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【3】-07
声の主は意外なことに美月だった。
宵央にとって、美月は比較的古株の常連だ。いくら顔が見えない暗闇でも、その声くらいは判別できる。
美月はいつも溌剌と話す女性だった。
笑いたいときは大声で笑い、少しびっくりするようなシーンでは大袈裟に叫ぶ。けれどこの時の絶叫は、宵央が耳にしてきたどの声よりもひどく醜い。
「……ぃ、」
美月さん、と、名を呼ぼうとしたのに、声が出ない。
喉を何かに掴まれているかのように、息をすることすらも難しい。かろうじてどうにか掠れた音が零れる。
まるで、水の中のような息苦しさと重さ。
そして全身を包む言いようのない悪寒と恐怖。
暗闇の中で、何かが肌の上をぞぞっと撫でまわすような、ひどく居心地の悪い不快感が四肢の先から這い上がる。
「はッ、はッ、あぁ………ひ、ひぎぃぃぃぃぃいいいッ――!」
あまりの絶叫に、思わず宵央は耳を両手で塞ぎかけた。だが、身体がぐっと誰かに押さえつけられたように動かない。
金縛りだ。
瞬きは出来るのに、息は吸って吐けるのに、身体はぴくりとも動いてくれない。
闇はなお深く宵央の視野を奪ったままだったが、徐々に視界の隅に違和感を覚えはじめた。
左の奥の方から、うっすらとした光源が近づいて来る。
それと同時に、ずる、ずる、という濡れた袋を引き摺っているような奇妙な音が耳に届き始めた。
何かが、床を這う音だ。そう気が付いた時、闇の中で美月の悲鳴が再度上がる。
「イヤァアアアアア! 嫌ッ! 嫌ァ! なんで! なんで、なんで、なんで、だってわたし、ちゃんと選んだッ! ちゃんと捧げたじゃん! なんで、なんで、なんで……ッ!?」
ずる……ずる……ぺたんっ……ずる……ずる……ぺたんっ……。
どろりと濡れたその白いものが、視界の端からゆっくりと現れ、宵央は思わずぐっと息を止めた。
ひどい生臭さが鼻の奥から脳を直接殴るかのように、ガツンと響く。魚が腐った時のような、言いようのない生臭さだ。
ソレの全身は、ぬらりと白く光っていた。ぶよぶよの、白くて大きな芋虫――その頭部から、細い人の身体のようなものが生えている。
棒切れのような手が四本。胴体には細い縄と紙のようなものを纏い、顔の部分には真っ黒で艶やかな丸いものが二つ、ぼこりと盛り上がるようについていた。
あれは、虫の複眼だ。
どう見ても『野々村ほのか』には見えない。キツネや狸や犬にも見えない。百歩譲って表現するなら『虫のばけもの』だろう。
ソレは歩みを止めるとゆっくりと上体を上下させ、ギィギィと鳴き声のようなものを上げた。そして四本の手で、がっちりと美月の肩を掴む。
ほのかな『虫』の光に照らされて、暗闇の中から美月の顔が浮かび上がった。
化粧などもう見る影もなく、彼女はぐしゃぐしゃに泣きじゃくる。
「嫌だッ……! やだぁッ! ソイツ連れてきたじゃん! ソイツ連れてきたじゃん……ッ!」
必死に頭を振る美月は、左手で真正面を指差した。美月の正面に座る、千同浬を。
「――残念だけど、おれには贄の資格ねーのよ、ごめんねぇ」
少しも悪いと思っていない口調で、いつものように浬はへらへらと言葉を並べ立てる。それはこの異様な空間で唯一いつも通りで、しかしだからこそ震えあがる程異常な声色だった。
「毎年呼び出してんのが本当に過去自殺したトモダチちゃんだったなら知らんけど、アンタらが取引してたのは無念抱えたユーレイなんかじゃない。ソイツは――まあ若干見た目が崩れちゃいるが、カミサマの類だ。美月サン、あんたさ、とんでもねーもんにたかられてんのな」
わははと浬の笑い声が響く。場違いに響く。
荒川はもう項垂れたまま動かない。神崎は頭を抱えて泣いている。美月はただがむしゃらに叫ぶ。
「たすけて……ッ! 助けてよッ、マヨくんッ! ねぇ、助けてよッ! 何のためにあんたら呼んだと思ってんの!? ねぇ! ねぇ! 助けてぇッ!」
「何のためって別に助けてもらうためじゃねえだろ? あんたがマヨさんを呼んだのは、自分の代わりに死んでもらうためじゃないか」
