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キス〈4〉

 翌朝、アサリご飯と蓴菜の清汁は好評だった。柊二さんは、研一が作った料理はどれも俺の口に合う、と言ってくれた。美味しいと言われるより嬉しかった。    柊二さんが出かけた後、新倉さんから電話があった。カンジが昨日のことを謝りに行きたいと言ってるから今から行かせていいか、と訊かれた。俺は迷った。カンジさんのことだから、どうせ言い訳を並べ立てるだけだ。それに、麗蘭さんの愚行も思い出したくもない。今はここには来ないでください、と俺はきっぱりと言った。今回ばかりは、何でも許す優しい研一にはなれなかった。料理を汚されただけではなく、料理を通しての柊二さんへの気持ちを嘲り踏み躙られた。そうなることは想像できたのにカンジさんは麗蘭さんを連れて来た。脅されてたとしても、すぐにいつものような態度はとれない。    新倉さんもわかってくれた。麗蘭も二度とそこには行かない、と言った。今回ばかりは麗蘭さんもオヤジさんに叱られたらしい。新倉さんが、組員代表でオヤジさんに進言したんだろうか。      その夜、柊二さんはいつもの時間に帰ってきた。  夕飯のグラタンを食べた後、柊二さんはご機嫌だった。今晩も一緒に風呂に入るぞ、と言った。切り火キスのように風呂も毎日のことになるんだろうか。今日は一体何をされるのかとドキドキしながら風呂場に入った。普通に柊二さんの背中を流して俺も洗身し終わると、二人でお湯に浸かった。   「今日はキスはなしか」  柊二さんが言った。えっ、キス待ちしてたのか?   「昨日のは誕生日プレゼントなんで」 「じゃあ、一年に一度だけなのか?」  何だ?残念がってるのか?   「いえ、まぁ…その、月に一度くらいなら」 「はぁ?仏さんの月命日じゃねぇんだぞ」    俺は笑ってしまった。月命日だなんて…。  その笑いが柊二さんの機嫌を損ねてしまったみたいだ。柊二さんは、ザバッと浴槽から立ち上がった。ああ…怒っている。   「待ってください」 「うるさいっ」 「まだ…その、俺、百まで数えきれていないんです…だからもう少し一緒に浸かってください…お願いします」  咄嗟にとはいえ、百まで、なんてことをよく言えたもんだ。俺のくだらない言い様に、柊二さんは、ふん、と鼻息を荒げて、俺に湯がかかるのも気にせずに、またザブンと湯に浸かった。  毎朝の切り火キスは、それなりの意味があってしていることだけど、風呂に入ってキスするのってどうなんだ。いいお湯加減ですね、ってキスをするのか?変だろ。それかジャンケンをして勝った方がキスをしましょうか、なんてな…そんなことを言ったら絶対に浴槽に沈められるだろうな。じゃあ、今日も俺からするか…。  機嫌が直るかわからないが、俺は言ってみた。 「あの、お願いです。目を瞑ってください」 「はぁ⁈バカ言え。ヤクザは寝ている時も目は開けてるんだ。簡単に瞑れるか。だいたいどうして瞑らないといけない」 「だって…見られてると恥ずかしいんです。じゃあ俺が瞑ります。柊二さんの顔を少し触らせてくださいね」  俺は柊二さんの両頬を手で挟むと、親指で唇の位置を確認して唇を近づけた。 「誰がキスをしてもいいと言った」  柊二さんは俺の後頭部の髪を掴んで引っ張った。俺は驚いて目を開けた。完全に拗らせたようだ。これじゃあただの駄々っ子じゃないか…。  柊二さん的には、言われて仕方なくのキスは許せないんだ。風呂に誘われた時点で、今日もキスしてもいいですか?って言うのがきっと正解だったんだろうな。  どう言ったら機嫌が直るのか…とにかく今は俺の気持ちを正直に言うしかない。俺は浴槽の中で柊二さんの方を向いて正座をした。 「あの、俺、何もかもが初めてなんです。キスもそうだし、裸を触られたり、チンコ握られたり。だから…本当どうしていいかわからないです」  タプタプと揺れる湯面を見ながら言った。 「でも、嫌じゃなかった…それは信じてください」  柊二さんは、バカヤロウ、って言うと、俺の腕を掴んで自分の方に引き寄せると、力強く俺を抱きしめた。  柊二さんの、バカヤロウ、は俺には優しい言葉に聞こえた。  そして、柊二さんは昨日より少しだけ優しいキスをしてくれた。  ◇◇◇    一緒に風呂に入るのは日課になるかなと思っていたが、あの後、柊二さんから風呂に誘われることはなくなった。  仕事も忙しいのか帰りが遅くなる日が多くなっている。柊二さんは、先に飯食っとけ、とは言うが、先に風呂入っとけ、とは言わない。一緒に風呂に入りたいのかな…。    俺監修の『柊二さんの取説』を探ると、俺から声をかけるのがいい、と書いてある。  柊二さんお疲れ様です、背中を流しましょうか?とか言ったりして…これがいいんだろうな…たぶん。    よし、俺は三助になるぞ。  心を決めたその日、柊二さんは少し早めに帰ってきた。   「おかえりなさい。お疲れ様です」  柊二さんは俺の後ろ首に手を回すと、俺を引き寄せて、もはやお返しキスではなく長めの報告キスをした。 「ご飯とお風呂、どちらにします?」 