37 / 55

再び逃行〈1〉

 朝早い時間、柊二さんのスマホの着信音が鳴った。柊二さんはスマホを手に取って画面を見ると、急に険しい顔になった。 「もしもし、俺だ」  柊二さんは上体を起こすとベッドに腰掛けた。  ああ、それで、と言う柊二さんの声は何か焦っているように聞こえた。仕事か何かでトラブルでも起きたのだろうか。恐らく電話の相手は新倉さんだ。 「わかった。できる限りの手はずを頼む。俺も今からすぐにそっちに向かう」  手はずを頼む、って…まさか組同士で抗争? 「研一。俺は今から会社に行く。トラブルだ」  柊二さんは、裸のまま俺の部屋を飛び出た。階段を駆け上がる音が聞こえた。俺もすぐにパジャマを着るとキッチンに行った。ご飯なんて食べる暇もないだろうから、せめてコーヒーだけでもと急いで用意をした。  柊二さんはスーツに着替えるとネクタイを持ってキッチンに来た。 「柊二さん、余計なことかもしれないけど…これを飲んで、少し落ち着いて下さい」  俺は、氷で冷ましたコーヒーを渡した。 「ああ…そうだな。ありがとう」  柊二さんは一気に飲み干すと、俺の顔をじっと見た。 「研一。今晩は帰れないかもしれないが…必ず連絡する」  柊二さんは、そう言い残して出ていった。    切り火キス……できなかった。  柊二さんか出ていった三十分後くらいに、新倉さんから電話がかかってきた。 (研一か?今すぐ荷物をまとめろ。必要最低限の物だけだぞ) 「わ…わかりました」 (今からすぐにマンションに行く)  新倉さんの声も焦っていた。一体何が起きているんだ。俺は言われた通りに、エコバッグに貴重品と五冊の柊二さんノートと、それから唐子人形の湯呑みをタオルに包んで入れた。俺もここを離れないといけないんだ。俺も落ち着かないと。  インターフォンが鳴った。新倉さんだ。 「研一。お前を巻き込むつもりはなかったんだが、事態が急に変わったんだ」  新倉さんは、エコバッグを肩に下げた俺の傍に来た。 「お前…」  俺を見て、新倉さんは黙った。そして明らかに悔しそうな顔をした。 「お前…やっと…やっと柊二さんのことを受け入れたんだな……なのに、こんな時に」  えっ…新倉さん。今、何て…。  俺が驚いて新倉さんを見ると、俺の首筋を指差して言った。 「柊二さんの印が、たくさん付いているぞ」  あっ…そうか。柊二さんは俺の色んな箇所に吸い付いていたっけ。  新倉さんは、ほら、これでも巻いておけ、と言ってポケットからグレーのハンカチを出して、俺に渡した。    今は恥ずかしがっているいる場合じゃない。俺はお借りします、と言って首元が隠れるようにハンカチを巻いた。この印は大切な愛の印なんだ。人目に触れないようにしよう。   「研一、今から言うことをやってほしい」  新倉さんは、小さなプラスチックのタグが付いた鍵を俺に渡した。 「それは駅の東口のコインロッカーの鍵だ。そこにスマホと黒い鞄が入っている。その鞄の中に大きめの封筒と、それと同じ大きさの箱が入っている。封筒の方は郵便局で速達で出してほしい。宛名は書いてある。で、箱の方は宅配便で、できればコンビニとかではなく、営業所に持ち込んで出してほしいんだ」 「わかりました。送り先はどこに」 「ああ、箱にメモが貼ってある」  俺は頭の中で言われたことを復唱した。 「ロッカーから荷物を取り出せたら、中のスマホで俺に連絡をくれるか?俺の番号は入れてある」  俺はしっかり頷いた。 「じゃあ、もうすぐカンジがここに来る。そうしたら、カンジと入れ替わりでお前はここを出てくれ。お前のスマホは悪いがここに置いて行ってくれ」  俺のスマホは処分されるんだ。写真や思い出になるようなモノは入ってないから、別にいいか…。  新倉さんは、頼んだぞ、と言って出ていった。  その数分後、またインターフォンが鳴った。カンジさんだ。今日は真剣な顔をしている。   「研一、心配すんな。柊二さんは絶対に捕まらない」  玄関に入るなりカンジさんは言った。柊二さんは警察に追われているのか? 「カンジさんっ…柊二さんは警察に追われているんですか?」 「えっ…あ…そういうのでもない…とにかくお前はここを早く出ろ」  俺はエコバッグを持って新倉さんから預かった鍵をポケットに入れたのを確認して、ここの鍵と俺のスマホをカンジさんに渡した。 「研一、今まで色々ごめんな。