「…………………え?」
喉の奥から、掠れた声が出た。まだ四肢は動かない。けれど、声なら少しはひねり出せる。
「……それは……どういう……」
かすかすの声に対し、答えてくれたのは浬だ。
「そのまんまの意味だよ。棚橋美月は、毎年一人、ソイツに生贄を差し出していた。今年選ばれたのはマヨさんってこと」
「生贄……え、だって、ほのかさん? の、幽霊が出るという、お話では……」
「そもそも、野々村ほのかは虐めで自殺なんかしていない」
「――え」
「おれの知り合いはさ、結構変な職業の奴が多いわけよ。飲み友達っつーの? 変な場所で飲んでるから、そら変なヤツも多い。その中に興信所の所長なんて肩書のオッサンがいる。そいつにちょちょいと頼んで調べてもらった。ちゃんと金払ったから、情報は確かだ。当時のクラスメイトにも裏取ったらしい。野々村ほのかは、いじめを苦に自殺なんかしちゃいない。野々村ほのかはむしろ虐める側で、その標的は棚橋美月だった」
「……ちが……ちがう、ちがう、ほのかは、自殺して……ッ!」
「表向き自殺って事になってるらしいが、実際はトイレで変死したらしいな。身体中の血がすべて抜かれて、脳がどろどろに溶けていたらしい。外部から誰か侵入した形跡もねえし、結局『よくわからんけど死んじまった』って事になった。何にしても死んじまった事実は変わらない。ただ、その原因はいじめじゃない。あんただ」
「ちがう、ちがう、ちがう、ちが――」
「野々村ほのかは、棚橋美月に呪い殺された。正確には、棚橋美月がこっくりさんにお願いして殺してもらった」
こっくりさんにお願いして――殺した。
宵央はふいに、こっくりさんの話で盛り上がる《八ツ辻》の店内を思い出した。こっくりさんは怖い。と、皆、口を揃えて言っていた……。
こっくりさんは、人間のルールや常識から逸脱した『儀式』なのだから。
「……まあ、アンタも本当に野々村ほのかが死ぬなんて思ってなかったんじゃねえかな? でも、ガチで死んじまった。その上こっくりさんは願いを叶えた対価を要求してきた。……カミサマってのは気紛れだが案外ボランティアはしてくれない。神に何かを願う時には、必ず供物が必要だ。おおかた、願った全員の命取られそうになったんだろうな。でもアンタには勘のいい姉貴がいたから、なんとか難を逃れた。いや、どうにか協議できたってとこか? でもって、毎年代わりに誰かを差し出せって話で合意したんだろう」
「うう、ううう………」
「今更泣いたところで情状酌量の期間はとっくに過ぎたと思うぜ? つかマヨさんならともかく、バケモン相手に泣き落としなんか通じねえよ」
「やだ……やだ……いたい、いたい、いたい……ッ、なんでぇ――」
「なんで? それは『なんでこの男は生贄として選ばれなかったの?』ってことか? まあそんくらいなら教えてやるけど、そこに坐す御方はどこぞのカミサマのなれの果てだ。そんでカミサマってのは誰かのお古は嫌いなんだよ。何事も新品を好む。新品の縄を、神具を、料理を好み、子供と処女の巫女を好む。誰かのお手付きは嫌がるもんなんだ。残念ながら、おれはバケモノのお手付きだ」
浬には、幽霊を喰らうバケモノが憑いている――だから、浬は神への贄には選ばれない。その資格がない。
そのため、美月とアレとの取引は無効となった。
贄が用意できなかったのだから、連れていかれる者は、美月自身だ。
「なんで、なんでッ、だました……だました、あんた、ひどいッ、たす、たすけてマヨくん……! 死にたくないよぉ! たすけてぇ――!」
美月の手が、目の前に伸びた。
その瞬間、金縛りなんてまるでなかったかのように身体が動いた。一瞬で身を乗り出した宵央は、美月の手を無視して浬の身体を守るように抱きしめた。
「なん――――」
なんで、と、美月が最後の言葉を言い終わる前に、彼女の身体は後ろの闇に引きずられるように吸い込まれて消えた。
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