35 / 55
愛〈1〉
柊二さんと俺は朝と夜にキスをして、ほぼ毎日一緒に風呂に入って、そこでまたキスして裸で抱き合って…やってることは男色だよな。未だに俺は勃ってないけど。でも、柊二さんに抱きしめられると安心する。柊二さんが癒しといったように俺も心が落ち着く。いや、俺の心に落ち着く以上の感情があるのも確かだ。
恭介さんがもし今の様子を知ったら、したり顔で、ほらね、とでも言うだろうな。
◇◇◇
いつもの昼過ぎ。夕飯の献立を考えていると、柊二さんが慌ただしい様子で帰ってきた。俺は何かあったと咄嗟に身構えた。
「研一、お前のお袋さんが亡くなったらしい」
えっ……?
母親の訃報を知らせるために、柊二さんはわざわざ帰ってきてくれたようだ。
俺の母親が朝パートに行く途中、交通事故に遭って亡くなったと、レブロンのマスターから柊二さんの会社に連絡があったらしい。事故後、警察は唯一の身内である俺の行方を探そうと卒業した中学校に連絡をした。そして俺の同級生からレブロンで働いていた俺を見かけたと聞き、マスターに連絡をしたみたいだ。
コンビニの駐車場から出ようとした、よそ見運転の高齢者の車と母親の自転車が出会い頭でぶつかり、慌てた高齢者はブレーキとアクセルを踏み違え、母親は車の下敷きになった。ほぼ即死だったそうだ。
柊二さんは真剣な顔で説明をしてくれているが、俺はその言葉が何を意味しているのか、すぐには理解できなかった。俺の心はまるで明日の天気予報でも聞いているかのようだった。たぶん俺は柊二さんとは対照的に何の感情も浮かべず能面のような顔をしていたんだろう。
「おいっ!研一。聞いているのか?」
柊二さんは俺の肩を揺すった。
「ええ…聞こえてます」
「研一、今から病院に行ってお袋さんに会ってこい」
どうして…どうして会わないといけない?
「どうして?……柊二さん、俺は行きません。あの人には息子なんていませんから。それに、行ってどうするんです?遺体の引き取りなんて、まっぴらごめんですよ」
母親の親族もどこにいるのかもわからない。まして墓の場所なんて知りようもない。俺の頭はことを把握すると冷静になっていく。心の中は頭よりも更に冷ややかになっていく。
「柊二さん、すいませんが俺のことは放っておいてください。柊二さんには関係のないことだ。俺を産んで心底後悔してる奴に、どうして会って別れを言わないといけないんですか」
「それでも、お前を産んだ人だ」
柊二さんは俺を壁に押し付けた。
「いいから、一目だけでも会ってくるんだ。灰になってしまう前に。辛くても会うんだっ!研一」
柊二さんの真剣な眼差しは、俺の心の奥底を抉ってくる。俺は柊二さんと目を合わすことができない。俺は懸命に足掻こうとして柊二さんの襟元を掴んだ。俺の冷静さは崩れてしまいそうだ。
「嫌です。絶対に嫌だ。あんな奴に今更会いたくもない。柊二さんに言われても、俺は会いたくないっ」
柊二さんは俺の必死な言い様にも、全く耳を貸さない。今更、会ってどうなるっていうんだ。しかも、もう遺体だ。
「研一…最後なんだから。お前を産んだ人なんだぞ」
そんなことはわかっている。嫌と言うほどわかっている。だから俺はその繋がり、その存在を消したかったのに。
柊二さんは、ずっと閉ざしていた扉を開けようとしている。俺の深淵、答えのない疑問だらけの深い沼。
どうして俺は生まれたことを否定され続けてきたんだろう。一体俺の何がいけなかったんだろう。どうして俺は愛してもらえなかったんだろう。一体俺の何が……もう、考えたくもない。
「研一。お前は本当はお袋さんに愛されたかったんだ。叶わないことだってわかっていても、お前は愛してもらうことを望んでいた。そのことを認めるんだ、研一」
俺の、俺自身もその存在すら疾うに忘れていた深甚なる唯一の希。それを暴こうとする柊二さんを俺は睨んだ。
今更、それを認めてどうなるっていうんだ。あの家を出てから、いやそれまでも俺はそんな馬鹿げた想いは心の奥底に追いやり踏み固めてきた。それでよかったんだ。
柊二さんは、真正面から俺を見据えた。
「研一、これからは俺がお前を愛してやる。この俺がお前を愛してやる…だから本当の自分に向き合え。どんな時も俺がお前を愛してやる」
俺は壁にもたれながらその場にくずおれた。心の中の何かが解けて溢れて出そうとしている。自分では理解できない感情の波が俺を押し流そうとしている。俺は柊二さんの足元に縋り付いて声を上げて泣いた。脱水症状になりそうなくらい涙がとめどなく溢れ出る。何年分の涙だろう。
