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【4】-09
がらんがらんと小気味のいい音が鳴る。
玄関のベルが揺れる度に宵央は背筋を正し、祈るような気持ちで《八ツ辻》の入り口を見つめるようになった。
しかし重いドアを押しのけて顔を出した人物は、待ち人である軽薄な顔の男ではなく、女性の二人組だった。
目に見えて肩を落とす宵央を叱るでもなく、癸はそっと背中を叩いてくれる。《八ツ辻》の店主は。見た目よりもずっと大らかで、そして情に厚いことを宵央は知っていた。
「あら、初めましてですかね? ようこそ怪談カフェ居酒屋《八ツ辻》へ。ご来店理由はふらりとお立ち寄り? それともどなたかのご紹介ですかね? きちんと面を用意してくださっていますねぇ、ご紹介かしら?」
「あ、あのっ、わたし、ええと、チリ、さんにご紹介していただきまして……!」
その声と名前に、宵央は反射的に顔を上げた。
緊張した面持ちで佇む小柄な女性と、彼女を支えるように立つパンツスタイルの細身の女性。二人とも古い能面を着用していたが、宵央にはすぐに彼女たちが誰か見当がついた。
三日前の朝に、某県の駅で別れた二人組――敷井と浅羽だ。
思わず声をかける寸前で、《八ツ辻》のルールを思い出す。
顔も名も、隠してこの場では過ごすこと。本名をぐっと飲み込み、お久しぶりですと頭を下げると、カウンターに座った敷井が行儀よく背を伸ばす。
「お久しぶりです、ええと……ま、真夜中さんっ」
「はい、真夜中と名乗らせていただいています。本日はご来店ありがとうございます。……あの、お連れ様もどうぞお席へ。ええと、僕の顔に何か……?」
「あ、いや、あのチワワみたいな子がちゃんとバーテンダーみたいになっててちょっとびっくりしただけっていうか……」
「ハネちゃん……!? し、失礼だよ!?」
「いやほんとに失礼だなわたし、ごめんねマヨくん」
そう言って腰かけた浅羽は『ハネ』の名札を、敷井は『式』の名札をカウンターに置いた。
「うんうん、当店のお作法もバッチリでございますね! 素晴らしい! とはいえ当店、そこまで厳格なルールを徹底しているわけではありませんから、どうぞお好きな方法でごゆるりとお過ごしくださいねぇ。わたし、店主の癸と申します。お二人のお話は真夜中さんから伺っていますよ。なんでも、幽霊屋敷からの脱出劇で大確約だったとか……」
「ゆうれい!?」
「やしき!?」
「常連はお呼びじゃないんですよ、若い子たちに絡むのは三回目のご来店以降になさい。ごめんなさいねぇこわいおじさんたちが浮足立っちゃって……あのおじさんたちはわたしが足止めしておきますから、お姉さんたちは真夜中さんと積もるお話でぜひともきゃっきゃしていってくださいね」
「みとちゃん、僕も幽霊屋敷の話が聞きたいんだけど!?」
「私も! 私も!」
「はいはい、猫と医者は落ち着きなさい。誰しもね、著作権フリーの場じゃ言いにくい怪談のひとつやふたつ、胸に秘めているもんでしょう。そんなに聞きたきゃあとで真夜中さんにねだりなさい」
「マヨちゃんに訊くのは可哀そう!」
「わかります! 真夜中さんには訊けないですね! 泣いちゃいそう!」
「薄々思っていたんですが、なんであなたたち真夜中さんには過保護なんです……?」
呆れたような息を零す癸は、ちらりと宵央の方に目配せして『そっちで話してなさい』と手を振ってくれる。猫屋敷のことも、ペスト医師のことも好きだし話も面白いと思うものの、今は敷井と浅羽を優先したかった。
何しろ宵央は、あの日の礼をまだ二人に伝えていない。
「あの……今日はご来店いただき、本当に嬉しいです。駅まで送ってくださったお礼をどうにかお伝えしたかったのですが、れ、連絡先を、聞き忘れてしまって……」
「いえいえいえ! というかわたし達こそ真夜中さんとチリさんに大感謝なんですから、そんな、頭上げてください頭~~~っ! ハネちゃん、なんでそんなまじまじ観察してるの!?」
「え、いや、見た目はイケメンバーテンなのに中身やっぱりほわほわチワワなんだなって感動してて……」
「あんまり失礼なコト言ってると本当に怒るよ……? わたし、本当に真夜中さんとチリさんがいなかったら、ハネちゃんともう二度と会えなかったかもしんないんだよ……?」
「大袈裟なーって、言えないんだよなー。……その節はあたし共々、大変お世話になりました。……チリさん、もしかしてまだ、帰ってきてないの?」
