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【4】-05
本音を言えば、今すぐ逃げ出したい。
屋敷探索を終えた後の宵央は疲労困憊状態で、支えてくれる浬の存在がなければ、蹲って泣き出していたかもしれない。
「まあ、気持ちはわからんでもねえけどさ……」
へらりとした苦笑を浮かべた浬は、いつも通りの飄々とした言葉を投げつつ、座布団の埃を掃う。
それでは各自、朝までどうぞご自由に――と、解放された参加者は各々、縊死屋敷を心行くまで堪能する為、各々陣取り合戦を始めた。
一番人気は勿論、『義兄の部屋』と思しき和室だ。
床の間があるのでおそらくは仏間だったのだろう。家具はほとんど残されていないので、間取りから本来の姿を想像する他ない。
宵央はこの部屋に、一歩たりとも近づくことができなかった。普段から怖いモノなんてない、と豪語する浬でさえも一瞬ためらった気配がした程だ。その理由は、和室の隅に積み上げられた小石ではない。
壁際に、人がずらりと立っていたからだ。
それは頭陀袋を被った裸の女性たちだった。真っ白な肌には一切の生気はなく、日の暮れ始めた室内ではのっぺりとした灰色に見えた。
良く見ると身体のバランスがおかしく、手足が異様に長い。注視していると正面を向いていた彼女たちの身体が徐々に自分の方へ向きを変え始めたので、慌てて宵央は視線を逸らした。
あんな部屋、留まることも、近づくこともできない。
この仏間に座布団を持ち込んだ参加者は、壮年の中年男性三人組と、唯一の単独参加者である若い女性の四人だった。
夫婦の寝室らしき六畳間には、中年の男女ペアが陣取り、子供部屋らしき小さな部屋には三十代の女性ペアが入っていった。
残る部屋は仏間と隣接している広間だが、襖が取り払われている為仏間の様子が丸見えだ。少しでもあの部屋から離れたい一心で、結局宵央は一番奥の台所に隠れるように逃げ込んだ。
屋敷内部の状態は、思っていたよりも綺麗だ。崩れ落ちそうなところもなければ、腐った場所もない。ただ、床は体重を少しかけるだけでぎしりと唸り、そこかしこから木が撓るような家鳴りが響く。
小さな板の間の真ん中にぺらぺらの座布団を敷き、身を竦めるように正座をする。視線はひたすら床に注ぐ。少しでも顔を上げれば、台所の窓という窓から覗き込む白い顔と目が合いそうだった。
これでも、他の部屋よりは幾分かマシだ。
とにかく、ありとあらゆる場所に人ではないモノが溢れていた。
この廃墟には、床を這いずる手足の無い男も、一列に上から吊られた家族もいない。
しかし、『縊死屋敷の怪談』には微塵も出てこなかった筈の怪異が、至る所から宵央達を迎えた。
天井、廊下、窓の外――少し視線を上げるだけで、何かしらと目が合いそうになる。彼らは女だったり男だったし、子供だったり老人だったり、または人かどうかも怪しい相貌のモノも混じっていた。
台所の天井から逆さにぶら下がる女の手を避けながら、身体を斜めに傾けた浬が目を細める。
「こういうイベントさぁ、まあ、たまーに参加すっけどさ。大抵はほとんどなんもねーのよ。でもここは、ガチっぽいな。……問題はちょっと、尋常じゃねえほどヤバそうなヤツがわんさか居るってことだ」
「あ……やっぱり、おかしい、です、よね?」
「そらそうだろ。芋虫みてえなオッサンも、首括った父ちゃん母ちゃん娘ちゃんもどこにも見当たらない。ただ、それ以外のヤツが山ほどいる。いくら心霊スポットは霊のたまり場になりやすいっつっても、この状態は異常だ」
浬は常に、『アチラの世界はコチラのルールでは測れない』と言葉を濁す。科学が通用しない世界に、再現性や通例は適用されない。
しかしその浬さえも、この家の状態は異常だ、と断言した。
「怖い話をしてりゃ霊が集まるってのは本当だし、霊道みたいなやべー場所は奴らのたまり場になる、これも本当だ。けど、ここは変だ。さすがにちょっと、多すぎる」
「はい、あの……わかり、ます。僕はあまり、心霊スポットと呼ばれる場所とは縁はありませんが、それでもなんというか……違和感、があります」
大量の霊といえば、先日の《西園のアパート》の件を思い出す。
あの場所にみっちりと詰まっていた人々は皆、どことなく同じ雰囲気を持ち合わせていた。古い仏壇に詰め込まれていた卒塔婆を由来とする霊だったとしたら、おそらくは墓に埋葬されていた人々なのだろう。口を封じられた喪服の女だけが異質ではあったが、それでも仏壇と喪服は親和性がある。
しかし『縊死屋敷』に溢れかえる怪異に対し宵央は、ひどく雑多なイメージを持った。
