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【1】-06

「ひっ――うぐ!?」  思わず叫びそうになり、瞬間チリの手で口を塞がれる。  もがきたくても、腰の上にしっかりと伸し掛かられている為に捕らえられた鼠程度の抵抗しかできない。  いま、確かにドアノブが回った音がした。  鍵はしっかりかけたはずだ。それなのに、がちゃり、という音の後にドアが開く音がする。  次いで――かつん。かつん。かつん。かつん。女性の靴が、床を踏みしめる音。それは途中でごっ、ごっ、というくぐもった音に変わる。床が、カーペットに変わったのだ。  恐ろしい現象は、音だけではない。  甘ったるい、それでいて不快な臭いが鼻をつく。たい肥のような、腐った卵のような、動物性の腐臭。そのうえに香水をぶちまけたような気持ちの悪い臭いだ。  指先から、じわじわと恐怖は這い上がる。  嫌だ、怖い、怖い、怖い、見たくない――そう思うのに、何故か目を閉じることができない。いつの間にか、宵央の身体は金縛り状態になっていた。  ひゅっと、目の前の男の喉が鳴る。  何かを話そうとしたのに、声が出ない。そういう風に見えた。  それでもチリの笑顔は消えない。見上げる男には、恐怖や不安といった負の感情は微塵も見て取れない。  こっ……こっ……こっ……こっ……。  足音が近づく。  やがて視界の端に、なにか大きな塊がぬっと映り込んだ。 「――――――ッ……!」  声が出なくて良かった。もし声帯を震わせることができたなら、無様に絶叫していたかもしれない。  天井を眺める状態で固定された宵央の視界に飛び込んできたものは、白い肉の塊だった。  手と足と乳房のようなものが、てんでばらばらにぐっちゃりとひとまとまりになったような、人間を何人か引きちぎって適当に丸めて固めたようなもの。  どっしりと丸いその肉塊は、よろよろとバランスを崩しながら、ベッドの方へと近寄って来る。  ああ――あの、上に乗っているものは顔だ。  宵央がそれに気が付いた時、細長い腕のような首の先に乗った小さな頭が、ぐわん、と揺れた。  まばらな髪の毛のようなものの隙間から、真っ黒な目と口のようなものが覗く。首が揺れる度に、ヒッ、ヒッと空気が漏れるような音がする。……笑っているのだ、と気が付くと、恐怖で涙が零れ落ちそうになった。  あれは何だ。  何がしたいんだ。  どうしてこっちに来るんだ。  何で笑っているんだ。  物心ついたころから霊感に悩まされてきた宵央は、勿論普通の人間よりも幽霊を視る機会が格段に多い。  毎日、何かしら不気味なものを視る。それでもその存在に、慣れることなど一生ないのではないかと思う程、毎日、毎日、ただひたすらに怖い。  だから宵央は一人で寝ることが出来ない。真夜中が怖くて、誰かの手を握っていないと目を瞑ることも、開けることもままならない。  添い寝リフレが天職だ、と感じている理由はまさにこの臆病すぎる霊感体質が故だった。  自分でも大袈裟だと思う。思うが、怖いものは怖い。もうこの軟弱な感情はどうしようもない。  ぐら、ぐらと首を揺らしながら、肉塊のようなものはゆっくりと近づいて来る。そしてベッドの横に立つと、ぐううう……と首を伸ばして宵央とチリの顔の間に小さな頭を差し込んだ。ひどい臭いがする。甘くて、くさくて、吐きそうだ。  小さすぎる口のようなものがもごもごと動き、しきりに何かを呟いているようだが、何を言っているのか宵央にはわからない。言葉のようなものの合間にヒッ、ヒッと空気を切るような音が挟まる。瞬きもできずにその顔面を凝視していると、ゆっくりと顔が落ちてきた。  怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い、臭い、甘い、辛い、怖いもう嫌だ嫌だ嫌だどうして、僕はただ、普通に生活したいだけなのに――。  吐き気とともに弱音が噴き出し、本格的に泣き出しそうになった時。ぐわん、と、目の前の顔が唐突に引っ込んだ。  引っ込んだ……いや、引っ込んだのではない。何かに、力任せに引っ張られた。  ――何が起こったのかわからず、それでも止めていた息を吐く。