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別離〈1〉

 しばらく、柊二さんは眠った。俺はじっと柊二さんの顔を見ていた。俺を愛してくれて、俺が愛した男の顔を。もうすぐ本当の別れがやってくるなんて、今こうして弱々しい本人を目の前にしても信じられない。柊二さんと過ごした濃密な時間だけを支えにして、俺はこの先もやっていけるのだろうか。      さっきまで、穏やかだった柊二さんの呼吸が変わった。 「柊二さん。大丈夫?…苦しいの?」  柊二さんはゆっくり目を開けた。 「研一…愛してるぞ」  急に愛を伝えてくれた柊二さんの声は、さっきと違って掠れていた。俺は血の気が引いていくような感じがした。その時が近づいているのかもしれない。 「俺は…仕事終わりに、たまたま入ったレブロンで…お前を見た。俺は…お前に一目惚れしたんだ」  柊二さんは深い息と短い息を交互にしながらゆっくりと話し始めた。 「当時、あの一帯に…俺たちが足を踏み入れるのは掟破りだった…わかってはいたが…どうしても、お前に会いたかった……新倉に、これ以上レブロンに行くのは危険だと言われたが…」  あのドル箱のような中立地帯の利権を巡って、また組同士の争いが勃発する寸前だったのだろう。 「お前の…グラタンも最高だった。だから、お前とグラタン、両方を手にしたかった。絶対に…な」  グラタンはともかく、まさか俺のことを一目惚れしただなんて、今になって言うのも柊二さんらしい。 「俺の料理人なってほしい、と言ったら……お前は二つ返事をしてくれた」  柊二さん的には、本当は、俺の愛人になってほしい、と言いたかったんだろうか。それは訊けないけど。 「あの時ほど、嬉しかったことは…なかった」  柊二さんは息も絶え絶えに絞り出すような声で一気に話した。そして目を閉じた。胸の動きは少しずつ小さくなり、喉の奥でゴロゴロと音がしている。先生に言われた通りの呼吸になってきている。たぶん、もうすぐ柊二さんの人生は終わりを迎えるんだ。  俺は深呼吸をして落ち着こうと試みるが、俺の心臓は益々早鐘のように胸の中で打ち鳴らしている。 「柊二さん…あなたを愛しています。心から愛しています」  柊二さんは、またゆっくりと目を開けた。白濁した瞳はもうどこを見ているのかわからない。 「柊二さんが俺に人を愛することを教えてくれました。愛される喜びを俺に与えてくれました。俺は…俺はこの世に生まれてきて本当によかった。今は素直に思えます。柊二さん…柊二さん、愛しています…柊二さんっ」  柊二さんの口角が僅かに上がった。 「研一…ありがとうな…研一…」  柊二さんはまた息を深く吸った。そして、ゆっくりと、愛してる、の言葉と一緒に息を吐き出した。俺は、その息が柊二さんの最期の息だと、直感した。  俺は、柊二さんの口元に自分の唇を寄せた。俺の唇はほの温かい息を感じた。そして、コクッと柊二さんの頭が傾いた。胸も、もう動かない。    柊二さんは逝ってしまった。  あ……あ……ああ……あああああああああ……っっっ  柊二さんっ!逝っちゃやだぁ…いやだ……いやだぁぁ  わかっていた、わかっていたが、俺は柊二さんを抱きしめて泣き叫んだ。声が嗄れても、泣き叫び続けた。    どのくらい、そうしていたんだろう…    俺は、野崎先生に連絡をした。話そうとしても、声が上手く出なかった。 (逝ったんだな…) 「…はい」 (何だ、その声は。嗄れまくってるじゃないか…まぁ無理もない…よし、新倉には俺から連絡しておく。わしは、朝一番にそっちにいくから、それまでお前は、柊二がまだ温かいうちは傍で寄り添ってやれ)  俺は、お礼を言ったつもりだったが、先生には聞こえなかったようだ。ああ?と聞き返されたが、じゃあ、切るぞ、と言って先生は電話を切った。      先生が新倉さんに連絡をしたら、新倉さんはどのくらいでここに来るだろう。柊二さんは裸のままだ。    俺は、洋服タンスから柊二さんのダークグレーのスーツとネクタイ、それと俺のワイシャツや買い置きしている肌シャツとパンツと靴下を出した。今の柊二さんなら俺の物で丁度だろう。  まだ、ずっと抱きしめていたかったが、新倉さんが来る前に、そして身体が硬くなってしまわないうちに着替えを済まさないと…裸のままじゃ、柊二さんに叱られる。  でも亡くなった後、勝手に触れてもいいんだろうか。俺は先生にもう一度電話をした。 (どうした?生き返ったのか?) 「何度もすいません。実は柊二さんは今裸なんです」 (…ったく…で?) 「俺が、服を着せてもいいでしょうか?」 (ああ…本当は良くないんだが、この際だから大目に見てやるよ。ディープキスはやめとけって言ったら違うことをしたのか?) 「柊二さんが、体を拭いてほしいって言ったんです」 (まぁ、いい。新倉にも話しを合わせるように言っといてやるよ。柊二は昇天して本当に昇天したってわけか) 「違いますって…そんな元気はありませんでした」  先生は、そりゃそうだな、と笑いながら電話を切った。野崎先生がヤクザ御用達医師だということは納得できる。  俺は、早速旅立ちの支度を始めた。      あの時、処分しろと言われたスーツをこんな形で今また着ることになるなんて…ネクタイの結び方も柊二さんに何度も教わってようやく上手くできるようになったのに、初めて結ぶのが柊二さんの旅立ちの支度の時になるなんて…皮肉過ぎる。  肌シャツの袖を通して、パンツを穿かせて、新しいタオルを褌みたいに股の間に入れた。靴下を履かせてワイシャツを着せてネクタイを結んで、ズボンを穿かせて俺のベルトで締めて、最後にスーツの上着を着せた。スーツはかなりダブついているが、やっぱり似合ってる。  最後に俺のヘアジェルを付けて前髪を後に撫で付けた。    痩せてガリガリでも、カッコよくてイケてる柊二さんを送り出したい。それは、お世話係の俺のプライドだった。  上着が皺にならないよう、もう一度胸元を整えた時、店の前に車が停まった音がした。  たぶん新倉さんとエリ子さんだろう。

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