「ええと、確証があるわけでは、ないんですが……何人か、海で亡くなった方、いますよね……?」
「あー。なんかすげえ潮臭いとこあったな、子供部屋か? だるっだるの白子のバケモンみたいなやついたな。どう見ても溺死だろうなって感じの」
「……あと、交通事故……」
「上半身とランドセル引き摺ってるやつだろ? 腹から半分に折れてたやつ。どう考えてもこの辺のガキんちょじゃねえだろうな。あんな最新のパステルカラーランドセル背負ったお子さんが、こんな寂れた場所を歩いているわけがない。あと何? 焦げてるのと、干からびてるのと、ウジわいてるのと――あ、頭陀袋の全裸の女まじビビったわ、久々に引いた」
ふっと、宵央は張り詰めていた息を吐く。
怖くて怖くて、たまらない。
それでも、同じものを視ている人がいるという事実は、恐怖を抱え込んで生きてきた宵央にとっては得難い救いだった。
宵央は物心ついた時から、普通の人間とは違うモノを視ていた。
実の家族と縁が薄い宵央は、養護施設で多くの子供に囲まれて育った。殊更辛かった記憶はないが、夜中に目が覚める度に何か黒いものが覗き込んできたことは覚えている。それは明らかに人ではなかったが、宵央が誰かに相談することはなかった。
他の人に視えていないものは、そこに居ると証明できない。
他の人に視えていないものは、宵央も視えないふりをするしかない。
視えているのに、そこに居るのに、こんなに恐ろしいのに、誰にも話せない。共有できない。共感してもらえない。その孤独はいつしか当たり前になったものの、時折どうしようもなく息苦しくなった。
息を、ぐっとこらえるように生きてきた。
けれど宵央は、浬の前では『普通』を装う必用がない。
時折同じものが視えない時もある。どうやら宵央の方が霊感的な目は良いらしく、そういう時の浬はしばらく目を凝らした後に『マヨさんは目がいいねぇ』と感心するように笑った。
こんな嫌な得意体質を、何の得にもならない特技を、目が良いねの一言で流してくれることが嬉しかった。
浬はいつも、おれの自我も感情も薄いから、と言う。まるでそれがひどい欠陥のように。
しかし他人の感情に敏感に反応してしまいがちな宵央にとって、彼のうっすらと軽い感情はとても楽だ。
だから、と宵央は心の内で己を奮い立たせる。
だからここで、音を上げるわけにはいかない。
この人を、手放したくない。できればずっと、傍にいさせてほしいと願う。そのためには、多少の恐怖にも慣れるべきなのだ。
何故ならば、生きていくうえで霊の存在が必須である浬にとって、『心霊スポット』は新鮮な餌場なのだから。
実のところ今回の一泊イベントを決行した理由も、少なからずここにある。
話を聞く限り、浬は比較的頻繁に心霊スポットを訪れている様子だった。ツアーに紛れ込むこともあれば、ひとりでふらりと立ち寄り夜を明かすこともあるらしい。
成人男性とはいえ、シンプルに危険すぎて怖い。本当にやめてほしい。怪我や事故の可能性もあるし、たまたま悪意のある人間とエンカウントする可能性だってゼロではない。
しかし浬にとって心霊スポットへの遠征は単純な肝試しや遊びではなく、生きる為の捕食行為だ。
やめてくださいと懇願はできない。とはいえ心配すぎる。それならばもう、自分が同行する他ないではないか。
幸いと言うべきか、宵央は極度の怖がりだ。
人間の恐怖を摂取しないと飢餓状態になるという浬にとっても、宵央のような同行者は邪魔にはならないだろう。現に今回も、マヨさんの『コワイ』が一番うまいねぇと零していた。何の益にもならない宵央の恐怖心が、誰かの糧になるのならば本望だ。それが浬ならば尚更である。
「怖いとは思わねえけど、あんま長々滞在したい感じじゃねえなぁ。おれはともかく、マヨさんきついだろ。車に戻る?」
首を傾げる態勢に疲れたのか、座布団ごと横に移動した浬が提案する。相変わらず床を見つめたままの宵央は、ぐっと息を吸いこみ腹筋に力を入れた。
「だ、いじょうぶ、れす……っ!」
「噛んでんじゃん。大丈夫じゃねえじゃん」
「ちょっと、口が、緊張している、だけです……! こ、こんな場所に、浬さんをひとり、置き去りにするわけにはいきません!」
「いや他に八人もいるし、おれはこういうの慣れてっから心配はいらんて。つかマヨさんさ、今回妙に前のめりじゃん?」
「えっ。……そ、そんなことは、」
「断れない性格だっつっても、普段のマヨさんなら渾身の力ひねり出して『無理です!』って言ってる場面でしょ。そもそも、あんな男にマヨさんが義理立てする必要なくね?」