ひゅうっと濁った空気が肺を満たし、瞬間身体の自由が戻った。思わずアレが吹っ飛んだ方向に顔を向けようとした宵央だったが、すぐにチリの両手に頬を挟まれ阻止される。  まっすぐに上だけ見るように固定されて、他には何もできなくなる。 「ち、り、さ……っ」 「だめ。あいつは、見られんの、嫌いだから。マヨさんもグロとか別に好きじゃないっしょ? ほーら泣かない、だいじょうぶ、もう大丈夫、ほら――零時だ。だいじょうぶ。真夜中は■■■の時間だから」  うまく聞き取れない。彼は今、何と言った? 「なに、が……あれ、何……」 「大丈夫だから息しろって。ね、ほら、吸ってー吐いてー吸ってー吐いてー……うん。いいこだねぇ、マヨさん、怖かったね。巻き込んでごめんねぇ? でもさ、ラブホって一人じゃ入れねえじゃん? それにアイツ、女の子相手だと結構ヤバいって噂でさ。ここ、女はとにかく具合悪くなっちゃうって話で、まあ嘘か誠か知らんけど、本当に体調不良になっちゃったらおれも責任取りたくねえし、可哀そうだし、ねえ、そしたら男とっつかまえるしかねーじゃん?」  あやすように、チリの手が宵央の頬を優しく摩る。  暖かい男の手はさらりとした質感で、夜中に手を握ってくれる女性客とは違う不思議な肌触りだった。  甘くて腐ったような臭いはまだ消えない。  ヒッ、ヒッ、と息が漏れるような耳障りな音はまだ消えない。  ベッドの横に、まだアレはいる。  しかしチリの両手は、宵央の顔を固定したまま視線を馳せる事を許さない。 「そっち見ちゃだーめだって。しばらくおれの顔面で我慢してよー。マヨさんおれの顔好きなんでしょ? ほら、好きに触っていいし、好きにしていいから、だからあっちは見ちゃ駄目」  ぐちゃっ。と、みずっぽいものが飛び散るような音がする。ギイ、ギイ、と虫の鳴き声のようなものが響く。ぐちゃ、ぐちゃ、ギイ、ギイ、ぐちゃ、ぐちゃ、ギイ、ギイ……。  ああ、この声は、先ほどのアレの苦痛の声だ。  それに気が付くとさらに恐怖が増し、もうなりふり構うような理性も吹っ飛んだ。 「もうちょっとだけ我慢して――う、おう!?」  がばっと目の前のチリの顔を掴むと引き寄せ、思い切り抱き着く。まるで人ではないような顔で笑うくせに、彼の身体は心地よく暖かい。女性とは違い、骨がしっかりしていて幅も広い。けれどその方が抱き心地が良い事を知る。 「ん、マヨさん、思ったよりゴリラ……? っ、ちょ、もうちょい優しくして……っ、つ、ぶ、れ、るっ」 「…………好きにしていい、って、言いました」 「はいそーね、言ったけどね、命差し出したわけじゃねえからね? ほら、ゴリラ腕力ゆるめろ。……命は差し出さんけど、別に身体くらいならいくらでも差し出してやるよ。ゆーれい怖いんでしょ? どうする? ちゅーする?」 「……なんで、そうなるんですか……」 「え、マヨさん知らねえの? 幽霊ってエロとか恋愛とかそういう生の欲望! みたいなやつに弱い――って昔のネットに書いてあったのをおれは見たよ? 本当か知らんけど。除霊と言ったらエロ、ファブリーズ、びっくりするほどゆーとぴあっしょ?」 「全部知らないです……」 「うっそぉ……え、ジェネレーションギャップ? おれの知識が古いだけ? 今度トレンドの除霊方法ググっとくね? それはさておき今日のおれはすっげーーーー機嫌がいいんだよね。別におれァ自分の身体を後生大事にするタイプでもねえけど、普段は易々差し出したりしねえのよ? マヨさんかんわいーから、別にいっかぁって思ってんだから、結構チャンスだと思うわけよ」  からからと笑う。その軽薄で上ずったトーンの声を聞いているだけで、指先が震えるほどの悪寒と恐怖は不思議と少しマシになる。 「ね、マヨさん、ちゅーしよ、ちゅー。そんでしばらくあのこわいやつのことは忘れてね」  くすくすと耳を擽る、乾いた響きの声をもう聞きたくなくて、衝動的に口を塞ぐ。  人生で初めてのキスは、幽霊の隣でヒトメボレした男とした。深くて甘くてひどい臭いがまだ鼻に付く、最悪なキスだった。

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