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【5】昔日は井戸の中
千同浬に怖いものなど何もない。
すべて浬に取り憑いている■■■ が喰らってしまうからだ。
幼い頃、浬の世界は怖いもので溢れていた。
浬はごく普通の少年で、好奇心は旺盛だったものの、どちらかと言えば引っ込み思案で外出を嫌う子供だった。
観光地やデパートは好まず、できれば家の中で図鑑を読んでいたいと思っていた記憶がある。うっすらとした、過去の自我の名残を思い返すたび、浬は苦々しい気持ちを持て余す羽目になった。
外が苦手だったのは、義弟が病弱だったことも影響していた筈だ。
浬の記憶にある限り、両親は常に義弟の世話に奔走し、家の中で最も重要だったものは義弟の健康度合いだった。
義弟が吐けば一家は大騒ぎになり、どんな深夜でも叩き起こされ病院に付き添った。義弟が寝込めば常に隣で様子を見守るようにと言いつけられた。
それでも浬は彼の事が嫌いではなかったし、家族として当たり前のように受け入れそれなりに大切にしていた。彼の事は怖いと思ったことはない。義弟に献身的すぎる両親の剣幕は少々恐怖を覚えたものの、寂しいと思ったこともなければ、辛いと感じたこともなかった。
昔から、あまり感情豊かじゃなかったなぁ、と苦笑する。
浬は病弱すぎる義弟を持っていた為に、よく『本家』に預けられた。
本家はとにかく、怖い場所だった。
両親など比べ物にならない程怖く理不尽な大人たちしか居なかった。子供と縁がなく、扱い方を知らなかったのだろう。浬はいつもあの家で、怒鳴られ詰られた記憶しかない。
やたらと広い敷地は常に閑散としていて、どこもかしこも空気が澱んだようにじっとりと薄暗い。随所にあるはずの窓が、明かりを取ってくれているように見えない。
やけに寒く広い台所。冷たく臭い古いトイレ。雨漏りがひどく木が腐った臭いがする縁側。埃っぽく虫の死骸を放置したままの玄関。誰かが四方から覗いている気配が濃厚な和室――どこもかしこも、浬にとっては怖かった記憶しかない。
本家の中で、一番怖かった場所がある。
井戸だ。
ぐるりとロの字型に巡っている廊下の中央の部屋。密閉された暗い中庭に位置する、枯れた古い井戸。幼い浬は、この井戸がどうしようもなく怖かった。
その中に、人が居ることを知っていたから。
「――あー。こういう時、なんて言ったらいいのかわっかんなかったんだけどさ。あんま良い記憶ないし、今でも思い出すときゃモヤァっとすっから、相当なトラウマなんだろうよって思うしさ。でもまあ、うん……行ってきます、とか、ふふ、なんか久しぶりに言ったらちょっと気分良かったし、そういう挨拶ってわりといいもんだよなって思い出したよ。アンタがそういうの、好きかどうかは知らんけどね。ええと、うん――ただいま、ノガミさん」
すっかり朽ちた廃墟の真ん中で、厳重に閉じられた井戸だったものの目の前で、千同浬は帰宅の挨拶を口にした。
井戸を背に立つ白い老人は、相変わらず、そう、昔と一切変わらない憤怒の形相で、浬を睨みつけていた。
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