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【4】-08

 目の前に、丸い穴がぽっかりと開いていた。  井戸だ。触れるだけでかさかさと石が零れる程古く、底が見えない程深い、枯れた井戸。  井戸の中には、何かが居た。  丸くて暗い井戸の中に、身体を乗り出すようにして目を凝らす。闇の中で、ぼんやりとその顔だけが浮かんでくる。  髑髏――いや、皺が張り付いたような、老人の顔。  生気がなく、口を半開きにした皺だらけの白い老人が、呆けたように見上げていた。唯一開いた世界である井戸の淵を。そこから覗き込む宵央を。  あれは誰だろう。  ここは何処だろう。  その疑問に答えが出る前に、宵央の意識は突風に巻き込まれるかのようにぶわりと舞い上がる。井戸はどんどん離れていき、やがて小さな黒い丸になり、景色と共に霞んで消える。  あの老人は、生きていた。  宵央がそう思った理由は、老人の口元がかすかに動いていたからだ。  何かを伝えたかったのだろうか。そうだとしたら、一体何を伝えたかったのか。  宵央の霊感は、思いのほか曖昧だ。これほどまでにしっかりと目に映るというのに、彼らの声が耳に届くことは稀で、彼らの意志などはほとんど知れない。  今までの宵央は、それが知りたいとは思えなかった。怖いものからはとにかくいの一番に背を向けて逃げた。耳を塞ぎ目を瞑り、異形がすっかり通り過ぎるまで耐えた。これからも率先して関わりたいとは思えないが、しかし――あの井戸の中の闇のおぞましさには、少しだけ既視感があった。  あの人が何を伝えたいのか、宵央にはわからない。そもそも、ここは何処だ――自分は、今まで何をしていたのだろうか?  うっすらと霧がかかったような、夢から目覚める手前のような浮遊感の後、漸く宵央は自分が横になっていることに気が付いた。  ――縊死屋敷。  そうだ、自分は縊死屋敷と呼ばれる心霊スポットで、とんでもない怪異現象に巻き込まれた。  そのことをようやく思い出し、慌てて身体を起き上がらせ、勢いづいたまま頭をぶつける。 「っつ!? え、……?」  思い切りぶつけた頭を抱えた宵央は、そこがレンタカーの後部座席であることに気が付いた。  喉がひどく乾いて、頭がじんわりと痛い。まるで酷い風邪を引いて寝込んだ後のようだ。 「お。マヨさん起きた?」  わけもわからず頭を摩っていると、唐突に外から声がぶつけられた。少し開いていた窓から、浬が覗き込んでいる。  外からドアを開けた浬は、いつも通りのへらりとした顔で手を差し出す。まだぼんやりとしている宵央は、とりあえず彼の手を取ってふらつく足取りで車から這い出した。  朝だ――と思う。  まだ陽は登り切っていないが、夜の闇はすっかり身を潜め、湿った早朝の空気が満ちていた。  閑散とした空き地には宵央と浬が借りたレンタカーと、そして他に三台の車があった。それぞれ車種の違う自家用車で、もう一台停まっていた筈のミニバンは見当たらない。  視線を前に戻した宵央は、訝し気に眉を寄せる。  ……そこには、あの『縊死屋敷』が、こちらに背を向けるようにひっそりと佇んでいる。まるで、何事もなかったかのように。 「……え。え? ゆ、夢……?」  混乱する宵央の背中を、隣の浬は少々乱暴に叩いた。 「夢なら良かったんだけどなぁ。マヨさん、具合どう? 気持ち悪いとかない?」 「は、はい、たぶん、大丈夫です。少し、眩暈が残っているような感じはありますが……。あの、他の方……敷井さんは?」 「あの軽の中で仮眠取ってる。ハネちゃんとやらも無事だよ。つか参加者は全員無事だ。少なくとも命は取られちゃいない」 「一体、何が……」 「え、知らん。一応時間外除霊試みたんだけど、気が付いたら全員外で寝てて、もう屋敷の中には誰も入れない状態だった。