柊二さんはゆっくりと屈み俺の背中を優しく摩った。そして力強く俺を抱きしめてくれた。
「研一。会ってこい」
俺は、憑き物でも取れたように、素直に頷いた。
「新倉に車を回させるから。いいな、お前を産んだお袋さんの顔をしっかりと見てこい」
柊二さんは俺の頭を優しく撫でてくれた。
病院に向かう車中で、俺は母親の顔を思い出せずにいることに気付いた。別れてまだ十年余りのことなのに、無意識に記憶から消してしまっていたようだ。
新倉さんはルームミラー越しに心配そうに俺の様子を見てくれている。俺は、知らず知らずに色々な人から優しさや慈しみを受けていた。
病院に着くと、既に診察の時間は過ぎていたため総合受け付けはシャッターが下ろされていた。『時間外受け付』と矢印が示しているカウンターに行き、霊安室の場所を訊いた。
中から事務職員らしき人が出てきて、俺の素性を確認すると母親が居る霊安室へ案内をしてくれた。
母親は寝台の上にシーツを掛けられた状態で安置されていた。こんな顔だったっけ、というのが俺の率直な感想だった。俺は、心の中であっても母親にかける言葉はなかった。全くの『無』だ。なんの感情もなくただ見ていた。
柊二さんに、お前は愛されたかったんだ、と言われて俺も認めたが、母親の前でだけはそれを認めなかった。これまでと変わらず、今、俺の中にあるのは嫌悪感だけしかない。それは俺の十五年分の細やかな復讐だった。
そして、霊安室を出ると、そこに案内をしてくれた職員とはまた別のやや年配の女性職員が書類を持って立っていた。俺を見るなり、書類を差し出しながら言った。
「この度は、ご愁傷様でございます。これからのお手続きをお話しさせていただきたいのですが」
「すいません。俺は息子ですが遺体を引き取るつもりはありません」
その女性職員は俺の意外な言いようにたじろいでいた。
「ですが、お身内は息子のあなただけですよね」
「それでも、引き取りません。母親が居た地区の行政にお任せします」
「でしたら、この先お母様がどこに埋葬されたかなどの詳細はお伝えできませんよ」
女性職員は気色ばんだ。薄情な息子だ、とでも思っているのだろう。
「それで、結構です」
俺は新倉さんに、行きましょう、と声をかけて病院を後にした。
駐車場に行く途中、新倉さんは俺の肩に手をやって言った。
「お袋さんの顔、ちゃんと見たか?」
「はい。普通の人でしたね」
「普通…?」
俺の、率直な感想だった。駅前のスーパーとか商店街にいる本当にどこにでもいる女だ。売春を生業にしてたなんて誰も信じないだろう。
「はい。俺の勝手な想像というか…もっと下卑た顔をしているかなと思ってたんですけど」
「死んだ人を悪く言うもんじゃない」
新倉さんは、小さく溜め息を吐いた。
そうだ。母親の人生はもう終わった。あっという間だったのか、暗くて長いトンネルのような人生だったのか。母親にも人並みの幸せとかを感じることはあったんだろうか。
「あの人は、一体誰を愛してたんでしょうね…」
「そうだな。もうわからないことは考えるな」
「そうですね…」
新倉さんは優しい。息子の俺を愛してた、なんてありきたりなことは言わない。俺を傷付けるとわかっている。
「新倉さんって、優しい人ですよね。エリ子さんがゾッコンなのもよくわかります」
「はぁ?大人を揶揄うんじゃねぇ。百万年早いんだよ」
新倉さんはそう言って目尻を下げながら、俺の頭を小突いた。
夜遅くに柊二さんが帰ってきた。
柊二さんは、あれからまた会社に戻ったみたいだ。最近は特に帰りが遅い。会社が大変なんだろうか、柊二さんは仕事のことは俺には一切言わない。多忙なのに母親の訃報を俺に知らせるために帰ってきてくれたんだ。
「柊二さん、お帰りなさい」
「ああ、ただいま」
柊二さんはいつもと変わらず俺にキスをした。
「お袋さんの顔、ちゃんと見たか?」
「はい…見ました」
「そうか…ならいい」
柊二さんはネクタイを外しながら、はぁ、と息を吐いた。俺は柊二さんの上着を受け取って、傍の椅子の背もたれに掛けた。俺は、柊二さん、と言って話し始めた。
「正直、母親の顔を見ても何も感じませんでした」
柊二さんは、俺を見て、仕方ないだろう、と言った。
「でも…でも今はそうでも、この先、何年、何十年経った時に、やっぱり見ておいてよかったって思える日が来るまで、俺、柊二さんの傍にいてもいいですか?あの時背中を押してもらってありがとうございました、って…俺、柊二さんに伝えたい」
俺は柊二さんに抱きついた。
「ああ、いつまでも俺の傍にいてくれ」
俺は柊二さんに心からのキスをした。
ともだちにシェアしよう!

