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【2】-06
怖くて怖くて、顔を上げる事が出来ない。
「むりっ! むりですっ! ここ、本当にまずい……か、浬さん待って……っ!」
時刻は夜の二十二時だ。真夜中にならないと『食事』が始まらない、という浬の事情を鑑みて、いささか非常識な時間の訪問となった。
西園の話通り、あたりはしんと静まり返り、とても静かだ。
さすがに他の部屋の明りはついているものの、夜の二十二時に大声で騒ぐわけにはいかない。
本気で怯える宵央だったが、元来の善性が抑えられず、無理に声を押さえた小声で叫ぶしかない。
ワンルームとはいえ、広い部屋だった。
六畳一間、しかも畳の宵央の古いアパートとは、似ても似つかない綺麗な物件だ。
しかし宵央には、部屋の麗しさなどわからない。
どこもかしこも、びっしりと人間が立っていて部屋の内装どころではないのだから。
「うっはー、大所帯ねぇ。さすがにこんだけみっちりしてんのは珍しいわ。男、男、女、男、子供、ばあさん、じいさん、えーとあれはどっち? 髪の毛ないからわっかんねえな……」
けらけらと言葉を零しながら、浬はどんどん部屋の中に進んでいく。
部屋の中は、あっけないほど物がない。
先ほど駅で鍵を渡してくれた西園が、空き時間で片付けたのだろう。彼女は今日、自宅の方で眠り、明日の夜《八ツ辻》で落ち合う手筈だ。
一時的なホテル代わりとして契約したということだから、元々寝に帰ってくるだけの生活だったのかもしれない。休日は本来の家に帰れば、私物を持ち込む必要などない。
「それにしても、ちょっと綺麗すぎるって感じはすっけどなぁ……生活感、みたいなやつ全然ねえな。女の一人暮らしってこんなもんなの?」
「え。ええと……確かに、あまりにも、綺麗、だとは思います……」
宵央は《獏獏》の仕事で、顧客の自宅を訪れる機会が多い。その経験から見ても、確かにこの部屋はあまりにも綺麗すぎた。
まるで、ベッドメイクをしたてのホテルのような雰囲気だ。
いくら掃除しても、片付けても、人が暮らしていればその人間の癖がでる。
それに昨日見たかぎりでは、西園はそこまで綺麗好きだとは思えない。スカートはしわくちゃだったし、バッグは合皮の部分が少し剥がれていて見目が悪かった。靴も汚れが目出ち、踵の後ろはほつれて擦り切れていたことを思い出す。
彼女が、こんなに綺麗に部屋を保つだろうか。
本当に寝るだけで、ほかの生活には使っていない、ということなのだろうか。
キッチンはきちんと整頓されて食器や調理器具も仕舞われたままで、ちらりと覗いたバスルームも水滴ひとつない。
「でも、これだけいろんな方がいらっしゃるなら、万が一見えていなくても、ここで寛ごうなんて思わない、かもしれませんね……」
「はー、まぁそうかもなぁ。足場選ぶのも大変だしなぁ。ええと窓ってアレか? マヨさん大丈夫? 外で待ってる?」
「え、だ、だって僕には浬さんのお食事という使命が……っ」
「いやそれだけビビってりゃもう十分よ。すげーよマヨさん、この数日いい加減腹減ったなってモンモンとしてたのに、一気に満腹よ。しかも旨いしなぁ、やっぱ相性いいのかね?」
「……人の、恐怖に、味とかあるんですか……?」
「んー。舌で感じるわけじゃねえけどね。なんかこう、満足感が違うんだよなー。マヨさんの『恐怖』は、なんかすっげー気持ちイイ」
果たして、喜ぶべきなのだろうか?