窓も全部開かねえし、なんなら開いた形跡もない」  浬はあの時、『引っ張り出す』と言った。  普段は真夜中に出てくるはずのバケモノを、無理やり引きずり出して強制的に除霊《しょくじ》させる、という強硬手段に出たのだろう。 「あと、おれが目ぇ覚ましたときにはもう、主催野郎たちの車はなかったよ」 「だ……大丈夫、なんでしょうか、その、主催の方々は……」 「さぁ、どうだか知らんけどね。こんなもん仕込むくらいなんだから、多少の覚悟はあったんじゃねえの?」  こんなもの、と言った浬は、手にもつビニール袋を掲げる。  それは仏間の畳の下に隠されていた、白いビニール袋だった。  ビニールがはち切れそうな程パンパンに詰められた中身は、想像に容易い。あの枯れた花は、どう見ても仏花だった。 「仏花、位牌、人形、ええとこれは何だ、あー……遺影か? あとは日記、帽子、写真……よくもまあこんだけ集めたなぁって感じだよ」 「あの……それは、やっぱり、どこかの心霊スポットから?」 「回収したもんでしょうよ。さっきハネさんが言ってたぜ、『あたしその人形、ユーチューブの心スポ凸動画で見た事ある』ってさ」  人形は、今はもう取り壊された関西の廃墟にあったものだ、と言う。そのほかの品も劣化がひどく、曰く付きの品であることが察せられた。 「ま、廃墟取り壊しますってなったら、そこにある遺留品なんてただのゴミだろうしなぁ。ヤバそうな産廃物とかじゃないなら、譲っていただきたいんですけど~って頭さげりゃもらえるだろ、たぶん。ゴミなんだし。事故現場に備えてある花だって枯れりゃゴミだ」 「そんな、でも……」 「心霊スポット巡ってゴミかき集めて、適当な廃墟にこそこそ隠して、何か起きたらめっけもんって感じだったんじゃない? 仕掛けた奴らに直で聞いたわけじゃねえけど、各部屋に隠しカメラあったしなー」 「え。え!?」 「ガチ心霊映像取れたら公開してバズらせる気だったんだろ。主催以外が全部屋にカメラ仕掛ける暇なんかなかったんだから、犯人は一目瞭然だ。映像見てねえから何が撮れてるのか、おれはわっかんねえけどな?」  そしてもう、カメラの中身を知る術はない。  主催の苦峪含む『幽ヶ夾サイト』の面々は皆、ミニバンと共に消えてしまった。 「主催のSNSアカウントに連絡しても既読つかねえし、どうしようもねえしこれもうこのまま解散だろうな。別におれはいいけども、マヨさんは散々だったよなぁーごめんなぁ? 死ぬこたねえよなんて適当な事言ってさぁ」 「……し、死んだ方は、いないんですよね?」 「死人は出てない。ただちょっと、あー……主催が行方知らずで、あとあの仏間に居た四人は、ええと、うん……禍喰(まがば)みさんの影響受けちまってるかもしんないわ」  ふと、聞き覚えの無い単語が耳に飛び込む。当たり前のように浬が口にしたその名を、宵央はそのまま繰り返しながら首を傾げた。 「まがばみ、さん?」 「…………………………うん!? マヨさんなんで名前知っ、ッあーーーーー!?」 「えっ、ちょ、……か、浬さん?」  珍しく急に叫んだ浬は、そのままよろよろとしゃがみ込んでしまう。  慌てる宵央に対し、顔を覆った浬は両手の隙間から、くぐもった声を捻りだした。 「う、うー……まじか……やっちまった……マヨさんもがっつり巻き込まれてんじゃんかよぉーごめんまじで、ごめん、まじ……あーーーーー」 「あの……浬さん、まがばみ、ってもしかして、浬さんに憑いているっていう、その、なにかの、名前……?」 「……そうだよー……普通は認識されねえの、そういう類のモンなの、禍喰みさんが認識できんのは、禍喰みさんに認識されたヤツだけなの……マヨさんべったり張り付かれたから、ついでに喰われちゃったの……? どうなの……? うそでしょ? おれすげえ気を付けてたのに?」 