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キス〈1〉
家に帰って俺は考えた。柊二さんは俺のことを見守ってくれて、心の支えにもなってくれる。じゃあ俺は柊二さんに何ができるだろう。でもお返しに俺も柊二さんを見守る…なんてのは絶対にいらないだろう。
それなら、と俺は思いついた。見守るんじゃなくて、願おう。柊二さんが一日の仕事を終えて無事に家に帰って来てくれますように、極道の世界っぽく切り火を切る。といっても火打ち石も持ってないから、頬に二回、口付けをする。チュッチュッ、て。たぶん嫌がられることはないだろう。
よし、早速、明日の朝から切り火キスだ。
◇◇◇
いつもの朝が、緊張の朝になった。タイミング的には、玄関で見送る時がいい。
柊二さんはコーヒーを飲み終えて、ネクタイを締めて上着を着た。そしてリビングから玄関に向かった。今だ。
「あの、柊二さん…」
「ああ?何だ?」
「あの、昨夜はありがとうございました。それに、いつも俺のことを見守ってくれていてありがとうございます」
「ああ…どうしたんだ?急に」
柊二さんは不思議そうにしている。
「俺も、柊二さんが安全に一日を終えて、無事に帰って来てくれますように…」
俺は少し背伸びをして、柊二さんの頬にわざと音を立てて二回口付けをした。
「切り火の代わりです」
柊二さんはそれほど驚きもせず、薄っすら笑った。
「お前、よくそんなの知ってるな」
「時代小説をよく読んでいましたから」
「そうか…ヤクザは、験を担ぐのが好きだからな。これから毎日欠かさずにするんだぞ」
「はい…もちろんです。気をつけていってらっしゃい」
よかった。気に入ってくれたみたいだ。
その日の夜、柊二さんは帰ってくると、無事に帰ってきたぞ、と言いながら俺の唇にキスをした。俺が、お帰りなさい、と言う暇も与えずにだ。
「えっ…キスって…どうして」
「お前、今朝、切り火を切っただろうが…だから、無事に帰ってきたぞ、って言ったんだ」
それはわかるけど…切り火キスにお返しキスなんて予想外だ。
「何だ、俺からのキスは嬉しくないのか…なら、今日限りにする」
突然のキスで固まった俺を見た柊二さんは不機嫌な顔になっていった。俺がキスを嫌がったと思ったみたいだ。毎日の習慣のようにさらりと自然にキスをされるなんて、本当に思ってもみなかった。
柊二さんは俺に背中を向けると大股で自分の部屋に行こうとした。その背中は間違いなく怒っている。俺は後ろから柊二さんのスーツの裾を掴んでそして渾身の力でもってその背中にしがみついた。
「おい、スーツが皺になるだろ」
柊二さんは俺のしがみつきにも興味は示さずぶっきらぼうに言った。
「後でスチームかけます」
「俺は腹が減ってるんだ」
面倒くさそうに言う。
「もう用意はできています」
「ったく…だから、何なんだ?嫌がったくせに」
柊二さんは俺の手を掴んだ。振り払うわけではなくその手には少しだけ優しさがあった。俺はホッとする。
「違います!だって、帰ってきてすぐにキスなんて今までなかったから…驚いただけなんです」
柊二さんは、はぁ、と投げやりな感じで一息吐き出すと俺の方に体の向きを変えた。そして俺の顔を見下ろす。まだ、顔がちょっと怖い。
「出来れば、お帰りなさいを言った後でしてもらえると…なんて、我儘ですか?」
「…ったく。わかった、明日からはそうする」
柊二さんの声と表情は柔らかくなった。そして俺の肩を掴んで言った。
「だが、俺が帰ったら、お帰りは、さっさと言うんだぞ。俺は玄関を開ける前から、ウズウズしてたんだからな」
俺とのキスをそんなに待ち侘びてたなんて、柊二さんはたまに俺の心のど真ん中に矢を放ってくる。
翌朝も、俺は験担ぎの切り火キスをした。そして柊二さんが帰宅すると戸惑うことなく柊二さんのお返しキスを受けた。
そして、それは当たり前の日常のことになっていった…のだが、柊二さんのお返しキスは日に日に長くなる一方だ。最近は唇どころか、続きで首筋まで唇を這わしてくる。このままだと、何をされるか分かったもんじゃない。
今日もようやく唇を離した柊二さんに俺は言った。
「柊二さん、最近長くないですか?」
「何がだ」
唇を離しても、柊二さんの手はまだ俺の頬にある。
「柊二さんが帰ってきた時のキスです」
「はぁ?キスじゃねぇよ。無事に帰ってきたぞっていう報告だ。色々あった日は報告が長くなるもんだろうが」
なんていう屁理屈だ。俺はそれ以上言うのは止めて、鼻に皺寄せて唇を尖らせて変顔で応えた。
どうも俺は柊二さんの手の上で上手く転がされている。あの時、怪我をしたその夜も、座って見守りしてもらうのも大変だと思って、一緒に寝てください、って言って、そしてキスで揶揄われた。今回も過度な不安で服薬してしまった俺を抱きしめてくれて、食事に連れて行ってくれた。そのお礼のつもりの切り火代わりのキスが、こんなことになってしまった。俺が蒔いた種には違いないが。
柊二さんは笑いながら俺の鼻を摘むと、飯にしてくれ、と言って部屋へ着替えに行った。
柊二さんは俺をどうしたいんだろう。俺は料理人であり、お世話係だ。柊二さんは俺に何を望んでいるのだろうか。そうだ…あの時は踏み込めないと思った『男色』と言う言葉が浮かんだ。
もし、そうだとしたら、どうするんだ?キスは毎日の習慣になっているが、それ以外は想像もつかない。本人に訊くわけにもいかないし…でも冗談っぽく訊いてみるとか…。
『柊二さんは男色家ですか?』なんて…。
ああでも、訊くのはやめておこう。柊二さんは、懐が深い割には、俺に関しては沸点が低い。ちょっとしたことで機嫌を損ねてしまう。男色のことはもうしばらくは保留だ。
柊二さんは部屋着に着替えたようだ。今日の晩ご飯は久し振りに作ったグラタンだから、寝るまで機嫌はいいだろう。
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