ウォッカにジンジャーエールを混ぜていた宵央の手が止まる。ここで誤魔化したところでどうしようもない。そう判断して、宵央は素直に『はい』と頷いた。
「何もなければ二日で帰る、と、仰っていたんですが……」
「そっか。色々報告したかったし、おしゃべりしたかったんだけど、まだ日を改めてだね。まじで急に窓が開かなくなって、一人で外で夜を明かさなきゃなんないのかって絶望してたんだよね。シキのことも助けてくれたし、本当に感謝してるから」
「こちらこそ、ハネさんの持ち物に助けていただきました」
「素人の心霊対策グッズがガチの霊能者さんに褒められてうれしいよ。……ええと、今日はね、マヨくん、チリさんのことでちょっと、マヨくんに伝えとこうかなって話があって」
「……千里さんの、ことで?」
「うん。まあ、話があるのはあたしじゃなくて、シキなんだけど」
「シキ……さんが」
ふと視線を向けると、椅子の上でカチコチにかしこまった敷井が宵央を見上げていた。こういう店には不慣れなのだろう。浅羽は怪談や心霊ものが好きだという話だが、敷井はほとんど付き添いのような印象だった。
今日も付添なのかと思っていたが、実際に夜中に用があるのは敷井の方らしい。
「あのー……チリさんが、帰ってきてたら訊きたいなァ、と思ってることがあって、今日お邪魔したんです……でも、いらっしゃらないなら、真夜中さんすごく心配してたし、真夜中さんにもお伝えしておこうかな、と思ったことがあって。ええと……わ、わたし、その、……ちょっと、幽霊が視えるんです」
「あ、はい。……知ってます」
「ですよねー……? 真夜中さんもチリさんも、廊下のなんか黒い人ひょいひょい避けてましたもんねー……?」
「シキさんも当たり前のように避けてましたし、もしかして視える方なのかなぁと」
その場では確認している余裕などなかった。なにせ霊感があろうがなかろうが、視えているくらいでは何の益にもならないことを、宵央自身が痛感している。
あの時の敷井の怖がりようは本物だったし、除霊ができる力があればもう少し堂々としていた筈だった。
「……たぶん、皆さん程霊感は、無いんです、わたし。視えます! って感じでもないし、時々なんか嫌な感じのものが視えたり、聞こえたりする程度で。でもウチの家系、昔はそういう仕事してたみたいで、血筋? 体質? 遺伝、っていうか。それでたまに、あのひとたちが何を言っているか、わかることがあるんです」
「……何を、言っているか、……」
「真夜中さん、あの時、何か変なもの視ませんでしたか?」
「へんなものですか?」
「井戸」
「――――……っ」
「あ、やっぱり井戸、視たんですね? 古い枯れた井戸と、その中のおじいさん。あれ、おばあさんかな……わかんないけど、ご老人が視えました、よね?」
「……視えました」
「良かった。わたしも視たんです。あれが何のイメージなのか、何かの霊障なのか、何もわかりません。でもわたし、あの人が何を言ったか、それだけはわかったんです」
「――口寄せ、って言うんだよ」
敷井のたどたどしい説明の合間に、浅羽が助けるように言葉をかける。
口寄せ。
それは死者の霊や神仏を自身の体に憑依させ、その霊に代わって言葉を語る降霊術だ、と言う。
「シキの家系は口寄せが出来る血筋みたい。ユタだかイタコだかどっちの方面かは知らないけど、シキはしっかりその血を受け継いじゃってて、時々言葉が入ってくるんだってさ」
「……それで、あの老人が言っていた言葉を、」
「はい。知りました。わたしはそれが一体何なのか、除霊に必要なのかどうかもわからなかったので、目が覚めたあとすぐにチリさんにお伝えしました。そしたらチリさん、しばらく黙ってしまって……」
難しい顔をしたまま黙り込んだ浬は、そのあとけろりと笑顔に戻って『それは幽霊屋敷にあんま関係ないから、忘れちゃっていいわ』と言った、らしい。
しかし敷井は忘れる事が出来ず、結局あれはなんだったのかとふと思い出しては不安を抱えていたという。
「チリさん、どこ行ったかわかんないんですよね……? その、もし真夜中さんに必要な情報だったら、と思って、お伝えしようと思ったんです。井戸の中の人の言葉――」
「その人は、何を」
「――いどで、」
井戸で待つ。
「…………そう言いました。まっすぐ上を見上げて、ただ一言」
「井戸で待つ……」