「まがばみさんに、認識されると、なにかまずいんでしょうか……?」 「認識されたってのはツバつけられたってことよ。つまり禍喰みさんが腹減ったら優先的に喰われんだよ、マヨさんが! よくねえだろ! いや、マヨさんにべったりだった、おれが悪いっちゃ悪いんだけどだって飯がうまいから……!」 「あ、ご飯での懐柔は、成功してたんですね?」 「仕方ないじゃん? メシウマのイケメンが大好きですってでれでれしながらちやほやしてくんだよ、気持ちいいだろおれは悪く、いや、おれが、悪いんだけど……っ!」  頭を掻きむしった浬は、急に立ち上がると息を大きく吸い、ゆっくりと吐く。  そして呆気に取られていた宵央の方に向き直ると、珍しく表情のない顔のまま宵央の肩に手を掛けた。 「――よし。決めた。おれちょっとしばらく消えるわ」 「…………………えッ!?」  急に何を言い出すのか。  浬は大抵いつも急に言葉をぶつけるが、今日程過程を踏んでほしいと思ったことはない。 「いや、まあ、思うところはあったんだよ……いい加減、現実と向き合うべきっつーか、向き合う頃合いっつーか、まあいいきっかけだし。そんなわけでちょっと里帰りすっから、よろしく。もしかしたらそのまま帰ってこねえかもしんないし、そん時はおれのことなんざさっぱり忘れて良――」 「嫌ですけど!?」 「……ッスヨネ? うん、あー、そうね、あんまり未練みたいなもん、持っていたくないんだけど、仕方ないわなぁ。……じゃ、帰り待ってて。なんもなけりゃ二日で帰る」 「はい、あの、約束も、忘れてませんから」 「は? 約束? ……ああ、『おれのマヨさんに触んな』?」 「……どうして僕がスマホから手を離している時に言うんです?」 「だから録音はさせないって。任せろ、イケボでささやく練習しとくから」  本当は抱きしめてごねて頭を撫でてキスをしたかったが、渾身の気力を振り絞ってなんとか耐えた。  畳の下の『遺留品』の処分もするから、と、浬は一人でレンタカーに乗り込み、宵央の荷物を追い出してしまった。いまは出来るだけ、宵央と一緒にいない方が良い、と言う。おそらくは《禍喰み》の影響を疑っているのだろう。  宵央はタクシーを呼ぼうとしたが、敷井たちが駅まで送ると申し出てくれた。申し訳ない、と辞退したいところだったが正直渡りに船だった。ありがたく便乗させていただくことにして、さっさと帰路につく準備を始める。  他の参加者は皆まだ放心状態だったが、彼らもそのうち正気に戻るだろう。  面倒なことになる前に、立ち去ってしまう方が良い。  どうせ今後、宵央も浬も、彼らに会うことはない。  エンジンをかけた浬は、運転席の窓を下げて宵央に軽く手を振った。いつもどおりの、へらりとした顔だ。けれどほんの少し、照れたように視線を泳がせる。 「えーと、じゃあ、……行ってきます?」 「はい。いってらっしゃい」  誰かの帰りを待つことなんて、今まで一度もなかった。  宵央は孤独な子供時代を経て、今まで一人で生きてきた。誰とも交わらず、膝を抱えて耳を塞いで目を瞑り、怖いモノから身を隠すようにひっそりと。  いってきますと言われたことも、いってらっしゃいと送り出したこともない。憧れていた言葉を口にできた高揚と、浬の行方を知らない不安が入り混じる。  しかし、宵央に出来ることなど、何もない。ただ少し霊が視えるだけの、臆病な男だ。宵央に出来ることは、ただ『お帰りなさい』と言うために、彼の無事を祈る事だけだった。  後に宵央は、この日の別れをひどく悔やむことになる。  少しでも駄々をこねて、彼の手を離すべきではなかったのだ、と。

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