「? あんなおとこ?」
「……え。ほら、あの、ケンとかいう……だってこのイベのチケット、あいつが取ったやつじゃん?」
「あっ。あー! はい、あの、いましたね、ケンさん……そういえば、そうでした」
「…………え、ガチめに忘れてたの……?」
「はい、あ、ええとその、僕はその、結構精神的に豆腐というか、ネガティブなタイプなので、過去に出会った嫌な人の事はあまり思い出さないように努めているというか、できればサクッと忘れるように、と、心がけていまして……」
宵央にとって今回のイベントは『浬の為に、そして今後の自分の為にこなすべき試練』のような立ち位置だった。
浬の生活には、心霊スポットが必須だ。だから自分も、多少なりとも恐怖に慣れる必要がある。そう思って震える足を叱咤し、今も板間の上に留まっている。
チケットを投げつけて消えてしまった男のことなど、本当に今の今まで忘れていた。
珍しく言葉を失ったらしい浬は、しばらくそのまま固まり、徐々に呆れたような顔になる。いつもの適当な笑顔とは違う、とても珍しい表情だ。
「……なんかマヨさんって、時々予想外でおもしれーんだよなぁ。つかあんなアイデンティティの塊みてえな男のこと、よく忘れられたなこの短期間で。あんま好みじゃなかったの?」
「好み、ではないと思いますたぶん……僕はそもそも、誰かと恋愛をしよう、と、思ったことがなかったので……」
「でも好き好き大好きって迫られたら、悪い気しないんじゃねえの?」
「どうでしょう。浬さんが迫ってくださるなら大歓迎なんですが、今のところ他の方にあまり興味がないので、よくわかりません」
「その割にはなんかうれしそーに話すじゃん?」
「え、だって、その、浬さんが、彼の事をちょっと、気にしていらっしゃるようだったので、う、嬉しくて……」
「は? おれが? ケンの野郎を? 気に……?」
「……烏滸がましいようですが、ええと、嫉妬してくださっているように、みえてつい……」
「……………………」
またしばらく、浬は固まってしまう。
ほとんど無表情に近い顔のまま数秒動かず、やはり今の発言は少しどころかかなり厚かましかったのではないか、と宵央が不安になり始めたころ、浬は徐々に立てた膝に顔を埋めて頭を抱えてしまった。
そしてぼそりと呟く。
「………………………………おれ、結構、気にしてた、かも…………」
「え」
「嫉妬……? えええ、これ嫉妬だったの? おれのマヨさんに触んな的な……え? あ、これ、そういうやつ? ……てかマヨさんはなんですげー悲しそうなの? それどんなお気持ちの顔なの?」
ちらりと顔を上げた浬の言う通り、宵央は胸を押さえたまま絶望的な顔を晒していた。
「……どうして……どうして浬さんは、出先で、そういうことを言うんですかひどいですの顔です……」
「ああ。うん、まあ、そうね、これマヨさんちだったらなし崩しだろうよ。マヨさん一回感情ぶわーってなったら止まんねえもんな……」
「家なら……! 家なら、キスしてたところですからね……!?」
「おん。我慢できてえらいな……?」
「帰ったら、さっきのもう一度言ってくださいお願いします……」
「さっきのってどれ」
「おれのまよさんにさわんな、のところです。お願いします。録音して大切に保管します」
「嫌だよ……別に言うのは良いけど録音はすんなこえーから……」
「本当ですか? いいんですか? 僕たぶん我慢できませんがいいんですか!?」
「マヨさんとやらしーことすんの嫌いじゃねえから別に構わんけど、なんか、あー……そうね、マヨさんが他の男に目移りなんかしねえわな。……一途なストーカーゴリラだもんな」
ふは、と笑う浬の顔は、普段の張り付けたようなにやついた笑顔とは違って見えたが、これは宵央の気のせいだったのかもしれない。
可愛く可愛くててたまらなくなって、一瞬で場所も状況も忘れてしまいそうなる。
愛おしさが心霊屋敷の恐怖と『外出中である』という倫理観を上回り、うっかり抱きしめてキスをする寸前だった。
宵央が衝動的な感情を制御できたのは、普段の自制のたまもの――ではない。
ぎしっ、と、床を踏みしめる音が近づいてきたからだ。
「…………っ、」
思わず全身で飛びのき、姿勢を正す。目の前の浬も、一瞬で表情を引き締めたように見えた。
心臓のあたりを押さえたまま視線を上げた先に居たものは、予想していた恐怖の対象ではない。
それは心もとない表情でランタンを掲げた女性だった。
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