「こ、こんな短い言葉じゃなんのヒントにならないかもしれないんですけど、でも、言わないよりは、と思って、それで……っ」
「いえ、ありがとうございます。お話を聞けてよかったです」
ずっと、不思議な既視感があった。あの井戸と老人の纏ううすら寒い不気味な空気に。
今敷井からその言葉を聞いた瞬間、なぜかふと、その既視感に思い当たった。
あの井戸は、あの老人は、浬に憑いているモノに似ている。
――浬が《禍喰み》と呼ぶ、真夜中のバケモノに。
「……井戸……」
浬は里帰りをする、と言った。だとすれば、あの井戸は浬の生家にあるものなのだろうか。浬は今、あの井戸がある場所にいるのだろうか。
すっかり心ここにあらず状態になってしまった真夜中に代わり、浅羽と敷井の相手は癸と常連客が務めてくれた。元々心霊スポットに興味があったという浅羽は、ペスト医師や猫屋敷の披露する『実在する心霊スポットに関する怪談』に興味を引かれたらしく、またぜひ来ますからと元気に宣言して帰っていった。
敷井は最後に宵央にお辞儀をしてから、『次はチリさんに会いに来ますね』とほのかに笑った様子だった。二人とも気持ちの良い上客で、癸は上機嫌で閉店準備をこなしていた。
――ああ、マヨさん、先に帰っていいですよ。あなた最近、きちんと眠れていないでしょう? わかりますよ、顔を見れば、まったくあなた本当にわかりやすい子なんですから……。大丈夫、あの馬鹿はそのうちふらっと顔を出しますよ、ええ、今までだってそうだったんですからね、あんまり心配しすぎないようにね。いざとなったら、常連客総出で日本中を探し回ってやりますからね、うちはアレとは専属契約してるんですから。
そう言って宵央を追い出した癸は、さっさと帰って寝なさいよと小さな大福を投げてくれた。料理が下手な癸はいつも賄い代わりですよと言って、近所の和菓子屋で売っている饅頭や大福をおまけのように渡してくれる。
柔らかい大福を弄びながら、宵央は肌寒い夜の中を歩く。
夏至も過ぎたと言うのに、梅雨は根気強く居座ったまま、夜はまだうっすらと湿り気がある。
夏になったら流しそうめんしようぜマヨさん。
などと無茶な我儘をさらりと口にした浬を思い出し、涙の代わりに息が零れた。
いつも二人連れ立って、《八ツ辻》から宵央の住む古いアパートまで歩いた。ほんの数か月の日課でも、宵央の胸を苦しめるには十分な思い出だ。
一週間。
一週間待っても音沙汰なければ、癸に頭を下げよう。警察に行っても、宵央では相手にしてもらえない筈だ。宵央は浬の家族でもなければ、職場の関係者でもない。浬は常連客の中に興信所の所長が居る、と言っていた。お金を準備して依頼すれば、生家くらいはわかるかもしれない。
ふいに『おれのことなんか忘れて良い』などとひどい言葉を思い出しそうになり、すぐに『いってきます』と照れたように笑う浬で上書きする。
いってきます、と言ってくれたのだから、ただいまと言ってもらいたい。自分はそのつもりで待っているのだから。
とぼとぼと通常の倍以上の時間をかけてアパートに着くころには、もう深夜の二時を回っていた。
ほとんど住人も残っていない古すぎるアパートの鍵を取り出した宵央は、部屋の前でびくりと飛び上がった。
――宵央の部屋のドアの前に、何者かが立っている。
驚きすぎて心臓が止まりかけたが、すぐに生きている人間であることに気が付く。一瞬浬かと思ったがしかし、彼はすでに宵央の部屋の合いかぎを持っていた。わざわざ部屋の前で待つ必要はない。
一体こんな時間に何の用だろう。
友人などほとんどいない宵央には、深夜に訪ねてくる人間の心当たりなど微塵もない。
息を整え、胸を押さえつつ近づく。
「……あの……」
そんなところで何を、と言おうとした宵央はしかし、バッと顔を上げた男の勢いにたじろぎ後退ってしまう。
「あ……來摩、宵央さんですね!?」
「えっ、あ、はいっ、く、くるまは僕、ですが、僕の家に何の御用があってこんな時間に……」
「不躾な時間にお邪魔したことはお詫びします。ですがすいません、一刻を争う事態なのでご容赦ください」
「一刻を、争う……?」
「すいません、初めからご説明します。僕は、千同浬の弟です」
「――え?」
「あなたに、お願いがあって来ました。兄を、千同浬を助けてください」
真剣な様子で頭を下げる――彼のつむじは確かに少し、浬に似ているような気がした。
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