「ああ、先に飯にしてくれるか?」    食事中、俺は妙にぎこちなくなっていた。やっぱり誘うタイミングは食後のコーヒーの時に言うのが自然だろうな。  柊二さんは、今日も美味かったよ、と言って平らげてくれた。 「あっ…あの…この後…」  背中を流しましょうか?だ。簡単な言葉だ。   「うん?…何だ?」 「あ〜っと、そうだ、コーヒーでも淹れましょうか?」  柊二さんは俺の言い様に首を傾げている。 「そうだな…お茶の方がいいかな」  俺は、唐子人形がついた湯呑みに、柊二さんも好きな棒茶を入れて出した。 「あ…の。柊二さん」  俺は、上目遣いでチラチラと柊二さんを見た。 「だから、さっきから何なんだ?言いたいことがあるんだったらはっきり言え」  俺は、一度深呼吸した。 「あの…あの、よかったら、お背中流しましょうか?」  俺は緊張のせいで台詞のように棒読みになってしまった。  柊二さんは無表情で数秒ほど俺の顔を見ると、声を立てずに笑い出した。 「ああ、そうしてくれるか?」 「…は、はい」  柊二さんはお茶を一気に飲み干すと風呂場へ行った。  自分から言っておいて今更だが、俺は柊二さんとどうしようと思ってたんだ?あの時の柊二さんの股間の雄姿が目に浮かんでしまった。まずは背中を流す。それが目的なんだから。で、後は柊二さん次第にしておこう。    柊二さんの背中の創は何度見ても、俺の目を奪う。創を負った時はどうだったんだろうと想像してしまう。今はもうすっかり瘢痕化してるその創を俺は指でなぞった。 「気になるか?その創」 「よく、生きてられましたね」 「そう深くは無かったからな」 「でも、かなりの痛みはあったでしょう?」 「まぁ、その時はアドレナリンが出てたから痛みは感じなかった。創が引っ付いた後に野崎先生に抜糸されたのが一番痛かったよ」  柊二さんは懐かしむように笑った。  激しいキスをしてくる柊二さんより、こんな風に穏やかに話しをしてくれる柊二さんの方がずっといいな、と思えたのも束の間のことで、柊二さんは椅子の上で身体の向きを変えると俺の顎を掴んでニヤついた。 「で、今日は、どういうつもりなんだ?」 「どう、って?」 「だから、背中を流す、って言ったお前の真意は何だって訊いてんだよ」  どう言えばいい。もし、柊二さんがお望みならキスやその他の行為はお任せします、なんて言えないし。でも、嫌じゃない、と言ったのは嘘じゃない。じゃあ、キスしてくださいか?それともキスしてもいいですか?どっちが正解なんだ?いや、キスをしないといけないのか? 「俺は、お前をデリヘル代わりにしようなんて思ってないからな」  柊二さんは立ち上がって浴槽に浸かった。  デリヘル…?初めて聞く単語だ。 「あの…デリヘル…って何ですか」  柊二さんは、ああ…と言って浴槽の湯を手で掬うと顔にバシャッと掛けて擦った。 「今ここで教えたくはないが…ったく、お前はどこまで純粋培養種なんだ?」 「………」  柊二さんは、こっちに来い、と言って俺の腕を掴んで浴槽の中に引っ張り込むと湯の中で自分の胸に俺をもたれさせた。 「こうしてお前と肌を触れ合わせるのが、俺の目下(もっか)の癒しなんだよ」  そう言って柊二さんは俺を抱きしめた。その力の強さは身動きすら取れないくらいだ。捕縛のようにも思えるその行為は何故か俺には包み込まれるているように思えた。俺は力を抜いた。柊二さんに体を預けるようにして柊二さんの肩に頭をのせた。俺は風呂場の天井を見ながら言った。 「俺も…俺も何だろう…俺自身の気持ちが柔らかくなるっていうか…人と肌を合わせるって、こういうことなんですね」  柊二さんは少し腕の力を緩めて、俺の首筋に唇を這わした。 「柊二さんから風呂に入るぞって言われたら、どうしていいのかわからないけど、俺から背中を流しましょうか、って言えば…その、背中を流した後は…柊二さんが…えっと…」  柊二さんは俺の頬を撫でると、その後は俺に任せていいんだな、と言った。少し齟齬はあるが俺は小さく頷いた。そして柊二さんは、フッ、と笑いを漏らすと、俺の顔を横に向けてそっと唇を寄せた。これまでの中で一番優しいキスだった。でも俺には性的な興奮はない。だから今日も勃たせようがなかった。  俺の股間のモノはいつまでも湯の中でユラユラとしていた。それを見た柊二さんは苦笑しながら軽く握った。 「お前のその性欲欠如はどうにかならねぇか?…俺は男として自身を失いそうだ」  柊二さんは、今日も俺を先に上がらせた。  柊二さんと裸で触れ合っても股間に反応はない。ただ心がほんわかする。子供が親に触れられても性的な喜びは感じないように、たぶん俺はその感覚に近いんじゃないかと思う。  柊二さんのことを父親とは思わないが、俺には根本的にスキンシップから始まる心の形成ができていないんだと思う。触れられることで心が満たされて自分にも他者にも向けられる愛みたいな、そういう感情が俺には皆無だ。    でもそのうち、柊二さんの肌撫でも、いつか性的に気持ち良くなる時がくるんだろうか。

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