元気でな」 「カンジさんも、気をつけて」 「おう、サンキューな。そうだ、研一、マンションを出ても辺りをキョロキョロして歩くんじゃないぞ」  …ったく、カンジさんじゃないんだから。  俺がマンションのエントランスを出ると、数台の車がマンション前の道路に停まった。車の中から物々しい雰囲気の男たちが出てきた。俺はそれをよそ目に、マンションから離れた。  今のは警察ではなかった。となると個人宅に捜索とかができる権限を持つ他の機関は…。  俺は角を曲がると小走りで駅に向かった。  東口のコインロッカーには、新倉さんが言った通りの物が入っていた。俺はロッカーのスマホで新倉さんに連絡をした。ワンコールで繋がった。 「あっ…研一です。今、ロッカーから荷物を出しました」 (そうか、早かったな。じゃあ、郵便局が開いたら封筒の方を速達で頼む。で、箱の方も…) 「はい。ここから少し離れた所に営業所がありますから、もう少ししたら直接持っていきます」 (面倒かけてすまないが…頼むな。それと、隣りの駅前のビジホ…茶色と白の縦縞の建物だ、そこにお前の名前で予約を入れてある。十五時になったらチェックインをして、部屋に入ったらまた連絡をくれ。それまでは、映画館とか人目につかないところで時間を潰していてくれるか) 「はい、わかりました。じゃあ、ビジホの部屋に入ったらすぐに連絡をします」  俺はスマホ画面の時間を見た。まだ宅配の営業所も郵便局も開いていない。今頃マンションではさっきの男たちが部屋の中を捜索しているだろう。十中八九国税の査察だ。麻薬関係ではないだろう。柊二さんの会社もおろらく同時進行のはずだ。  今俺が預かったこの荷物は、恐らく何らかの証拠品だろう。封筒は裏帳簿的なもので、箱はノートパソコンか…。カンジさんは上手く乗り切れるのか…余計なことを言わなければいいんだけど。それにこの荷物も出来るだけ早く安全な場所に届けないといけない。郵便は差出人の名前もなく宛先もわからなければ追跡は困難だろうけど、宅配便は受託した営業所と俺の人相風体が分かれば、荷物を追跡して取り押さえも即可能だろう。  そうだ…それなら、俺が直接運べばいいんだ。業者といえど他者を介在させるのは危険だ。俺は箱に貼ってある送り先の住所を見た。在来線でターミナル駅に行きそこから特急に乗れば、往復しても十五時には戻って来れる。郵便局も降りた駅で探せばいい。    俺は改札に向かった。  ホームで缶コーヒーを買って、俺は特急列車に乗った。今から向かう場所のその先には温泉の観光地がある。平日でオフシーズンなのもあって列車内は空いていた。俺は鞄を抱きしめながら、車窓から見える景色を眺めていた。徐々に街の風景から田畑や点在する農家に移り変わり、そして山間部を抜けるとようやく目的の駅に着いた。  列車を降りると空気が違っていた。空気が美味しいと感じたのは初めてだった。思わず何度も深呼吸をした。  俺は、公衆電話から送り先のメモに書かれてある、藤澤鉄平さんの電話番号にかけた。こんなヤバい荷物を受け取る藤澤さんって、柊二さんや新倉さんと、どんな間柄なんだろう。やっぱりヤクザなのかな。 (…はい)  ワンコールで繋がった。なんだか怪しまれている。 「突然の電話ですいません…あの、藤澤さんですか?」 (はい、そうですが…) 「新倉さんってご存知ですか?」 (…えっ⁈…あんた誰?) 「すいません…俺は須貝といいます。藤澤さん宛の荷物を宅配便で送るように新倉さんに言われていたんですが、直接持ってきました。それで今、最寄りの駅前の公衆電話からかけています」 (えぇっ⁈…持って来たって?) 「はい。ご足労おかけしますが駅前まで来て下さいませんか?」 (ああ、わかった。じゃあ駅前に赤煉瓦っていう喫茶店があるから、そこで待っててくれるかな) 「わかりました。あの、俺は藤澤さんのお顔がわかりません。俺は細身で白いシャツを着ています。襟元にグレーのハンカチを巻いています。俺を見つけたら合言葉として、レブロン、と言ってください。大事な荷物なのでご協力お願いします」 (了解、レブロンね。支度したらすぐに行く。少し待ってて)  電話を切ると、俺は赤煉瓦という喫茶店を探した。駅舎の前の道路の向こう側に、赤煉瓦の文字を見つけた。道路を渡って店の前に行くと、残念なことに扉には『定休日』のプレートが掛かっていた。

ともだちにシェアしよう!