決して貶されているわけではないはずなので、一応宵央は『ありがとうございます?』と微妙な顔で礼を言う羽目になった。
ちらりと視線を寄こした浬が、わはは、と笑う。
「マヨさんのその、なんか妙に素直にお礼言っちゃうとこ、おれァわりと好きだよ。あ、付き合わねえけどね? それとこれとは別」
「なんで……?」
「なんで。なんで? だってお前、おれなんか感情が半分ぶっ壊れてるくそやろうよ? 倫理観もふわふわしてっし、昼夜逆転してっし、定職にもついてねえし。マヨさんはちゃんといい奴なんだから、もっと普通の奴と恋愛して家庭持った方がいいでしょうよ」
「家庭は持てません。ゲイ、なので」
「あ、そうなの? なんかどっちでも気にしないタイプかと思ってたけど完全にそっちの人か。じゃあより一層おれなんかやめとけよおれたぶんノンケだし……いや他人と恋愛しようとか思ったことねえから知らんけど……」
「……僕も、ないです。ずっと一人で生きていくんだろうな、と思っていたから」
「マヨさんはすぐにパートナーみつかるよ。いい奴だし、善良だし、ちょっとおどおどしてっけどイケメンだし」
「顔はその……褒めていただけるのは、嬉しいと思いますけど、……あんまり、得をしたこともなくて」
「え、そう? おれ結構好きだよ、マヨさんの顔。ラフな格好だと可愛い系っぽいけど、シャツだと急にパシッとしてエロくなるよなー。つか《八ツ辻》の制服似合いすぎてちょっと引いたわ。黒シャツお似合いじゃん? あんなんおれが着てもうっさんくせーチンピラにしかなんないよ?」
「……顔が好き、なら、別に僕とお付き合いしてくださってもいいのでは……」
「だーかーらー。マヨさんがおれにそぐわないんじゃねえの。おれが、マヨさんに、そぐわねえの」
浬の理屈は理解できるが、まったく納得できずにつないだ手をぎゅっぎゅと握ったら『痛いゴリラやめろ』と怒られてしまった。
そこまで怪力だという自覚はなかったが、そういえば女性相手の時はこんな風に思い切り抱きしめたり、握りしめたりはしない。
浬の手はさらりと乾いていて、骨ばっていてかっこいい。
縋るように自らに絡みつくベッドの上の手を思い出してしまい、あわわと勝手に赤面し、気を取り直すように顔を上げ――すぐに宵央は後悔した。
そういえば、心霊スポットのど真ん中だった。
浬と宵央は、広い部屋の真ん中に立っていた。
部屋の照明はつけていない。正確には、つけようとしたがつかなかった。灯りは、浬がもつ懐中電灯に頼るのみだ。
「……南の、窓」
ぽつりと浬が呟く。
その視線の先にはカーテンが引かれた窓があり、そして、背の高い女性が立っていた。
確かに、彼女は異質だった。
他のぼんやりと直立するだけの人々とは違い、びくびくと定期的に震える。ひふ、ひふ、ひふ、ひふ、と空気が抜けるような音がする。
西園は『女が笑う』と言った。
しかし宵央には、彼女が笑っているようには見えない。
彼女の口はホチキスの針のようなもので縫い付けられ、無理やりに口の端を上げられた状態で固定されていた。
だらだらと、ありとあらゆる穴から黒っぽい液体が流れ出ている。縫い付けられた口の端からも、ひふ、ひふ、と音が漏れるたびに液体が零れだす。
夜中には彼女が、しゃくりあげているようにしか見えない。
髪の長い、黒い服――喪服を着た女が、身体を揺らして泣いている。白目の無い目でじっと浬を見つめた女は、身体を揺らしながらもゆっくりと手を上げた。
奇妙に長く枯れ木のような腕が、徐々に持ち上がり地面と水平になる。
人差し指が、ぴんとまっすぐに伸びる。
指をさしているのだ。浬の方を、ただじっと見据えながら。
「…………おれ、じゃねえな、これ」
苦笑した浬は、すぐにぐるりと彼女に背を向ける。女の差し示すものは、浬ではない。なぜならばその場にいたすべてのモノが、一斉にそこを指差していたからだ。
「――――押入れ」
怖い、怖い、もういやだ、信じられない。宵央ひとりならば、蹲って耳と目を塞いで朝を待つ。それだけでも頭がおかしくなってしまうかもしれないというのに、浬は宵央ならば絶対にやらないような行動をさらりと選択した。
押入れに手を掛けた彼は、勢いよく、その扉を開けたのだ。
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