊二さんにいずれ太一も分かると言われたが、『お兄ちゃんの嘘つきっ!』って、その声がまだ耳の奥で繰り返し響いている。太一君の記憶の中では、俺は一生、嘘つきのままなんだ。仕方がないとはいえ、切ない。二度も母親に捨てられた太一君。決して消えることのないその事実はずっと太一君の記憶に傷として残るだろう。赤尾さんは太一君の心の傷に気付いてくれるだろうか。傷ついた太一君と正面から向き合ってくれるだろうか。俺みたいに心を閉ざしたままで幼少期を送ってほしくない、絶対に。  そして、太一君が来たあの日の夜、柊二さんが言った『俺は本気だ』っていう言葉。あれから深くは考えてなかったけど、柊二さんは本気で俺に店を持たせようとしているんじゃないだろうか。俺もいつかは組のために働かないといけない。それは当然だと思っている。でも俺が店を持ったとして、その店が採算の取れないお荷物な店になってしまったら…俺は用無しになって捨てられるんだろうか。それとも母親がしたように、今度こそホストクラブとかで働くことになるんだろうか。それなら俺はまだ店なんて持ちたくない。  ああ…また考えが止まらなくなっている。柊二さん、頼ってもいい? 「柊二さん…俺、この先も柊二さんの料理人でいてもいいですか?」 「当たり前だバカヤロウ。何言ってんだお前は。さっきから黙っているから夜景に感動でもしてるのかと思ってたら」  柊二さんは強めに俺の髪をクシャッと掴んで、頭を揺すった。 「何考えてるのか知らねぇけど、お前はこの先もずっと俺の料理人だ。わかったか?このバカヤロウ。くだらねぇことグダグダ言っても、薬は返さねぇからな」  俺は静かに頷いた。俺は虚無感には慣れっこだが優しさに満たされるのは、どうもこそばゆい感じがした。  そろそろ帰るか、と言って柊二さんは俺の肩に手をやった。俺はその手にそっと触れた。

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